誕生、権威下落、V字ターン…IWGPヘビー級王座物語


 1980年に異種格闘技戦にひと段落をつけた猪木が”プロレス界における世界最強の男を決める、”世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する”とIWGP構想を掲げたが、当時の新日本プロレスは世界最高峰のプロレス組織であるNWAに加盟していたものの、NWA世界ヘビー級王者のブッキングは全日本プロレスに独占され、また猪木が権威を高めてきたNWF世界ヘビー級王座も、NWA加盟に当たってベルトから世界を外され、NWAから新日本内のローカルタイトルとして扱われた。自身が権威を高めたNWF王座から世界を外されたことに納得しない猪木は今後どうするかを当時の腹心だった新間寿氏に意見を求めると、「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と提案、それがIWGPの始まりだった。

第1回IWGP開催にあたりベルトが作成され、これまでのベルトの特徴だった横長、長方形を脱却して、円形と地球儀をモチーフにした斬新なデザインのベルトが誕生し、早速新日本は提携していたアメリカのWWF(WWE)、メキシコのUWAの協力を得て、1983年に王座を決める総当たりリーグ戦「IWGP」を開催し、初代である猪木ベルトも披露される。優勝決定戦には猪木とハルク・ホーガンが進出したが、大本命と目されていた猪木はこの頃にはホーガンにKO負けを喫してしまい優勝を逃してしまう。この頃のIWGPはタイトルとせず、ベルトも優勝トロフィーのようにして扱われたが、猪木のKO負けというインパクトもあってIWGPの存在は大きくアピールすることには成功した。

ところが1986年の第4回になるとWWFとの提携が終了となってからは、大物外国人選手が呼べなくなり、猪木自身も衰えが目立ってきたところで、IWGPが正式にタイトル化することになった。第5回のIWGPは正式に初代王者を決めるリーグ戦となり。マサ斎藤を降して優勝した猪木が正式に王者となった。初代ベルトが猪木の腰に巻かれ、その後は王座は猪木、藤波辰爾、ビック・バンベイダー、サルマン・ハシミコフ、長州力、グレート・ムタ、橋本真也、高田延彦まで渡り、初代ベルトも新日本の象徴として扱われていった。

1997年3月27日、「新日本プロレス創立25周年パーティー」の席上で2代目IWGPベルトが披露されて当時の王者である橋本真也に入ると新日本プロレスは2代目ベルトを製作、当時の王者である橋本真也に授与され、初代のベルトも猪木に返還されることになった。この頃の新日本プロレスは猪木が翌年に引退を控えていたことから、現場監督の長州力が徐々に猪木の影響力を薄めようとしており、初代である猪木ベルトの返還も猪木の影響力を薄めるための一環だった。2代目ベルトは佐々木健介、藤波、蝶野正洋、スコット・ノートン、武藤、天龍源一郎が王者となって巻いた。

ところが2001年3月、PRIDEのリングで猪木が「藤田よ、このベルトこそが最強を求めた本物のベルトなんだ。ベルトをたらし回しにしても仕方がない、一番強いヤツが本物をのベルトを巻けばいいんだ!」と言って猪木ベルトを持ち出して藤田和之に渡してしまう事態が起きてしまう。猪木ベルトは猪木事務所が預かり管理していたのだが、猪木が世界最強を決める象徴だったIWGPが、新日本の単なる一タイトルとなっていることに異議を唱える意味で猪木が「最強を求めた本物のベルト」と発言し藤田に渡したものだが、それによって当時王者となっていた佐々木健介の巻いている2代目ベルトの存在意義を問われることになっていく、4・9新日本プロレス大阪ドームで猪木ベルトをもつ藤田と、2代目の橋本ベルトを持つ佐々木健介との選手権が行われる予定だったが、健介は3月17日の愛知でスコット・ノートンに敗れて王座から転落、試合後に健介は「正直スマンかった」と迷言?を残した。こうして大阪ドームではノートンが王者、藤田が挑戦者という図式で行われ、藤田がチョークスリーパーでノートンを破り新王者とななったことで2代目ベルトより、初代のベルトの方が権威が高いと印象付けられてしまった。そして猪木も藤田や初代ベルトの存在も大いに利用して新日本の現場に介入、藤田が参戦していたPRIDEでの防衛戦を示唆するなど、新日本を揺さぶったが、12月に藤田はアキレス腱を断裂して負傷すると、2002年1月4日東京ドームで行われる予定だった永田裕志との防衛戦が行えなくなったため王座は返上、初代ベルトは猪木、2代目ベルトは新日本に返還された。

2代目ベルトは王座は安田忠夫、永田、高山、天山広吉、中邑真輔、健介へと渡ったが、3月にK-1で人気を誇っていたボブ・サップが王者となると、6月5日の大阪で棚橋弘至相手に防衛戦を行う予定だったが、5月22日に開催されたMMAイベント「K-1 ROMANEX」で藤田にタップアウト負けを喫し、負傷を理由に王座を返上してしまう。王座は棚橋との決定戦に勝った藤田が奪取して王者に返り咲いたが、サップの返上は王座の権威が下落するきっかけを作ってしまった。10月には藤田が健介の挑戦を受けると藤田が胴絞めスリーパーを決めた際に両肩がマットに付いているとしてレフェリーがカウント3を叩いてしまい、健介が王座を奪取するも、不可解な移動劇にファンが怒るなどIWGPの権威はますます下がっていった。

2005年に新日本がサイモン・ケリー新体制が発足すると、3代目IWGPヘビー級ベルト作成のプランが発表、2か月後にサイモン社長就任パーティーの席上で披露され、当時の王者だった藤田に授与されたが、ベルトのサイズはこの後新日本に参戦するブロック・レスナーの腰回りに合わせたものから、明らかにレスナーのために作られたものだった。10月8日に藤田はこの年のG1 CLIMAXで優勝した蝶野、レスナー相手に3WAYで防衛戦を行ったが、この当時は3WAYによる防衛戦というものは前例がなく、ファンからも受け難い空気が漂っていた。試合もレスナーがバーティクトで蝶野を降して王座を奪取するも、藤田からフォールを奪ったわけでないことからスッキリしない結末となり、11月に新日本は猪木体制にからユークス体制に代わると、その第1弾として2006年1月4日の東京ドーム大会でレスナーvs藤田のIWGPヘビー級選手権が組まれたが、藤田は試合をキャンセルする事態が起き、藤田の代役には中邑が出場したが、藤田がキャンセルした時点で3代目ベルトにケチが付いてしまった。

レスナーは3月19日に両国大会で曙相手に防衛戦をするも、まだプロレスキャリアの浅かった曙相手は好試合とは言えず、バーティクトも失敗してDDTで3カウントを奪って唐突に試合が終わった。そして7月に北海道・月寒で行われる予定だった棚橋との防衛戦が行われる予定だったが、レスナーが来日せずドタキャンするという事件が起きてしまう。この頃の新日本は猪木からユークス体制に入っており、経営再建のための”仕分け”を始めていたが、ギャラが高くて客に支持を受けていなかったレスナーはリストラ対象に挙げられていた。本来ならベルトも剥奪で返還すべきところだったのだが、レスナーは返還を拒否してしまい、月寒で行われた王座決定戦では暫定的に2代目ベルトが使用され、棚橋が王者となったが、この時点でIWGPの権威は地に落ちるどころか、マイナスにまで落ちていった。

新日本はレスナーに対して再三ベルト返還を要求したが、レスナーは応じず、2007年に猪木がサイモン氏と一緒にIGFを旗揚げ、旗揚げ戦にはレスナーvsカート・アングル戦が実現して3代目のIWGPベルトがかけられたが、IWGPの権利を持つ新日本プロレスはIGFで認める選手権は認めず、非公認という形で行われ、レスナーから勝利したアングルに渡される形で3代目王座は移動、そして新日本がアングルが所属していたTNA(インパクトレスリング)と交渉してアングル招聘に成功、2008年に当時の王者だった中邑真輔がアングルを破ることで3代目ベルトの回収に成功、そして2代目と3代目が封印され、4代目のIWGPベルトが誕生した。

ベルトも4代目となってからは武藤に一旦王座が渡るも、棚橋が王者に返り咲いてから、マイナスにまで落ち込んでいたIWGPの権威は復活、新日本V字ターンのきっかけを作った。ブシロード体制になるとオカダ・カズチカが王座を奪取、2019年にはニューヨークMSGでもIWGPヘビー級選手権が行われ、この頃には5代目にモデルチェンジ。2020年に入ると内藤哲也が自身の保持するIWGPインターコンチネンタル王座をかけてオカダ・カズチカを破って二冠王になり、2021年に二つのベルトが統一させてIWGP世界ヘビー級王座として生まれ変わることになった。

二冠が統一されてこれまでの歴史は封印されるのではと危惧しているファンもいるだろうが、IWGPは猪木が名付けたもの、IWGPの名称が残る限りはこれまでの歴史は封印されることなく継承され、新しい歴史を築いていくものだと思っている。来年はいよいよ新日本プロレスは50周年を迎える。新しく誕生するIWGP世界ヘビー級王座はどんな歴史を築いていくのか…

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