新生NWAが発足されると、会員にはアメリカ各州だけでなく以外にもカナダのカルガリーやメキシコまで広がり、1955年には38人まで会員が増え。またNWA会長となったサム・マソニックは誠実さで信頼置ける人物としてNWAでリーダーシップを発揮、マソニックのエリアであるミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムは、全米のNWA各エリアからトップ選手を招いて、シングルマッチを中心に豪華なカードを組んで定期戦を行い、世界一質の高い、最高レベルのプロレスをファンに提供することから、NWAの総本山と呼ばれており、レスラーだけでなくレフェリーとってもキール・オディドリアムに出場することは名誉とされていた。



NWA世界ヘビー級王者として長期に渡って君臨していたルー・テーズがエドワード・カーペンティアに反則負けを喫すると、王座はルールによって移動はならなかったものの、カーペンティアはテーズに勝ったとして世界王者を名乗って防衛活動を始めたことで、再び各地区での世界王者の乱立を招いてしまう。日本遠征を終えたテーズはディック・ハットンに敗れ王座から転落、ハットンからパット・オコーナーにベルトが渡ると1960年にバーン・ガニアがミネソタ州のプロモーター達を抱き込んでNWAを脱退してAWAを設立、カリフォルニア州のロスサンゼルスでもWWAが設立されカーペンティアが王者となり、ニューヨークのビンス・マクマホン・シニアもWWWF(WWE)を設立してバディ・ロジャースが初代王者となるなど、NWAに対抗する競合組織が誕生する。しかし、AWAが誕生する前のNWAは行政から独占禁止法違反の疑いがかけられており、裁判所や検察局に調査に入られる可能性が高かったことから、NWAにとっては競合組織が誕生するのは大歓迎で、後にWWAもWWFもNWAに再加盟し、ガニアもセントルイス地区の株を取得して経営に参加しており、総会でもオブザーバーとして招かれていたことで、競合団体が現れてもNWAを中心に共存共栄が守られ、NWAの会員も日本、オーストラリアまでネットワークが広がり、日本では日本プロレスの芳の里、全日本プロレスのジャイアント馬場が会員となり、NWAもマソニックを中心に隆盛を極めるかと思われていた。


ところが1972年にジョージア州の選手兼ブッカーだったレイ・ガンケルが試合中に死去すると、プロモーターだったポール・ジョーンズとレイの妻であるアン・ガンケルの間で内紛が起き、アンは地元レスラーを中心とした新団体を後にWCWを所有するテッド・ターナーの支援を受けて旗揚げすると、NWAが支援するポール・ジョーンズ派と興行戦争に発展し、NWA側も各エリアからのスター選手をジョージアに召集してアン派を潰しにかかるが、ターナーの支援を受けたアン派の牙城を切り崩すまでには至らず、興行戦争も長期化してしまい、会員たちもスター選手を派遣するのを渋り出してしまう。そこでオーストラリアで大成功を収めていたジム・バーネットが解決策としてアン、ジョーンズから株を買い上げることを提案するが、条件としてNWA世界ヘビー級王者のスケジュールの決定権を握る立場であるNWA副会長の座を要求する。マソニックも長期化する興行戦争を終結するためバーネットの条件を受け入れ、ジョージアでの興行戦争はバーネットが双方の株を買い上げることで終結するが、マソニックはこの責任を取る形で会長を辞任する。

NWA会長の座は輪番制となり、テキサスのフリッツ・フォン・エリック、フロリダのエディ・グラハムと代替わりして、新日本プロレスもやっと会員になることが許されるも、エリックは現役選手も兼務しているため1年で会長を辞し、後任のグラハムにいたっては体調不良で任期も待たずに辞任したため、実質上は副会長となったバーネットが取り仕切っており、マソニックは会長は辞しても最高顧問として目を光らせていたが、1976年にバーネットは全米に配信されるケーブルテレビに目をつけるとターナーと組んでジョージア地区のプロレスを全米に向けて放送を開始する。これまでのアメリカのプロレスはその土地でのプロレスしか見ることが出来ず、他の地域のプロレスは見ることが出来なかったが、ジョージア地区が全米向けに配信したことで、その土地のライブでやるプロレスは見なくなり、ケーブルテレビを取り入れていない他のエリアにとって死活問題となっていく、また選手らは車を主に移動手段としていたがガソリン代の高騰したことも重なり、経営が立ち行かなくなったテリトリーが続出、1978年にアマリロ地区でドリー・ファンク・ジュニアがプロモートから撤退してNWA会員を返上したのを皮切りに、撤退するエリアが続出する。「テレビはあくまでライブを見てくれる道具に過ぎない」と考える古株の会員たちはバーネットに対して全米向けの中継を辞めるように勧告するが、バーネットは「全米向けの中継を辞めるつもりはない」と勧告を無視し、顧問だったマソニックもこの頃から総会にも出席しなくなっていた。
1982年にマソニックはプロモーターから引退する。マソニックは愛妻を亡くしたショックでやる気を失っており、高齢になったことも重なっての引退だった。そして1983年のNWA総会になるとWWFのビンス・マクマホン・シニアとバーネットがNWAを脱会する。WWFもビンス・シニアからビンス・マクマホンへの移譲が始まっており、1981年からケーブルテレビにて全米向けに中継を開始していた。1984年になるとWWFは全米侵攻を開始、まず最初に狙いをつけたのはマソニックのエリアでNWAの総本山であるセントルイスだった。セントルイスはマソニックが引退後はブッカーだったパット・オコーナー、カンザス州のプロモーターでNWA会長にもなったボブ・ガイゲル、AWAのガニア、そしてハーリー・レイスの共同で運営されていたが、マソニックが去った影響で客離れを起こしており、またマソニックの片腕だったラリー・マティシックがオコーナーに冷遇されたため退社、ブルーザー・ブロディをエースにして新団体を旗揚げしたため分裂状態となっていた。WWFはセントルイスのローカル局から放送枠を買い取ってWWFの試合を放送を開始し、ただでさえ客離れを起こしていたキール・オーディトリアムは観客動員は激減する。

この頃のNWA会長はガイケルとなっていたが、ビンスのWWEに太刀打ちできるのはアトランタのプロモーターで王者であるリック・フレアーを要していたジム・クロケット・ジュニアしかおらず、NWAも実質上クロケットが権力を握っていた。1985年になるとクロケットはセントルイスを買収、総本山とされたキールはNWAの実権を握ったクロケットの興行先の一つと化し、WWFが撤退したジョージア、フロリダなど有力エリアを買収、NWA総会も1985年を最後に行われなくなったことで、テリトリー制は崩壊、クロケットもWWFとの興行戦争に敗れて経営難となり、ターナーに自身のプロモーションを売却、新団体WCWが発足し、NWAもWCWの中に存続されクロケットもNWA会長としてWCWに留まった。


WCWでもフレアーがNWA王者として君臨するが、WCWは新日本プロレスと提携する。新日本プロレスはマソニックが退陣してからやっと会員となったが、NWA世界ヘビー級王座の派遣は全日本が最優先とされ、新日本には派遣されることはなかった。1991年3月の新日本プロレス東京ドーム大会で藤波辰爾が自身のIWGPヘビー級王座をかけてフレアーとダブルタイトル戦を行い、藤波が勝って新王者となったが、WCW側からのクレームを入れたことがきっかけにWCW世界ヘビー級王座が誕生、その後フレアーが藤波を破ってNWA王座を奪還したが、WCW側とフレアーの間で亀裂が生じ、フレアーはNWAベルトを持ったままWWFへ移籍してしまう。空位となったNWA王座は「第2回G1 CLIMAX」でかけられることになり、蝶野正洋が優勝して新王者となり、新日本プロレスの社長だった坂口征二が会長となったが、坂口は名目上だけにすぎず、実質上はWCWが管理していた。


王座は蝶野からグレート・ムタに渡るも、ムタがバリー・ウインダムに敗れて王座を明け渡し、再びフレアーに戻ったが、1993年にWCWはNWAから脱退、NWAは団体として存属したが、かつての権威は取り戻すことが出来なかった。
その後NWAは組織が代替わりし、2012年にブルース・サーブがNWAの実権を掌握すると加盟プロモーターによる合議制から、加入希望者がNWAに対し標章使用料を支払うライセンス制度に変わり、新日本プロレスとの提携を開始してNWA世界ヘビー級選手権が行われた、2017年にはビリー・コーガンがNWAは名前、商標、ベルトなどを購入したためコーガンのプロモーションとなっているが、現在もNWA世界ヘビー級王座は存在している。
NWAの会長として君臨したマソニックは1998年に死去、NWAはマソニックがいたからなりえた組織であり、しかしケーブルテレビというパンドラの扉を開き、マソニックが引退した時点でNWAは終わっていたのかもしれない。
(参考資料=GスピリッツVol.57「NWA」ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.18 会場・戦場・血闘場)
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