腰痛で引退寸前の藤波辰爾が奇跡の復活!


1989年6月22日、新日本プロレス佐久市総合体育館大会、この日は土曜日夕方4時で放送されていた「ワールドプロレスリング」の収録日で、メインでは藤波辰巳がビックバン・ベイダーと対戦したがベイダーのバックドロップを食らった際に藤波の腰はダメージを負ってしまい、それでも藤波はベイダーにバックドロップを仕掛けようとしたが、ベイダーの重さもあって腰がグキっと腰砕けになって力が入らず押しつぶされてしまう。試合は藤波が咄嗟に首固めで丸め込んで3カウントを奪い勝利も、まさかの敗戦に怒ったベイダーは藤波に襲い掛かるが、藤波は全く動こうとしない。異変を察知した獣神ライガー(獣神サンダー・ライガー)が駆けつけてベイダーを排除するも、控室に戻って1時間に及ぶマッサージを受けても容態は改善しなかった。この時から藤波の腰痛との長い戦いが始まった。

この年の新日本プロレスは起死回生で開催した東京ドームが成功、そしてアントニオ猪木が参議院議員に出馬して当選したため最前線から一歩退いた立場となったため、猪木不在の新日本を藤波と現場監督となった長州力と支えることになったが、藤波の負傷はまさにその矢先だった。

佐久大会での藤波は自家用車で会場入りしていたが、藤波は痛み運転できないためリングスタッフの社員に頼んで運転してもらい自宅へ戻り、翌日に病院でレントゲンを撮ってもらったが「特に大きな原因は見られない」と診断されるも、痛み止めを貰っても一向に痛みが治まらず、新日本で世話になっている整体治療院に通って治療してもらうも痛みは引かず容態も改善しなかった。

それでも藤波は長州だけには負担をかけさせまいとしてシリーズに参戦し続けたが、7月3日の青森大会で長州と組んでスーパー・ストロング・マシン、ジョージ高野の烈風隊と対戦した際に、烈風隊の集中攻撃を受けた藤波は動けなくなってしまい、なんとか長州に交代したものの、藤波は戦闘不能となって試合に加わることが出来ず、試合も一人孤軍奮闘した長州がマシンのダイビングヘッドバットを食らって敗れてしまった。

さすがの藤波も長州の負担になるどころか新日本全体の足手まといになっていると感じ欠場を決意、治療に専念することになるも、改めて検査を受けた結果、仙腸関節炎と診断されたが、本当は椎間板ヘルニアであり、長年に渡って腰を酷使したツケが一気にまわってきたのだ。藤波は絶対安静となり、内服薬や座薬の使用、ブロック注射と様々な治療を行ったか、腰痛は一向に改善せず、、歩行や座ることや横になって寝ることも出来ないなど、ますます腰痛は悪化していき、その間に長州がサルマン・ハシミコフを破ってIWGPヘビー級王座を奪取、飯塚孝之(飯塚高史)と組んで烈風隊を降してIWGPタッグ王座を奪取、現場監督としても辣腕を振るうなど実権を堅固のものにしていき、猪木のいない新日本を自分が守らなければならないと使命感が強かった藤波は長州の活躍を歯がゆい思いで見ているしかなかった。

今でいうセカンドオピニオンで藤波は腰痛を改善するために様々な病院を渡り歩いたが一向に改善せず、精神的にも参ってしまった藤波は看病してくれる伽織夫人にも八つ当たりし、”ピストルを寄越せ””ビルから飛び降りる”まで口走るようになったが、その間にも新日本は海外武者修行に出ていた橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司も帰国、1990年2月11日の東京ドーム大会には全日本プロレスとの関係が改善されたことで藤波が対戦を望んでいたジャンボ鶴田が参戦したが、藤波は鶴田の参戦したリングには立つことが出来ず、一気に時が動き出した新日本を歯がゆい思いで見続けるしかなく、誰もが藤波は復帰できない、このまま引退するのではと噂が飛び交うようになった。その最中に新団体設立へ動きているメガネスーパー(SWS)からも勧誘を受けた、メガネスーパーも武藤の獲得に失敗したことを受けて藤波に目を付けたのだが、藤波は復帰の目処が立っていないことを理由に断った。

その藤波に回復の兆しが見えたのは、セカンドオピニオンの一環で近大付属病院の医師から、筋肉を鍛えることで治る可能性を示唆され、別のスポーツ医学のドクターを紹介されると筋力トレーニングを開始、同時にローラーでマッサージするローラー治療を開始してからで、90年代に入るとヘルニアの患部を直接治療するのではなく、ツボとなる別の部位をほぐす遠隔治療も始めると、藤波の腰は少しずつ痛みが和らぎ、やっと横になって寝れるようになり、このような治療を続けるうちに、日常生活に支障のない程度にまで回復した。

藤波は復帰を目指して動き出し、メガネスーパー側が提唱していた道場制度を意識して「藤波部屋」後のドラゴンボンバーズを設立、あくまで企業内独立で、将来は独立採算制や独自興行も視野を入れることも示唆したが、このプランが後に設立された「無我」に取り入れられていく、そして5月14日には全日本プロレス武道館大会を訪れ、ジャイアント馬場と鶴田を訪問、この頃には全日本も天龍源一郎が離脱してSWS旗揚げへ動いていたこともあり、藤波の訪問はSWSに対するアピールでもあり、藤波自身も存在感を大きくアピールした。

そして8月7日の後楽園ホール、この時の新日本は新しい企画として後楽園ホール大会の7連戦を開催していたが、藤波はリングの上で公開スパーリングを行った。縄跳びとリングで体を動かすだけのデモンストレーションだったが、会場のファンからドラゴンコールが巻き起こった。そしてデビューしたての小原道由と松田納(エル・サムライ)相手にスパーリングを行い、藤波は松田を相手にブレーンバスターまで披露して腰の回復をアピールしてみせた。藤波も館内の温かい声援を感じていたが、ロープワークで肌にミミズ腫れになっていたことで、肌が弱くなったことで愕然とし、1年以上リングに離れていたことを改めて痛感した。公開スパーリングの後の26日は後のドラディションの母体となる「シーホース・コーポレーション」を設立、リングネームも本名の藤波辰巳から現在の藤波辰爾に改め、ドラゴンボンバーズには越中詩郎、ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャットが加わり、大関だった小錦の紹介で大相撲を廃業していた南海龍、高見州(後に俳優のテイラ・トゥリとなる)も練習生として参加した。

藤波は9月30日の横浜アリーナで開始される「アントニオ猪木・プロレスラー30周年記念大会」には復帰したいということで調整し続けたが、周囲からの「もう少し後でいいのではという」アドバイスもあって5分間のエキシビションマッチという形で実戦に復帰、相手は越中が務め、最初こそは越中も気遣っていたが、藤波が「遠慮はいらん!」とビンタを放つと、越中はショルダータックル、ボディースラム、バックブリーカーと敢えて腰にダメージを与える技を繰り出していく、それでも藤波は腰に手をやりながらもドロップキック、ワンハンドバックブリーカーことドラゴンバックブリーカーを繰り出し、ドラゴンスリーパーで捕らえたところで5分タイムアップとなった。藤波の腰の痛みも心配するほどでなく、メンタル的にも上々の仕上がりとなったことで、後は本格復帰が待たれるだけとなった。

本格復帰戦は10月25日、新日本で初進出となる群馬のグリーンドーム前橋で行われることになり、藤波は越中と組んで一旦ベイダーに明け渡していたもののIWGPヘビー級王者として返り咲いていた長州、そしてフリーとして参戦していたアニマル浜口の本家維新軍コンビと対戦、先発を買って出た長州は藤波にショルダータックル、ボディースラムと敢えて受身を要する技でどれだけ腰が回復しているか試すと、藤波もトーキックを繰り出す長州の足を抱えてドラゴンスリーパーで捕らえ、浜口にはスライディングヘッドシザースや弓矢固め、コブラツイストまで仕掛けていく、しかしさすがの藤波もブランクが響いてスタミナ切れが目立ち始めると、長州がリキラリアットを炸裂させてバックドロップで3カウントを奪い、復帰戦を勝利で飾れなかったが、藤波はブランクはあったものの満足した動きが出来たことで笑みを浮かべ、長州も藤波の復帰を大歓迎して敬意を表した。

藤波は自身の欠場となったきっかけを作ったベイダーとの対戦をアピールして、11月1日の武道館大会でベイダーとのシングルが組まれたが、皮肉にもベイダー自身が腰を負傷して欠場してしまい、藤波は代役として新日本に復帰していたタイガー・ジェット・シンと対戦するが、シンの狂乱ファイトぶりに振り回されて反則勝ちとなり、都内のファンに復帰をアピールすることが出来ず、28日の博多スターレーン大会ではパイオニア戦志として参戦していた剛竜馬と対戦しジャンピングエルボーアタックで3カウントを奪い、ようやく復帰初フォール勝ちを収める。

やっとフォール勝ちを収めたことで自信を深めた藤波は長州の保持するIWGPヘビー級王座に12月26日の浜松アリーナ大会で挑戦、この時は「ワールドプロレスリング」もゴールデンタイムから外れていたが、浜松大会はゴールデンタイムの特番が組まれ、メインに登場した藤波は何度も窮地に立たされたが、腰の負傷で満足したブリッジは出来なかったものの、これまで長州を何度も破った技であるジャパニーズレッグロールクラッチで3カウントを奪い、IWGPヘビー級王座を奪取して、再びトップ前線に返り咲き、猪木も新王者となって復活した藤波を祝福した。

1991年に入ると1月17日の横浜文化体育館でIWGPヘビー級王座をかけて因縁のベイダーと対戦するが、ラリアットの連発でフォール負けを喫して初防衛に失敗するも、3月4日の広島サンプラザで行われた再戦では藤波がベイダーのビックバンクラッシュを食らった際に体を入れ替えて押さえ込んで3カウントを奪い王座奪還に成功、3月21日の東京ドームではリック・フレアーとNWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトル戦を行い、グラウンドコブラで3カウントを奪ってIWGP,NWAの二冠王なり、1992年1月4日の東京ドームで長州に敗れるまで王座に君臨した。

藤波は2006年に新日本を退団、「無我ワールドプロレスリング」を設立、その後団体名を「ドラディション」に改めたが、2015年に藤波は脊椎管狭窄症の手術を受け、長年腰痛と戦ってきた腰にやっとメスを入れた。そして復帰し2020年1月4日には長年離れていた新日本のリングに上がった。そして藤波は今日まで現役を続け戦っている。

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.28 地獄からの生還」)

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