1995年5月11日、UWFが解散した前田日明は横浜アリーナにてリングスを旗揚げ、一人だけの旗揚げとなった前田に強力な助っ人らが果たした。それはクリス・ドールマン率いるリングス・オランダ勢だった。
1976年2月6日、日本武道館でアントニオ猪木vsウイリアム・ルスカの異種格闘技戦が行われ、試合は猪木がバックドロップの連発でルスカが戦意を喪失したためタオルが投げ込まれて、猪木がTKO勝利となったが、このタオルを投げたのがドールマンだった。それから10余年、サンボ世界選手権で優勝したドールマンは1988年1月にイタリア遠征に来た猪木に対戦を申し入れ、猪木も乗り気となって5月8日の有明コロシアム大会への参戦が取りざたされたが、4月に猪木は左足甲を骨折(実際は糖尿病の悪化)したため、猪木との対戦は幻に終わってしまった。

そのドールマンに目を付けたのは新生UWFだった。新生UWFは旗揚げしたばかりながらも、様々なメディア戦略やライブ方式を取り入れた演出方法を駆使して一大ムーブメントを起こしていたが、6人だけの旗揚げということで選手層が薄く、カール・ゴッチのブッキングでアメリカからノーマン・スマイリーが参戦しても、まだまだ選手層は乏しく、外国人選手の招聘も課題の一つとされていた。前田はドールマンがサンボだけでなく柔道、アマレス、パワーリフティングなど数々のタイトルを保持している経歴に目をつけ、ドールマン招聘へ動いた。
ドールマン参戦は新日本プロレスもあきらめたわけでなく、1989年4月24日に開催される初の東京ドーム大会の目玉の一つとして交渉していたが、ドールマンはルスカの敗戦を目のあたりにしたこともあって、プロレスをベースにした異種格闘技戦に難色を示していた。そこでドールマンがUWFのビデオを見るとリアルスティック(現実的)でハードな戦いに着目、またドールマン率いるオランダ軍団はパウンサーと呼ばれる酒場の用心棒を生業にするケンカ屋が揃っており、ケンカに通じるのはUWFだと感じた。
ドールマンは新日本ではなくUWFを選択し、5月4日の大阪球場大会に参戦、メインで前田と異種格闘技戦で対戦し、この時はドールマンも足を痛めていたこともあって敗れてしまったが、二人は意気投合し、ドールマンは新生UWFにディック・フライなどを送り込み、UWF最初で最後の東京ドーム大会である「U-COSMOS」ではドールマンも参戦するなど、前田とドールマンの信頼関係は深まり、前田がオランダを訪れた際にはドールマンに「これから協力し合ってUWFオランダを作ろう」と話し合っていた。

ところが前田は1990年に入ると社長だった神信二社長とUWFの経理を巡って対立を生じ始めてしまい、UWFオランダ設立どころではなくなり、ドールマンもオファーがかからなかったことから前田との交流も一旦途絶えてしまう。それに目を付けた新日本プロレスは坂口征二社長と外国人ブッカーだった大剛鉄之介と共にオランダに訪れドールマンに再びオファーをかけた。新日本プロレスはこれから橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司の闘魂三銃士の売り出そうとしており、3人にドールマンと対戦させようとしていた。
ドールマンも「前田やUWFからのオファーがないことから、UWFで闘うチャンスはない、またフライなど若い選手にもチャンスは与えなければならない」と考えて、新日本参戦に傾きかけ、新日本もドールマンが参戦することを発表していた。
そこで前田からドールマンにやっと連絡が入り、前田が「会いたい」と要請を受けて来日、前田とドールマンは何度か食事、酒を汲み交わしながら生まれかけた溝を埋め、前田が新日本の契約書を見ると「ウチはゼロからのスタートだから、新日本ほどギャラは出せない」と話したが、ドールマンは金より前田との友誼を優先、新日本からのオファーを断ってUWFに残留となり、前田も最低でも1興行に1人か2人、ドールマンがブッキングしてきたオランダ軍団の試合で起用してきた。
しかし、前田と神社長らフロントとの亀裂は埋めがたいものになり、前田は選手らと団結して神社長らフロントと決別、新体制を発足してUWFを継続させようとしたが、団結したはずの選手らもそれぞれの思惑の違いが表面化し、前田と決別してUWFは分裂してしまう。

慕われていたと思っていた選手らに見限られた前田は孤独となり、意気消沈して一時は自宅に引きこもっていた。そこで前田を支持する周囲の人らから励まされたことで、前田は一人だけで旗揚げすることを決意、開局間近だった衛星放送有料テレビ局WOWOWも、最初こそは目玉コンテンツとしてUWFと契約し放送する予定だったが、UWFの解散で契約は宙に浮いてしまうも、前田が旗揚げを決意したことで全面バックアップすることを決める。
WOWOWという大きな後ろ盾を得た前田にドールマンから留守電が入っていた。実は新日本もドールマンを諦めたわけでなく、UWFが分裂すると再びドールマンらオランダ軍団獲得に動いていた。ドールマンは新日本からのオファーを断り、前田に連絡を入れようとしたが、前田は「問題はあったが事態はいい方向に進んでいるから、心配しないでくれ」とファックスで返事を出すだけだったが、ドールマンは前田に「例え、マエダが1人になっても他団体と接触することはない、日本人選手がみんないなくなっても、マエダはマエダでなくなるわけでない、だからオレはどこまでもマエダをバックアップしていく、今こそオレがマエダを支えていく番だ」と前田を励まし、全面バックアップを約束した。
ドールマンの全面協力によって新団体リングスが始動し、旗揚げ戦にはドールマンだけでなく、フライなどオランダ軍団が参戦、新生UWFではリングアナを務めた古田信幸氏も前田に追随してリングスに参加、その後オランダ軍団はリングスオランダとなって、長き渡ってリングスに選手を派遣し続け、自らも選手として出場する他、弟子や一流格闘家を送り込むなど、指導者やマッチメーカーとしてもリングス発展に尽力していった。1992年にはリングス最強を決めるメガバトルトーナメントが開催され、ドールマンは準決勝で前田を破り、決勝では愛弟子のフライを破って優勝を果たした。

リングスもリングスジャパンとなり、前田も長井満也、山本宜久、成瀬昌由、高坂剛、坂田亘など輩出、また1995年にはドールマンもオランダ・アムステルダムにてリングスオランダによる初興行も実現していったが、この時にはドールマンは引退を決めていた。この年の4月2日、ベースボールマガジン社主催「夢の懸け橋」によるリングス提供マッチでドールマン日本引退試合として前田vsドールマンが行われ、試合は前田がヒールホールドで勝利を収めたが、試合後に前田はリングスのスタート時点でドールマンがいなければ、こういう状況は不可能でした」とドールマンの功績をたたえた。

その後、前田も1999年に引退したが、この頃から総合格闘技イベント「PRIDE」がスタートすると、リングスも対抗してMMAを強めたKOKルールを導入したが、フジテレビをバックに付けたPRIDEが資金力に物を言わせてリングスから選手を引き抜かれていく、そしてリングスをバックアップしてきたWOWOWもUFCを放送することを決定、リングスの中継は打ち切りとなってしまう。、前田も赤字になるまで続ける意志はなく、リングスは総合格闘技という時代の波に押される形で活動休止を余儀なくされた。
一方ドールマンは。現役引退後も格闘技の発展に尽力しており、リングスの名前を大会を開催している。リングスは前田とドールマンがいなければ成立しなかった。まさしく二人あってのリングスだった。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.6 強豪外国人、襲来」)
コメントを投稿するにはログインしてください。