前田日明の長州顔面蹴撃事件、新生UWF始動!


1987年11月19日、新日本プロレス後楽園ホール大会で、前田日明が木戸修、高田延彦と組んで長州力、マサ斎藤、ヒロ斎藤組と対戦し、長州が木戸をサソリ固めで捕らえようとしたところで、背後から前田が長州の顔面めがけてキックを浴びせる。長州の顔面が腫れあがると、選手らが騒然となって不穏な空気が漂うが、長州は高田をリキラリアットで3カウントを奪って試合は成立させたものの、この試合で前田は新日本のリングから姿を消した。

1985年12月に自主興行を打てる力を失った第1次UWFの選手らは古巣の新日本との提携を選び、前田日明、藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫の5選手と若手だった安生洋二や中野龍雄、宮戸優光らは1986年1月から新日本に参戦、これに伴ってUWFも選手を新日本へ派遣するプロダクションとして再出発した。新日本だけでなく「ワールドプロレスリング」を放送していたテレビ朝日も、UWFは全日本プロレスに参戦した長州力率いる維新軍団の代わりになるとして大いに期待していた。

1月シリーズ「ニューイヤーダッシュ」でアントニオ猪木への対戦権利をかけたUWF代表者決定戦リーグ戦が行われた。、リーグ戦を行わせた理由はUWF勢といきなり対戦して何が起こるかわからないことから、UWF同士と対戦させて様子を見ようとしていたからだった。しかし従来のプロレスはロックアップや手四つから始め、ロープワークもするが、UWFは打撃の構えから始まり、ロープワークも頑なに拒否する。新日本勢にしてみればUWFのスタイルは受け入れがたいものがあり、試合を見ていた猪木ですら「あれはプロレスではない」と言い放つぐらいだった。

リーグ戦は前田と藤原が優勝決定戦に進出、2月5日の大阪城ホール大会で藤原が足固めで前田を降して優勝し、6日の両国大会で藤原が猪木に挑んだが、猪木のスリーパーホールドに敗れてしまう。ところが、猪木が試合中に藤原に急所蹴りを見舞ったことで前田が怒り「猪木なら何をしてもいいんか!」と猪木の顎めがけてハイキックを浴びせる。試合を終えている猪木の顔面を蹴り倒すことは新日本にとっても前代未聞で、この事件をきっかけに猪木だけでなく新日本は前田を危険人物として扱うようになった。

UWF勢が参戦して2シリーズ目になってからは藤原や高田などもようやく新日本勢に合わせて試合をしようとし始め、前田も藤原のアドバイスを聞き入れてロープワークをするなど妥協したが、相手を叩き潰そうとするスタイルだけはどうしても崩すことが出来ず、対戦相手からも嫌がられるようになり、前田らの練習を見て、新日本にフリーとして参戦していた上田馬之助も「プロレスはな、こうなんだよ」と諭してはいたものの、前田は理解しようとせず、外国人レスラー相手でも前田は妥協せず自分のスタイルを崩さなかったことから、周囲からも「前田はいつか潰されるぞ」と言われるようになっていった。その矢先に起きたのは4月29日に津で行わたアンドレ・ザ・ジャイアント戦でのシュートマッチ事件で、アンドレが誰にも相談せず一人で仕掛けたものだったが、前田はアンドレを仕掛けるように焚き付けたのは副社長で現場責任者だった坂口征二の仕業とであると信じ込んでいったため、新日本とUWFの関係もギクシャクするも、それと共に前田を支持するファンも多くなり、カリスマ性も高めていった、

6月の大阪城ホールで行われた藤波辰爾との一戦でも前田が藤波を一方的に蹴りまくって、ニールキックで藤波の右こめかみあたりをザックリ切ってしまったことで壮絶な試合となり、試合は藤波の放ったレッグラリアットと前田のニールキックが相打ちとなって両者KOとなったが、感動的な試合になったことで、東京スポーツの年間ベストバウトを受賞したするも、藤波はこめかみを深く切ったため欠場に追いやられ、10月9日に新日本プロレス両国大会で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」でも新日本は前田にマーシャルアーツのドン・中矢・ニールセンとの対戦でも、激戦の末に前田がニールセンを降し、メインで組まれた猪木vsレオン・スピンクスの異種格闘技戦が凡戦に終わってしまったことで、猪木を押しのけて大会の主役を奪い取ってしまった。これによって前田は「新格闘王」と呼ばれ、プロレスだけでなく格闘技からも注目を集めるようになったものの、ニールセン戦でもオファーを受けたのは1カ月前だったこともあり調整期間が短いということで、前田は新日本に対する不満を露わにしたこともあって、前田の支持が集まれば集まるほど、新日本にとって扱いづらい存在となっていった。

1987年3月にマサ斎藤が新日本に復帰すると4月からは長州がマシンや小林邦昭らと共に新日本を復帰を果したため、UWFの立場は微妙なものになっていく、新日本もUWFと提携したものの、期待に反して視聴率は好転せず、「ワールドプロレスリング」は金曜8時から撤退して月曜8時に移行するも、移行しても視聴率は好転しなかった。
「ワールドプロレスリング」は火曜日8時に移行して「ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング」とタイトルを変えてリニューアルを果たし、新日本vsUWFの抗争も猪木が藤原、越中詩郎が高田とタッグを組むようになって形骸化されていったが、このあたりから新日本側はUWFの選手に対して個人契約を結ぶように求められるようになった。理由はテレビ朝日からの放送枠が移動したことによって放映権料が下げられてしまい、リストラに一環としてUWFとの提携を打ち切ることを余儀なくされたからで、坂口も提携が打ち切られればUWFの選手も路頭に迷うとして考えて新日本の所属になれば少なくとも選手らを守れることが出来ると考えた上でのことだったが、前田にしてみれば自身を潰そうとした坂口と新日本は信用できないだけでなく、個人契約となればプロダクションだったUWFは無意味な存在となって解散させられ、UWFの名前は消される可能性がある。そうなればUWFでしてきたことは否定されると考えて返事を先送りにしていた。

7月に長州が藤波や前田を巻き込んで世代闘争を掲げ、猪木やマサ斎藤、藤原喜明率いるナウリーダーとの抗争へと突入するが、猪木自身は長州や藤波の踏み台にされるのを嫌って、世代闘争に本腰を入れるつもりなく、そのせいか世代闘争も僅か2カ月で行き詰まりを見せ、「ワールドプロレスリング」も10月から再び月曜夜8時に移行し、移行放送第1弾の特番の10月5日の後楽園大会では、日本テレビとの契約がクリアされていなかった長州のテレビ復帰戦が行われることになり、長州の相手は藤波か前田どっちかコイントスで決められることになったが、長州は藤波に襲い掛かって長州vs藤波になったが、これは最初から出来レースで長州は最初から相手を藤波と決めていたことで前田は当て馬扱いされ、また世代闘争も猪木が本腰を入れない以上続けても意味がないと考えた長州は「オレはフライングするぞ!」と世代闘争から一方的に撤退してしまい、単独での天下取りに方針を転換させたてしまう。藤波は長州と対戦との「名勝負数え歌」の再開を希望していたため、長州の方針転換を歓迎したが、長州の思惑に振り回された形となった前田は大いに不満で、長州のことを「言うだけ番長だ!」と批判するも、UWFが新日本に取り込まれることだけでなく、前田自身も新日本の中心から外されていくことに危機感を抱いていた。

その長州に対する顔面蹴撃事件が起きたが 事件の背景には前田が全日本プロレスの天龍源一郎がレガースをつけずにリングシューズで輪島大士の顔面を蹴っていたことに衝撃を受け、これだけのインパクトを残さないといけないと考えてのことだったが、長州側は前田の「言うだけ番長」発言にピリピリしており、11・19後楽園はUWFが主催する興行とあって、何か仕掛けてくるのではと警戒していた矢先のハプニングだった。長州の顔面を蹴る際には「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」と意図的ではなく想定外の事故であることを主張し、事情を聴いた猪木や坂口も事故だったことは充分理解しており、長州も前田から電話で直接謝罪を受けていたことから、意図的ではないことは充分わかっていた。しかし新日本プロレスは藤波に続いて長州もケガをさせてしまった以上、同じようなアクシデントが起こる可能性もあることから、ほとぼりを冷ます意味で前田に対して無期限の出場停止を命じた。

前田が出場停止を受けるとUWFの社長だった神信二氏は「もし選手らが個人契約に応じたとしたら、自分ら新日本には入れてもらえず切り捨てられる可能性ある。それだったらUWFは新日本から離れて独立した方がいい」とUWFを新日本から独立させることを考え始めていた、神社長は旧UWFからの生き残りでリングアナを務めていたが興行停止になった際には前田らに追随して留まり、UWFをプロダクション化にするに伴って社長に就任していた。12月27日の新日本プロレス両国大会では、猪木は長州と対戦するはずだった猪木が一方的にカードを変更して長州と初来日のビックバン・ベイダーとのダブルヘッダーを敢行したが、長州戦とのシングル戦を望んでいたファンの怒りを買い、長州には勝ってもベイダーには惨敗を喫したことでファンが怒り暴動騒ぎへと発展、猪木もファンをなだめようとしたがファンから物を投げつけれた挙句に、館内からは前田コールが発生した。これを見た神社長は”新日本で主役を張っている猪木は衰えもあってかつてのカリスマ性はない、現在の前田だったら猪木を凌ぐカリスマ性を持っている”と現在独立すれば間違いなく成功すると確信していた。

そういう状況の中でマザーエンタープライズ社長の福田信社長が神社長に接触してきた、マザーエンタープライズはロックバンドであるハウンド・ドックを所属させている音楽事務所であり、福田社長はハウンドドックをトップバンドに引き上げた敏腕プロデューサーだった。プロレスファンだった福田社長は「前田が追放されるかもしれないって?それなら独立して異種格闘技戦をやればいい。前田ならファンは呼べるよ」と雑誌でコメントしていたことから、神社長も独立への支援を受けられると考えて会った。福田社長は以前からこれまでのプロレスの演出方法は古いと考えており、垢抜けない演出を一切やめて、ロックコンサートのような演出をすればいい、神社長には音楽や照明も洗練されたものを使い、試合数を月に1回に減らし、大都市の比較的大きな会場でイベントを行うことをアドバイスをすると、ノウハウの伝授だけでなく全面協力の約束も取り付けたが、肝心の前田は旧UWFの失敗のこともあって慎重になっており、独立には乗り気になれなかった。

シリーズが終えると新日本側はUWFの選手らに対して改めてUWFとではなく選手個人と契約する個人契約を求めた。両国暴動の時点でゴールデンタイムで放送されていた「ワールドプロレスリング」はゴールデンタイムからの降格が決定し、テレビ朝日から支払われる放映権料が更に下げられることになったことで経費削減に迫られ、UWFとの契約を見直すことになったからだった。個人契約はUWFだけでなく長州のリキプロダクション側にも求めており、藤原と木戸修は応じて新日本と契約し、前田らも藤原らにならって個人契約を結んだが安生や宮戸、中野は若手として扱われたことで支払われるギャラも前田らと比べると微々たるものだった。こうして前田はUWFから新日本の管轄になったことで新日本は前田に年俸15%ダウンの減俸処分とメキシコ行きを命じる。メキシコ行きは冷却期間を与えるためのもので、ほとぼりが冷める4月には前田を戻して「リングの上で起きたことは、最終的にはリングの上で決着をつけさせる」として長州との一騎打ちを組むつもりでいた。しかし前田はこの処分に納得せず拒否するだけでなく、出場停止を受けているにもかかわらず雑誌のインタビューに答えて自身の見解を述べたことで新日本の態度は硬化して、前田に対して解雇を通告する。

新日本から解雇通告を受けたことで、前田もこれまで慎重だった独立に舵を向けざる得なくなり、神社長も資金繰りに奔走、前田も高田と山崎を誘った。高田も山崎も新日本と個人契約をしてこのまま新日本に留まるつもりでいたが、前田からの誘いは断ることが出来ず参加を決め、前田は高田を通じて安生や宮戸、中野を勧誘して3人も追随する決意を固めたが、安生と宮戸は前田からではなく高田からの勧誘に疑問に抱いており、このことが2年後の分裂まで尾を引くことになることは、まだ誰も気づいていなかった。

選手が揃ったことでUWFは独立へと動き、旗揚げも5月12日の後楽園ホールに決定した。ところが4月16日の午前中に売り出された前売り券が僅か5分で完売すると、それを皮切りにプロレスショップやプレイガイドも僅か5~10分で完売する現象が起き、後楽園ホールでもチケットを求めて徹夜組が20人以上も並び、UWFの事務所にはチケットを買えなかったファンからは問い合わせが殺到した。この現象を見た週刊プロレスの編集長だった山本隆司氏はUWFの1枚のチケットを表紙にして「5・12、UWFのチケットは僅か15分で完売、一体どうなっているのだ」をキャッチコピーにしたインパクトのある表紙を作成して、UWFブームが到来していることを煽り、プロレスマスコミだけでなく、一般の雑誌や週刊誌がこぞって飛びついてUWFを取材、プロレス誌だけでなく一般誌も煽ったことで「一度UWFを見てみたい」「UWFのチケットはなかなか手に入らない」というイメージをファンに植え付けた。旗揚げ前日でも僅かな当日券を求めて徹夜組が並び、選手達も徹夜で並んでくれたファンを激励するために駆けつけ缶コーヒーも手渡した。

旗揚げ戦には俳優でプロレス通でもある森本レオ、作家の夢枕獏、元プロボクシングWBA世界ライトフライ級王者である具志堅用高などが著名人がリングサイドに並んで観戦、著名人をリングサイドに並べたのは暴力かつ残酷と格闘技のイメージを薄めるためのもので、また有名人も見に来ていることでUWFへの関心、観戦意欲を高めることが目的だった。
前田vs山崎を中心として3試合しか組めなかった新生UWFの再旗揚げ戦は大成功を収め、順風満帆なスタートを切ったが、UWFの戦略はこれだけでは収まらず、旗揚げ第2戦の札幌中島体育センター大会では、1階席だけでなく2階席も全席同一料金で販売、1階席が完売すると、セットバック席を増席して追加販売する、これも音楽業界ではよくある話で、チケットの売れ行きは好調で更に売れる見込みのあるイベントは、増席されて追加販売する。当時では珍しい音楽業界のライブ手法を取り入れたことで、プロレス界にライブ志向のイベントスタイルを確立させていった。

第3戦は東京の有明コロシアムで開催されるも、まだ旗揚げしたばかりのUWFでは実績や社会的信用もないため借りることが出来なかったが、福田社長がニッポン放送の協力を取り付け、ニッポン放送が有明コロシアムを借りてUWFを開催させる手法を取り、チケット販売を全面的にチケットぴあに委託、また若者の街だった渋谷の街「PARCO」の壁面に巨大広告を展示、また前田にも「笑っていいとも」や「わくわく動物ランド」など高視聴率を取っていたテレビ番組へ出演、雑誌でサザンオールスターズの桑田佳祐との対談を実現させるなど徹底したPR作戦をを行った。
旗揚げ第3戦である有明コロシアム大会は会場が野外ということで、スモークとレーザー光線が使用され、スモークの中をブルーとグリーンのレーザー光線が交錯、四方のライトがレインボーカラーに点滅、紙吹雪や花火を仕掛けるなど、コンサートライブのような演出志向が披露され、観客も12000人を動員、メインで行われた前田vsジェラルド・ゴルドーの異種格闘技戦も大激戦の末、前田が裏アキレス腱固めで勝利を収めたことで、新生UWF初のビックマッチも大成功を収めた。

プロレスにレザー光線の使用などの演出は後に他団体が取り入れることになるが、新生UWFはその先駆けだった、もし新日本が前田を解雇しなければ、派手な演出など取り入れていただろうか?当時のプロレス界は外部に意見を聞く耳を持たかったことから、派手な演出が取り入れることはもっと先になっていたのかもしれない。また新規のファンも開拓することが出来たが、当時のプロレスファンが新生UWFや前田を支持したのも、年老いてカリスマ性を失った猪木や、猪木をあくまでトップにする新日本プロレスへの失望もあったのではないだろうか…

その後、新生UWFは月に1回をペースに興行を行い、武道館や大阪球場、東京ドームにも進出することで団体的にも軌道に乗ったかに見えたが、新生UWFは前田ありきになり、前田がメディアから注目されるほどカリスマ性が高まったことで神輿に担いでいた神社長らでもコントロールしづらくなっていく、また選手らの間でも前田と距離が出来始め、表面上は前田を兄貴と慕っていた高田さえも前田を避けるようになるなど、前田は次第に新生UWFの中から孤立していったが、前田自身はそれに気づいていなかった。
そんな状況の中で前田は神社長が経理上不正を働いていると疑い始めたことで二人の間で対立が生じてしまう。神社長も疑惑を全面否定したものの、否定すればするほど前田はますます神社長に不信感を抱き 1990年10月25日の大阪城ホール大会後にマスコミの前で前田が神社長を含めた首脳陣を批判すると、神社長は前田への日頃の不満も重なって感情的になったのか、前田に対して出場停止を命じ、新日本から移籍してきた船木誠勝をエースに押し立てることをもくろみ始める。
前田が出場停止になると、前田と距離を取っていた高田を始めとする選手らも一致団結して神社長らに反旗を翻し、12月1日の松本大会では船木の呼びかけで出場停止となった前田がリングに上がり、選手らは前田の全面支持をアピールする。これを見た神社長は選手ら全員解雇して業界から去っていったが、神社長は新生UWFの成功をきっかけにプロレス界から撤退して他業種に転業することを考えていたという。

前田を中心となって一致団結した選手らだったが、いざ今後に向けてミーティングを始めると、それぞれの思惑の違いが表面化する。松本大会では選手らも前田を中心に団結はしてはいたものの、それはそれぞれの利害が一致していたことから団結していたに過ぎなかった。これに焦れた前田は選手らに自分を信任させる意味で解散宣言するが、選手らは新生UWFの解散と受け止めて団体設立に走り分裂、新生UWFはあっけなく幕を閉じた。

業界を去った神社長は他の業種に携わったが、新生UWFのような成功とはいかなかった。前田はリングスを旗揚げしたが、これまでキックを多用してきたツケもあって前十字靭帯の断裂など膝のケガにさいなまれるようになり、1999年2月11日に現役を引退、引退試合が行われた横浜アリーナ大会では神社長と共に前田から批判の的にされ、神社長に追随しいたUWF専務だった鈴木浩充氏が前田を訪れ、前田と和解したが、神社長は前田の前には2度と現れなかった。その後はUWFの証言本が出版されたものの、神社長は取材のオファーがあっても、二度と語ることはないとして全て断り、現在もそのスタンスを貫いているという…

(参考資料 柳澤健「1984年のUWF」ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.5『革命と夜明け』)

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