カルガリー、日本にも革命を起こしたダイナマイト・キッド


1975年、イギリスで一人の若者がデビューを果たした。その名はトーマス・ビリントン、後にダイナマイト・キッドとなる若者だった。

キッドは1958年にイギリス・ランカシャー州ウィガン近郊にあるゴルボーンにて生まれ、ゴルボーンは炭鉱の町だったことから父親のビリーも炭鉱夫だった。ところがビリーがプロボクサーであり、叔父もプロレスラーだったこともあって、キッドもビリーからボクシングを学んでいたが、13歳になったキッドはビリーの知り合いのプロレスラーであるデイブ・ベトレーからプロレス転向を薦められた。ベトレーはかつて初代タイガーマスクとも対戦したスティーブ・ライトも指導していたことがあり、キッドもベトレーに薦められるまま門下に入ってプロレスの指導を受けるようになった。ベトレーを通じてキッドと知り合ったマーティン・ジョーンズの第1印象はマッチ棒みたいに細く痩せていて、こんな身体でレスリングは出来ないだろうと思っていたが、身体が細い分スピードがありスタミナがあり、なんでも起用にこなせていたという。

ベトレーの本業は八百屋で自宅で経営していたが、学校を終えたキッドはベトレーの店を手伝いながら指導を受け、2年半~3年に渡って基本を叩きこまれ、時にはビリー・ライレージム、通称”蛇の穴”に出稽古へ行ったことがあったが、蛇の穴ではキッド特有の「ツッパリ」オーラのせいもあって、礼儀知らずのキッドはたちまち先輩レスラー達から手荒い洗礼を浴びてしまい、ワトレーの判断で蛇の穴への出稽古を辞めて、ワトレー独自でキッドを育て上げた。

1975年、キッドは17歳でリングネームである”ダイナマイト・キッドのリングネームでデビューを果たしたが、リングネームはワトレーが名付けたものだった。キッドは太れない体質だったこともあって最軽量クラスのライト級から始まったものの、切れ味のいいドロップキックや、リング狭しと動き回るスピーディーな動きなどでたちまちファンを魅了し、1977年にはマーク・ロコ(初代ブラックタイガー)とも抗争を繰り広げた。

リング所狭しと動き回るキッドの破天荒な動きを見て注目したのがブルース・ハートだった。ブルース・ハートはカナダ・カルガリーのプロモーターであるスチュ・ハートの次男坊で、スチュの指示でイギリスに遠征にきていたのだが、この頃のカルガリーマットは不景気で、スチュ自身も赤字続きのカルガリーマットを見てプロモートを売却することすら考えていたほどだった。ブルースのイギリス遠征も人員削減の一環だったが、偶然見たキッドを見て「スタンピートレスリングを再び盛り上げるのはキッドのプロレスしかない!」と直感したという。

早速ブルースはキッドとベトレーに「カナダへ来ないか?」とオファーをかけ、ギャラも当時稼いでいた額より多かったのでキッドも応じでカナダへ渡ることが決定したが、ブルースの報告を聞いたスチュは軽量のキッドを呼ぶことには乗り気ではなく反対したものの、「弟のブレット・ハートを育てるためにはライバルが必要」と反対を押し切った。実はスチュもベテランのビック・ジョン・クイン、ムース・モロスキー、ワイルド・アンガスをメインに起用していたが、動きの遅いレスラーこともあってマンネリを感じており、マンネリを打破するためには新しい人材が必要と感じていた。

カルガリーへはキッド一人で向かった。ワトレーが帯同しなかったのは「可愛い子には旅をさせよ」ということで、武者修行のつもりで送り出したのかもしれない。キッドもそのつもりで6週間だけカルガリーをサーキットしたらイギリスへ戻るつもりだった。カルガリーマットに登場したキッドは初戦でキューバン・アサシンを降してから快進撃を続け、登場してから3ヵ月目でNWA世界ジュニアヘビー級王者だったネルソン・ロイヤルにも挑戦、反則負けを喫したもののキッドの人気は高まり、これを見たスチュはカルガリーマットを軽量級路線にシフトチェンジし、前座で燻っていたブレットもキッドのライバルとして売り出された、これに伴ってキッドらのスピードについてこれない重量級の選手はカルガリーから次々と去り、対応できるヘビー級レスラーはバットニュース・アレンやケンドー・ナガサキだけとなってしまった。

キッドはミスター・ヒトのブッキングで1979年7月に国際プロレスに初来日を果たした。この頃のカルガリーマットは国際プロレスと提携を結んでおり、このシリーズではヘイスタック・カルホーン、後半からアンドレ・ザ・ジャイアントと2大巨漢レスラーが参戦することになっており、WWFのルートで新日本プロレスに参戦していたアンドレは、かつて国際プロレスにモンスター・ロシモフのリングネームで上がっていたこともあり、全米進出のきっかけを作ってくれた吉原功社長には恩義があるためWWFの許可を得て格安のギャラで国際プロレスに参戦を果たしていた。アレックス・スミノルフとオックス・ベイカーとヘビー級も参戦していたなかでキッドは一番の軽量だったことからWWU世界ジュニアヘビー級王者だった阿修羅原へ挑戦者としての来日だったが、ジュニアらしならぬ荒々しく、なおかつスピーディーでカミソリのように鋭い切れ味のする技を見て吉原社長だけでなく国際プロレスを中継していた東京12チャンネル(テレビ東京)も”ビル・ロビンソンを越える逸材だ!”と魅了されてしまった。、原とは2度選手権で対戦して2戦ともベルトは奪取出来なかったものの、評価が高かったのはキッドだったこともあって、早速国際プロレスも再来日の交渉に入ろうとしていた。

そのキッドに注目したのは国際プロレスだけでなかった。たまたま原戦を見ていた新日本プロレスもキッド獲得に動き出した。当時の新日本は藤波辰巳を中心としたジュニアヘビー級ブームとなっており、藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王者に挑戦する新しい選手を欲していたところだった。
新日本はミスター・ヒトを通じてスチュ・ハートに交渉を開始、スタンピートレスリングに破格なブッキング料を支払うだけでなく、息子達であるキースやブレットも新日本に招聘するという好条件をつけたため、スチュも国際プロレスから新日本プロレスに乗り換えることが決め。そして8月9日にはアントニオ猪木、坂口征二、藤波の新日本ビック3がカルガリーへ遠征し、猪木はハンセンとNWF王座、坂口はシンと北米王座をかけて対戦、ハンセンとシンはこの遠征のためにわざわざ呼ばれたものだった。

藤波はキッドとWWFジュニア王座をかけて対戦するが、藤波も初めて対戦するキッドの動きに苦戦を強いられ、キッドを場外へ追いやるとドラゴンロケットを命中させるが、そのままリングに戻れず両者リングアウトとなって藤波が防衛を果たすも、カルガリー遠征は90分の特番で放送され、東京12チャンネルと比べてワールドプロレスリングを放送していたテレビ朝日は全国ネットだったこともあって、キッドの存在は日本に大きくアピールされた。

1980年に入ると1月に国際プロレスは再びキッドにオファーをかけ、日本陣営に入れて第2のビル・ロビンソンとして売り出そうとしていた。国際プロレスも新日本と提携していたこともあって、”キッドはまだウチで呼べる”と考えていたのかもしれない。しかし新日本プロレスも同時期にオファーをかけており、最終的にキッドは新日本を選択して、国際プロレスには2度と参戦することはなかった。

キッドはその後、新日本やカルガリーで活躍、藤波だけでなく初代タイガーとも激闘を繰り広げ、そして全日本プロレス、WWEなどで活躍して世界のスター選手の仲間入りをしたが、キッドがすぐ帰ってくるはずのイギリスマットは、キッドがカナダへ定着した後で凋落していった。イギリスマットは過去にロビンソンだけでなく様々なレスラーを輩出して更なる高みを望んでアメリカへ渡っていったが、ワトレーもキッドをイギリスにとどめるよりはアメリカへ進出させるべきだと考えてカルガリーへ送り出したのかもしれない。

キッドは2018年12月5日、自身の誕生日に故郷のイギリスで死去した。キッドが去りし後のイギリスマットだったがプロレス自体はまだなくなったわけでなく、ウィル・オスプレイ、ザック・セイバーJr.、エル・ファンタズモ、クリス・ブルックスなどを輩出、日本を始め世界のマットで活躍している。

そして2018年にキッドの甥であるトーマス・ビリントン、マーク・ビリントンがイギリスでデビューを果たした。物心ついた時からプロレスを知り、叔父であるキッドがWWEで試合をしていたことを知ると、キッドのことを知れば知るほどプロレスをやりたくなったという。二人はキッドとも旧知の関係で日本にも来日したことがあるジョーンズの下で指導を受けながら、ダイナミック・デュオのチーム名で活躍しているおり、現在もキッドの魂を引き継いでいる。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.20 入団・退団」Gスピリッツ Vol.50「BI砲時代の日本プロレス」)

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