日本人覆面レスラー、デビル紫の数奇な人生


2021年5月21日、全日本プロレス新木場1stRING大会で「2021Jr.BATTLE OF GLORY」の出場選手が発表され、その中にデビル紫なるレスラーがエントリーしていたが、デビル紫はかつて国際プロレスに存在していたレスラーだった。

デビル紫こと村崎昭男は1942年大阪府八尾市に生まれ、テレビで力道山を見てからプロレスラーに憧れると、高校を卒業してからは海上自衛隊に入ったものの、プロレスラーになる夢は諦めきれず3年館在籍した海上自衛隊を除隊、ボディービルで身体を鍛えたが、ジムの会長が国際プロレスの吉原功社長と親友で、村崎はジムの会長の紹介を受けて国際プロレス入りしたが、村崎が入門した頃の国際プロレスは1967年1年にアントニオ猪木の東京プロレスと合同興行という形で旗揚げしたばかりで、吉原社長も人材発掘のためにジムを訪れていた。

村崎は田中忠治の指導を受け、サンダー杉山の付き人をこなしながら1968年1月5日の小倉で大剛鉄之助こと仙台剛戦でデビュー、若手だった寺西勇や井上末雄(マイティ井上)と共にしのぎを削り合っていたが、体重が増えずに出世には遅れ、同期だけでなく後輩までも先に海外へ出されたこともあって焦りを感じていた。

そんな矢先に吉原社長から「キャラクターを変えれば、ギャラを上げてやる」と言われたことがきっかけにリングネームは「デビル・紫」に改める。村崎はこれまで先輩だった豊登から「村崎小助」「村崎鬼三」「紫鬼三」とリングネームを改めたが、 「デビル・紫」 は自分で考えたもので、覆面ではなく髪を紫に染めてラフファイトに徹した。

ラフファイトに徹したことでやっと自分のファイトスタイルを見出した紫だったが、依然として海外武者修行へ出るチャンスに恵まれなかった。そこで1972年に紫は全日本プロレスに参戦することになる。全日本プロレスは旗揚げしたばかりで、日本人選手も手薄だったこともあって、ジャイアント馬場は国際プロレスと提携して国際プロレスから選手を借り受けていた。

紫は鶴見五郎と一緒に全日本の旗揚げシリーズに全戦参戦するが、その際に馬場から「ウチに来ないか」と勧誘を受けた。馬場も選手層が薄かったこともあって一人でも日本人選手が欲しかったのかもしれない、また元子夫人からも大変気に入られたという。この時は紫も丁重に断ったが、紫の運はこれだけでは終わらず、国際プロレスに参戦したディック・ザ・ブルーザーの付き人を務めると、ブルーザーに気に入られて「インディアナポリス(ブルーザーの主戦場)に来い」と誘われ、紫も「待っていたらダメだ。自分で動かなければ何も開けない」と吉原社長に直談判し、吉原社長も「わかった。行ってもいい」とあっさり認められたが、この時の紫は「ああ、俺なんか、戦力的にどうでもいいんだな」と思ったという。

会社命令ではなく直訴による武者修行のため団体側から渡航費用は一銭ももらえず、紫は仲のいいフロントである貫井成男氏から金を借りただけでなく、気に入ってくれた元子夫人からも餞別をもらって12月に日本を出発、最初はテネシーで大位山勝三と合流してタロー・ムラサキと名乗ったが、マネージャーだったトージョー・ヤマモトからギャラをピンハネを受けたという。大位山もヤマモトに可愛がられていことから味方にはなってくれず、大位山やヤマモトともケンカ別れしたムラサキはブルーザーのエリアだったインディアナポリスへ向かった。ブルーザーはインディアナポリスでWWAという団体を設立しておりプロモーター兼エースとして提携していたAWAと股にかけて活躍していた。ムラサキはブルーザーと再会したが自分のことなど憶えていないだろうと思っていた。ところがブルーザーはムラサキのことを憶えていており、早速ヒールとして売り出された。WWAは国際プロレスからアニマル浜口が参戦していたが帰国したため、日本人選手が欲しがっていたところだった。

ムラサキは日系人レスラーであるミツ荒川と組み、WWAでは馬場とも対戦したウイルバー・スナイダーやクラッシャー・リソワルスキー、力道山の肩を脱臼させたムース・ショーラックとも対戦、またヒールだったこともあってバロン・フォン・ラシクやボビー・ヒーナンともタッグを組み、スター選手も多かったこともあって高いギャラを得ることが出来た。

インディアナポリスで自信を得たムラサキはカナダのカルガリーに転戦し、デビュー戦の相手だった大剛と合流、大剛と仲は良くなかったが、互いに日本人が少なかったこともあって、この時ばかりは再会を喜び合っていたが、大剛は凱旋帰国が決まっており、国際プロレスでエース候補として売り出されることになっていたことから、その入れ替わりにムラサキがカルガリーへ呼ばれたのだ。

カルガリーにはヨーロッパから転戦してきた剛竜馬も合流、1974年3月18日、アルバータ州ハイリバーのハイウェイでムラサキが運転する車で大剛と一緒に会場へと向かったが、大雪で大会が中止となり、カルガリーへと戻ろうとする。ところが道路が凍結していたため脱輪してしまい、レッカー車を呼んできた大剛は車を引っかけようとしたが、そこで他の車が大剛を撥ね、ムラサキめがけて大剛の右足が吹っ飛んできた。

ムラサキは直ちに救急車を呼んだが、大剛は右足切断でレスラー生命を絶たれることになり、ムラサキも大剛を看病したが、この事故のショックでカルガリーを離れたがっていた。そこでメキシコEMLL(CMLL)へ行くことになり、リキードーザン二世として活躍していた全日本プロレスの百田光雄に行動するようになり、ヨーロッパから転戦した鶴見五郎も合流して共同生活を始めたが、メキシコでマスクマンに興味を抱くようになる。

鶴見と一緒にヨーロッパへ渡り、スペインやフランス、ドイツを転戦、この時にマスクを被って試合をしたという、本人も海外へ渡り歩く自由な生活を気に入っていたが、鶴見が先に帰国命令が出ると、さすがのムラサキも日本が恋しくなってきていたところで、ふと何気なくかった宝くじに当選して70万円を手にしてしまい、ムラサキは「海外へ出る時も、自分で決めたし、会社からも渡航の金も出なかった、今回も自分で決めなければ帰れない」と考えたムラサキは帰国命令が出ないまま日本に帰国した。

1976年10月に帰国したムラサキはすぐ事務所へ向かい吉原社長に成果を報告したが、この頃の国際プロレスは経営が苦しくなっていたことから、人が増えるとそれだけ経費がかかるとしてムラサキの突然の帰国を大変迷惑がっていた。それでも貫井氏のとりなしで「日本人初の本格マスクマン、デビル・紫」としてシリーズに参戦、ドイツで被っていた覆面を着用してデビル・紫に変身した。しかしブッカーだったグレート草津も無断帰国した紫を売り出す気はなく前座から中堅のポジションとして扱い。紫も「自分の意志で帰国して、すぐリングに上げてくれるだけでもありがたい」として自分自身を納得させて我慢していた。

紫は1979年8月26日に開催された「夢のオールスター戦」でオープニングのバトルロイヤルに出場、1980年になると寺西の保持するIWA世界ミッドヘビー級王座にも挑戦するなど、それなりにチャンスを与えられたが、無理をして体を大きくしようとした影響と長かった海外生活が祟って内蔵疾患となり、1980年5月のマイティ井上戦を最後に引退、吉原社長に薦めで営業に転じた。しかし、この頃の国際プロレスは団体としては瀕死の状態で、チケットの大半や興行は、ほとんど暴力団に買ってもらうというありさまであり、おまけに満員になったとしても、興行代金は踏み倒されることの方が当たり前のようになっていた。

また1981年に入ると営業にいた紫もチケットの売り上げや興行成績を見て「国際プロレスは長くない」と感じ始め、自分の手製のマスクやパンフレットを売ることで小遣い稼ぎをしていたが、8月9日北海道羅臼大会で国際プロレスは活動を停止、この頃の紫はメインレフェリーだった遠藤光男が経費削減で出場する機会が減ったことで、レフェリーとして駆り出されて覆面を着けたままレフェリーをしていたが、国際プロレスがなくなったらきっぱり辞めようと決めていた紫は業界を去った

その後タクシーの運転手など職を転々としたが、結婚したことを契機に綜合警備保障のガードマンの募集を受けると、海上自衛隊とレスラーだった経歴が買われて採用され、現金輸送の業務に携わり、定年まで勤めたが、その間に吉原社長も亡くなり、国際プロレスのレスラーが次々と亡くなっても、紫自身は業界には二度と携わらないとしてレスラー仲間との交流を絶っていた。

しかし辰巳出版の「Gスピリッツ」で企画されている「実録・国際プロレス」でインタビューに答えたことがきっかけになって公の場に登場。理由は年金がもらえるようになってレスラー時代を振り返る余裕が出来たからだという。2015年にはトークショーにも覆面を着けて登場し、鶴見五郎とも再会、国際プロレス時代を振り返った。

そのデビル紫も2017年10月23日に食道ガンで死去、75歳の生涯を閉じたが、晩年は孫に囲まれるなど幸せな生活を送っていたという。

そして今年全日本プロレスに登場するデビル紫は実質上2代目にあたるが、全日本でどんな活躍を見せてくれるか?

(参考資料 辰巳出版「実録・国際プロレス」ベースボールマガジン社「日本スポーツ事件史 Vol.15 引退の余波」)

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