元NWA世界ヘビー級王者 ジャック・ブリスコの反乱「ブラックサタデー」


1984年4月9日、NWAの重要エリアであるジョージア州アトランタ「GCW」が、突如WWF(WWE)に乗っ取られ、消滅する事件が起きた。この事件は後に「ブラックサタデー」と名付けられた。

1973年、ポール・ジョーンズとアン・ガンケルから株を買収したジム・バーネットは長らく分裂状態だったジョージア州アトランタのマットの統一この功績によりバーネットはNWA世界ヘビー級王者のスケジュールを決める権限を持つNWA副会長に就任、事実上NWAを牛耳ることになった。

バーネットが副会長に就任すると同時に、長らくNWAの首領として君臨してきたセントルイスのプロモーターであるサム・マソニックはNWA会長から辞任して最高顧問に就任、NWAはダラスのフリッツ・フォン・エリック、フロリダ州タンバのエディ・グラハム、アトランタ州シャーロットのジム・クロケット・ジュニア、カンザス州のボブ・ガイゲルが輪番制で1年ごとにNWA会長となったが、それと同時にNWAは4つに派閥に分かれ、4つの権力をバーネットは巧みにコントロールし、またジョージアマットもバーネットの手腕で活性化し団体名をGCWに改め、NWAの中でもギャラを稼げる黄金テリトリーの一つとなっていった。

 当時のNWA世界ヘビー級王者はジャック・ブリスコで、ジャックはオクラホマ州立大学ではレスリングの強豪として鳴らし、NCAA全米学生選手権では1964年に2位、1965年に優勝を果たしてい。通算戦績89戦87勝2敗という実績をひっさげ、地元オクラホマ地区のプロモーターだったレロイ・マクガークにスカウトされプロレスデビューを果たし、1967年には日本プロレスに初来日、デビュー2年目から次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補に浮上していた。
 ジャックは拠点をフロリダ州タンバに移すと、マサ斎藤を破ってフロリダヘビー級王座を奪取するなど、スター選手の地位を獲得、1973年10月にテキサス州ヒューストンでハーリー・レイスを破ってNWA世界ヘビー級王座を奪取したが、「飛行機のシートが私のベッドだ」と言葉を残した通り、王座を奪取してからNWA各エリアで防衛戦を行う過酷なスケジュールをこなすようになり、1974年11月に全日本プロレスのジャイアント馬場に一旦王座を明け渡したが、1975年12月にテリー・ファンクに敗れて王座を明け渡すまで、2年に渡り王座を保持し続けてきた。

ジャックの支援者であるグラハムはNWA会長の座を狙うためにバーネットに接近すると、ジャックはフロリダとバーネットのエリアであるジョージアマットことGCWを中心に防衛戦を行われるようになり、またジャックも弟であるジェリーと共に、GCWの株を取得してバーネットのビジネスパートナーとなった。ジャックはテリーにNWA王座を明け渡してからもフロリダやGCWを中心に活動を続けてきたが、ジャック自身はもう頂点は極めたとしてNWA王者に返り咲く野心もなく、NWA内の派閥争いにも嫌気がさしていたこともあって、現役を続けつつ引退後のことも考えて自動車修理の事業も手掛けていた。

GCWはアン・ガンケルが退いてからも、テッド・ターナーのWTBSが引き続き放送していたが、ケーブルネットワークのサテライト局の一つだったことで1981年からGCWの試合が全米で放送されるようなる。これまでのアメリカマットのテレビ中継はその地域でのプロレスしか視聴することが出来ず、ライブでプロレスを見ることが当たり前となっていたが、GCWのプロレスは全米で見られるようになってから、ライブからTVへの時代へと変わり始めており、その地区で行われるライブで行われるローカルプロレスを見なくなり、1979年にドリー・ファンク・ジュニアがアマリロのプロモートから撤退したのを皮切り、興行不振でプロモートから撤退して会員資格を返上するプロモーターが続出する。GCWが全米に向けて放送を開始したことはNWAでは「互いのNWAのテリトリーを侵害しないという原則原理に逆らう行為だ」と問題とされ、会員たちはバーネットに対して全米向けの放送を辞めるように勧告するが、バーネットはケーブルテレビという新しいメディアに理解を示さず、自分らの利益の事しか考えようとしないNWAの会員らに見切りをつけ始め、同じくケーブルテレビを使って全米放送を開始していたWWFに接近するようになった。この頃のWWFの名義上のボスは父親であるビンス・マクマホン・シニアだったが密かにビンスにバトンタッチし始めていた。

ところが1982年にバーネットが全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」にNWA側の来賓として招かれてジョージアを離れている間にブッカーであるオレイ・アンダーソンがオレイがクーデターが起こしGCWが乗っ取り、バーネットが追放される事態が起きてしまう。GCWの経営はバーネットやブリスコ兄弟だけでなく、ブッカーであるオレイ・アンダーソンも株主の一人となって参加しており、オレイは現役レスラー兼任でブッカーとして現場を取り仕切っていた。オレイは現役ではタッグ屋としても活躍、日本マットへの来日はブッカー業が多忙のため、数えるほどしか来日していなかったが、スタン・ハンセンからもベストブッカーとして高く評価されていた。しかし毒舌家のため選手との衝突も少なくなく、またブリスコ兄弟ともソリが合わなかった。オレイがクーデターを起こした理由は経営や利益配分をめぐって現場側のオレイと、経営側のブリスコ兄弟と対立していたことから、オレイが反乱を起こしたのもGCWの利益を独占することが狙いだった。

オレイの不意打ち的なやり方に反発したブリスコ兄弟もGCWを離れてジム・クロケット・ジュニアのエリアであるアトランタに主戦場を移したが、バーネットとブリスコ兄弟も黙っていなかった。オレイは所有している株は10%しか所有しておらず過半数を獲得するまでには至っておらず、バーネットも用心のため自身の持ち株を友人に預けており、オレイには渡っていなかったのだ。

バーネットとブリスコ兄弟は持ち株を合わせて反撃を考えたが、3人は持ち株を全てビンスに売却することを選択した。バーネットとブリスコ兄弟の行為はNWAを裏切る行為に等しいものだったが、WWFが全米侵攻も始まっており、WWFがジョージアにも進出してきたら勝てないだろうと判断したうえでの決断で、ブリスコ兄弟もNWAという組織に限界が来ており、WWEの侵攻に耐えきる力はないと見越していた。

1984年4月9日、オレイが病気の母を看病するためにジョージアを離れた隙を突いたバーネットとブリスコ兄弟は、ビンスにGCWの持ち株を売却、秘書から事態を知ったオレイは慌ててジョージアに戻ったが、時すでに遅く、テレビスタジオに入るビンスと側近だったゴリラ・モンスーンを捕まえて「ここから消え失せろ!」と迫ったが、ビンスは「私と一緒にやらないか?」と手を差し伸べると、オレイは「ふざけるな!!」と吐き捨て、その場を去っていった。

こうしてターナーのWTBCでWWFの試合が放送されることになった、これまで試合を重点的に置いていたGCWのスタイルから、ソープオペラ風のWWFの試合に突然変わり、また放送された内容も過去に放送された試合ばかりだったことから視聴者からの反発が起きてしまう。ターナーは契約違反だとしてビンスにWTBSのスタジオで新たにオリジナルの試合を組むことを要求、ビンスは不定期にスタジオ収録の試合を番組でWTBSで放送したが、思うように視聴率を稼ぐことが出来なかった。そこでターナーはビル・ワットのMSWAやオレイが旗揚げした新団体を放送すると、WWFより視聴率を稼いだことで、WWFはジョージアから撤退、放送時間枠もバーネットに代わってNWAを牛耳っていたクロケットに売却した。そしてクロケットはオレイの団体も買収し、こうしてジョージアはクロケットのエリアとなっていった。

その後、クロケットはセントルイスやフロリダなどNWAの有力エリアを買収、団体名もWCWに改めてWWEに対抗しようとしたが、ビル・ワットのUWFを買収した際に多額の負債も一緒に抱えることになり、たちまち資金難に追われてしまう。バーネットはこの頃はWWFの幹部となっていたが、裏ではクロケットと接触しており相談に応じていたものの、クロケットとの接触がビンスに見抜かれてしまい、バーネットはWWFから追われ、WCWの相談役として招かれた。その際に経営危機に瀕していたWCWをターナーに売却することをクロケットに進言したのがバーネットで、バーネットの手引きでWCWはターナーに売却、その後はターナーの資金力を得たWCWとビンスのWWFによる仁義なき戦い繰り広げることになる。

バーネットと共にWWFへ走ったブリスコ兄弟はWWFで現役を続けたが、長く現役を続ける気はなかったジャックは1985年に引退、ジェリーも引退してフロント入りしたが、ジャックは事業に専念するためマット界との繋がりは絶ち、表舞台に立とうとしなかった。ブリスコ兄弟がWWF入りする際にロード・ウォリアーズが「匿名の不満を抱く者から、5000ドルでブリスコ兄弟をタッグマッチで仕留める(潰す)」という申し出があったという噂があり、表舞台に立とうとしなかったのは身の危険を感じたからだとも言われたが、ジャック自身もマット界の人間関係の煩わしさから解放されたかったのかもしれない。

2004年にジャックはラスベガスで開催されたレスラー達のOBの集まり「カリフラワー・アレイ・クラブ」に出席して公の場に登場、日本プロレスや新日本プロレスで対戦したアントニオ猪木と再会、2008年にはジャックはジェリーと共にWWE殿堂入りを果たした。2年後の2010年にジャックは肺気腫で死去した。ジェリーは長年に渡ってビンスの側近として立ち、時にはリングにも立った。現在もWWEの一員として活躍している。

(参考資料 辰巳出版 Gスピリッツ Vol.55 『特集 UWF』)

 

 

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。