最後のIWGPヘビー級王座戴冠…棚橋、中邑の壁となって立ちはだかった武藤敬司!


2008年4月27日、大阪府立体育会館で当時全日本プロレスを率いていた武藤敬司がIWGPヘビー級王者だった中邑真輔に挑戦した。

当時の新日本プロレスはゲームソフト会社のユークスが親会社となった”ユークス期”に入っており、この年の1月4日の東京ドームで中邑真輔が棚橋弘至を破ってIWGPヘビー級王座を奪取、また新日本とIGFの間でトラブルの一端となっていた3代目IWGPヘビー級ベルトも中邑が所有者であったカート・アングルを破って無事回収に成功、これを受けて3代目ベルトも封印して4代目IWGPベルトへと生まれ変わっていた。

アングルを破りIWGPを統一したことで、中邑時代が到来かと思われていたが、初防衛戦の相手として武藤を迎えることになった。当時の新日本プロレスはユークスの援助があったとしても台所は火の車の状態で、王者が中邑になったとしてもまだまだ人気は回復には至っておらず、観客動員も苦戦を強いられ、社長だった菅林直樹みずから節約を率先するほどだった。

これまでの新日本プロレスは創設者である猪木が土台となっていたが、その猪木がいなくなったことで新しい土台が必要となっていたが、棚橋や中邑ではまだまだ土台となる存在にはなりえていなかった。そこで菅林会長が目を付けたのは武藤だった。武藤は猪木の敷く格闘技路線に反発して全日本プロレスへ移籍、社長に就任して経営では悪戦苦闘を強いられていたが、レスラーとしては90年代の頃と比べてスピードが落ち、身体のキレもなかったものの、アメリカで磨き上げた表現力や、生まれついてのスターだけが持つオーラ、ウェイトトレーニングで作り上げた肉体美はまだまだ衰えておらず、ファンを魅了する力は充分に残っており、新日本でも絶大な影響力を持っていた。菅林会長は猪木から武藤をベースとした新日本プロレスへの転換を図かるために、武藤に新日本参戦をオファーし、IWGPヘビー級王座への挑戦者として迎え入れたのだ。

試合は中邑は武藤の左腕めげてキックからチキンウイングアームロック、アームブリーカーと左腕攻めで先手を奪ったかに見えたが、武藤は場外へエスケープして呼吸を整えてからエプロンに上がり、中邑がドロップキックで武藤を場外へ落としてからプランチャを狙ったが、武藤が避けて中邑が着地すると、無防備になった中邑の右足めがけて低空ドロップキックを放ち、中邑を鉄柵に叩きつけてからシャイニングウィザードを炸裂させ、中邑は鉄柵外へ出されると、武藤は鉄柵越しでのドラゴンスクリューを敢行して中邑の右膝に大ダメージを与える。
リングに戻ると武藤は低空ドロップキック、ドラゴンスクリューから足四の字固めと得意の足攻めに持ち込んで、中邑をアリ地獄へと引きずり込み、中邑はやっとロープに逃れても武藤の足攻めは続くが、中邑は武藤の足四の字固め狙いを切り返して三角絞めで捕らて反撃するが、武藤はロープの逃れると張り手のラリーから低空ドロップキック、首相撲からニーリフトを浴びせる中邑の右膝をキャッチしてドラゴンスクリューを決め、もう1度ドラゴンスクリューを狙うと中邑は飛びつき三角絞めで捕らえて武藤を絞めあげるも、武藤はロープに逃れる。
中邑は武藤にラリアットを連発してムーンサルトプレスを命中させるが、連発狙いを武藤が避けると両膝を強打した中邑に再び低空ドロップキックを連発してからドラゴンスクリュー、足四の字固めと再び捕らえてプロレスLOVEポーズまで見せる。
長時間捕まった中邑はやっとロープに逃れ、ドラゴンスクリューを狙う武藤に延髄斬り、ニールキックと浴びせて連続ジャーマンスープレックスホールドと反撃、当時フィニッシュにしていたランドスライドを決めたが、武藤はカウント2でキックアウトする。
中邑はタイガードライバーを狙うが、武藤はリバースして突進する中邑に低空ドロップキック、串刺しシャイニングウィザード、シャイニングウィザードを狙ったが、ガードした中邑はアングルを破った巻き込み式腕十字で捕えて勝負に出るも、またしてもロープに逃れられてしまう。
中邑は再度ランドスライドを狙ったが、膝蹴りで阻止した武藤はタックルを狙いに突進する中邑の顔面に低空ドロップキックを放ち、エプロンに逃れた中邑にネックスクリューを敢行して、中邑の首にも大ダメージを与える。
勝負に出た武藤は前から後とシャイニングウィザードを連発、正面からのシャイニングウィザードを炸裂させると、中邑も起死回生のシャイニングトライアングルを狙ったが、武藤はパワーボムで叩きつけてからシャイニングウィザードを炸裂、そしてムーンサルトプレスで3カウントを奪い、完勝で王座奪取に成功した。

観客も最初こそは中邑に声援を送っていたものの、いつの間にか武藤コールが巻き起こり、テレビ朝日の実況アナウンサーでさえ「お客さんは武藤コール!これは紛れもない事実であります」と叫ぶぐらいだった。自分も会場でこの試合を観戦していたが、終盤では武藤コールで湧き上がっており、まさしく武藤は新日本、全日本の枠を越えた大きな存在であることを改めて痛感させられてしまった。

試合後のバックステージインタビューでは武藤も「新日本プロレスのレスラーも、新日本プロレスの社員も、新日本プロレスの関係者も潤うようなまぶしいチャンピオンになることを誓って頑張りますよ、それがオレがベルトを取った意義」とコメントしたが、それはまだ中邑だけでなく左膝の負傷で長期欠場していた棚橋では新日本を背負うだけの力がないと言われたのと同じで、二人にとってこの上ない屈辱だった。

武藤は全日本プロレスの合間にIWGPヘビー級王者として新日本に参戦、721日の月寒では中西学、831日にはこの年のG1 CLIMAXを制して敢えて敵地の全日本プロレスに乗り込んで挑戦した後藤洋央紀、921日にはヒールに覚醒したばかりの真壁刀義を粉砕して王座を防衛、1013日の両国では中邑が再び武藤に挑んで、ムーンサルトプレスはキックアウト出来たものの、突進したところで武藤の奥の手であるフランケンシュタイナーを食らって3カウントを奪い返り討ちにされてしまうが、武藤の参戦は新日本にとっても経済効果をもたらすだけでなく、また武藤自身もこの年のプロレスMVPを獲得するなど、プロレス界全体に武藤の存在を再び大きくアピールすることが出来た。

2009年1月4日には新日本の最後の切り札として棚橋が挑戦、棚橋は武藤のお株を奪う足攻めで先手を奪い、武藤も足攻めで流れを変える。棚橋はハイフライフローを投下したが、連発狙いが避けられると、武藤はすかさずムーンサルトプレスを狙ったが、左足攻めが効いていたせいか仕掛けに手間取って避けられてしまい、この隙を逃さなかった棚橋がハイフライフローを連発して3カウントを奪い王座奪取に成功、この試合をきっかけに棚橋はファンから支持されるエースへと伸し上がり、新日本プロレスで一時代を築き上げ、武藤政権がきっかけとなって新日本プロレスは猪木から武藤を土台とした新しい新日本プロレスへの転換に成功した。

2021年2月12日、NOAH武道館大会で58歳となった武藤は潮崎豪を降してGHCヘビー級王座を奪取、そしてNOAHの所属選手として招かれた。2008年にIWGPを奪取したころと比べて武藤の膝は人工関節となっており、ムーンサルトプレスなど飛び技は使えなくなったが、アメリカで磨き上げた表現力や、生まれついてのスターだけが持つオーラ、ウェイトトレーニングで作り上げた肉体美はまだまだ衰えておらず、ファンを魅了する力は充分に残っている。果たしてその武藤敬司を越えて一時代を築くレスラーはNOAHの中で誰になるだろうか…

(参考資料=柳澤健著「2011年の棚橋弘至と中邑真輔」 武藤敬司vs中邑真輔は新日本プロレスワールドにて視聴できます)         

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