1975年8月1日、ロスサンゼルス・オリンピックオーデトリアムでアントニオ猪木は坂口征二との黄金コンビで保持していた北米タッグ王座にジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッドブロンドスが挑戦、試合は3本勝負で行われ1本目は猪木がジャパニーズレッグロールクラッチでロバーツから3カウントを奪うも、2本目ではブラウンの凶器攻撃を受けて猪木は流血した上でブロンドズのダブルブレーンバスターを受けて猪木がフォールを奪われてしまい、決勝ラウンドの3本目ではゴング前からブロンドズの猪木が襲撃を受けて立ち上がれないため、裁定は無効試合となって、保持していた北米タッグ王座はコミッション預かりとなってしまった。



猪木は6日にIWAに参戦していたルー・テーズにオファーを掛けるためにニューヨークへ立ち寄り、9日にWWWFのビンス・マクマホン・シニアとも会談して12月にMSGに参戦する契約を結んで14日に帰国、19日には次期シリーズに向けて調整に入ったが、ここで左膝に痛みを感じ始め、20日には「ストロング小林後援会」発足パーティーに出席するも、その夜に40度に渡る高熱に襲われてしまう。
猪木は近所の病院に駆け込んで強い麻酔注射を打ってもらい、翌朝には主治医の治療を受けると「ビールス性関節炎」の診断を受けた。感染性関節炎は、関節液や関節組織の感染症で、通常は細菌感染が原因となっており、ウイルスや真菌の感染によって起こることもあると言われている、8・1ロスでのハリウッドブロンドス戦で凶器攻撃を受けた際切り傷が出来て、そこから細菌が入り込んで膝関節に広がり、痛みや高熱を起こしていたのだ。
当然ながら猪木は即入院となり、8月22日から開幕する北米タッグ王座決定戦のため来日したハリウッドブロンドスが参戦する闘魂シリーズを欠場することを余儀なくされ、開幕戦の大会前に坂口が副社長としてリング上で猪木欠場を正式に発表、大黒柱の猪木の欠場は新日本にとっても大きな痛手だったが、この頃には坂口、そしてフリーだった小林も正式に新日本に入団していたこともあって、猪木の抜けた穴は充分に埋め切れたものの、観客動員に大きな影響をが出てしまい、27日に開催された田園コロシアム大会も、猪木の代わりにジョニー・パワーズと対戦した坂口が大奮戦するも、観客動員は4200人と不入りに終わり、既に興行を買ってくれたプロモーターにも営業が猪木欠場に詫びに周った際には売り興行の値引きを要求されるなど大苦戦を強いられ、肝心の猪木も治療に専念したいためかマスコミの取材には一切応じず、猪木は左足を切断しなければならないのではという噂も飛び交うようになった。

9月4日に猪木が病院から帰ると、張り込んでいた東京スポーツの桜井康雄氏の取材にやっと応じ、発見が早かったおかげて左足の切断は免れていたことを説明したがすぐ復帰できる状態ではなく、来週からトレーニングを再開するとコメントしたが、9月22日の愛知で行われる北米タッグ王座をかけてのハリウッドブロンドスとの再戦は、10月9日の蔵前でNWFヘビー級王座をかけてテーズとの対戦が決まったこともあって大事を取り出場を断念、11日の福岡での復帰を目指してトレーニングを再開するも、まだ左膝に重心を傾けられないことから福岡大会の出場は断念、来場だけにとどまり、やっとファンの前に現れた猪木は欠場を詫びると「ワールドプロレスリング」のテレビ生中継が入る19日の千葉大会から復帰することを発表した。
19日の千葉大会から復帰した猪木は坂口、メインは小林と山本小鉄に任せてセミ前に登場、エースである猪木がセミ前に登場するのは異例だったが、この日着用したのは田吾作タイツと言われた黒のロングタイツだった。猪木がロングタイツを着用するのはテネシー州で武者修行していた時にプロモーター命令で着用した時だけで2度目、ロングタイツは本来に膝に古傷を隠すために着用すると言われているが、さすがに猪木も左膝に不安を抱えたままということで今回は敢えて着用、復帰戦の相手も左膝の具合を確かめるために元NWF王者のベテランでタイガー・ジェット・シンと一緒に伊勢丹で猪木を襲撃したジャック・ルージョー(WWEで活躍していたジャック・ルージョーは息子)を選んだ。

復帰戦はグラウンドの攻防も、ルージョーはセオリー通りに猪木の負傷箇所である左膝を攻め始め、猪木もエルボースマッシュで流れを変えると、キーロック、鎌固めと捕らえるが、鎌固めはブリッジを要する技だけに、左膝の不安で長時間ブリッジが出来ずギブアップを奪うまでには至らない。ルージョーは猪木の左膝をエプロンの角に叩きつけるラフに出て猪木を苦しめる。そしてロープ越しでヘッドロックで捕らえると、その隙を突いた猪木がバックドロップを狙ったが、左膝の踏ん張りが効かないせいかルージョーは体を入れ替えて浴びせ倒す。それでも猪木はドロップキックを放ってから再びバックドロップで3カウントを奪い復帰戦を飾ったが、バックドロップもドロップキックも左膝の不安やブランクもあって満足するものではなかったものの復活への手応えは充分につかめた。




猪木は戦列に戻ったが、22日の愛知で行われた北米タッグ王座決定戦は坂口と小林が敗れてしまい、ハリウッドブロンドスが王座を奪取する。猪木は坂口との黄金コンビで10月2日の大阪でハリウッドブロンドスに挑んで2-1で破り王座奪還に成功、10月9日のテーズ戦では開始から猪木はテーズのバックドロップを食らうも、猪木は初公開のブロックバスターホールドで3カウントを奪い、NWF王座を防衛した。

北米タッグを巡って黄金コンビと抗争を繰り広げたハリウッドブロンドスは4度に渡って新日本に参戦、北米タッグ王座は坂口&小林、坂口&長州力へと代わり王座へ挑んだが奪取できず、1979年8月の来日の後でチームを解消、ブラウンはアメリカ各地を転戦して、カンザスではブルーザー・ブロディと組んで全日本プロレスから遠征に来たジャイアント馬場、ジャンボ鶴田組の保持するインターナショナルタッグ王座にも挑んだが奪取できず、1983年に引退、ロバーツはオクラホマでマイケル・ヘイズ、テリー・ゴーディと知り合いになるとファビュラス・フリーバーズに加入、参謀役として活躍した。2012年に死去しフリーパーズのメンバーとしてWWE殿堂入りとなった。
2021年、現役を引退していた猪木は腰の治療のため入院、リハビリする模様がYouTubeにて更新されたが、一部マスコミから死亡説が浮上して業界を騒がせたものの、結局否定された。ファンも猪木の具合が心配されるだろうが、再びファンの前で元気な姿を見せてくれることを祈りたい。
(参考資料=ベースボールマガジン社「日本スポーツ事件史Vol.28『地獄からの生還』)
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