猪木が馬場に挑戦表明!猪木の果てなき挑戦はここから始まった!


1971年5月19日、日本プロレス大阪府立体育会館大会で「第13回ワールドリーグ戦」の最終戦が開催された。

1969年に行われた「第11回ワールドリーグ戦」ではアントニオ猪木がエースであるジャイアント馬場を差し置いて優勝を果たし、7月から猪木を主役としたNETの中継番組「ワールドプロレスリング」がスタート、秋には星野勘太郎と組んで「第1回NWAタッグリーグ」にエントリーして優勝、1970年に行われた「第12回ワールドリーグ戦」では馬場がドン・レオ・ジョナサンを破って優勝を果たしたが、猪木の勢いは止まらず1971年3月には猪木用の王座であるユナイデットナショナルヘビー級王座を奪取、プライベートでは女優である倍賞美津子と婚約を発表するなど、公私とも絶好調で「第13回ワールドリーグ戦」に臨んだ。

前評判では”昨年は馬場が優勝したことから、今年は猪木が優勝するのでは”と言われていたが、優勝争いは馬場、猪木、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーの4選手に絞られ、最終的には4選手が同率で並ぶ展開となった。猪木が優勝した「第11回ワールドリーグ戦」では馬場、猪木、クリス・マルコフ、ボボ・ブラジルの4選手が最終的同率で並び、4人による組み合わせ抽選で馬場vsブラジル、猪木vsマルコフとなって、馬場がブラジルと引き分け、猪木がマルコフを卍固めで破って優勝となったが、「第13回ワールドリーグ戦」はそれと全く同じ展開となったのだ。

そして組み合わせ抽選では猪木vsデストロイヤー、馬場vsブッチャーに決定し、ルールも時間無制限1本勝負で勝者には1点を与えられるも、同点になれば馬場vsデストロイヤー、猪木vsブッチャーとして相手を変えて行い、それでもなおかつ同点になった場合は日本人同士、外国人同士の対決は止む得ないというものだった。当時の日本プロレスは日本人同士、外国人同士の対戦が行わないのが基本的なルールでもあり、馬場vs猪木戦が実現するには、二人がデストロイヤー、ブッチャーを倒さなければいけないことから実現する可能性は少なかった。

そのルールに不満を持ったのは猪木で「2年前もそうだったけど、ともかくファンがオレと馬場さんとの対決を望んでいる。日本プロレスの希望としては馬場さんかオレでもどちらでも優勝して欲しいんだけど、ハッキリ言って日本人同士の対決をルールを盾にして逃げている場合じゃないと思う。こんなことを繰り返していたらファンは逃げてしまうよ」と親しい記者に漏らしていた。

それでも猪木は僅かな可能性をかけてデストロイヤーと対戦したが、デストロイヤーが足四の字固めを仕掛けたまま場外へ転落して、そのまま場外心中を図ったため両者リングアウトになったため、僅かな可能性を残していた馬場戦への夢が潰えてしまう。

そして優勝決定戦となった馬場vsブッチャー戦が行われている最中に、猪木が控室で「ハッキリ断っておくが、オレは一時的な感情でこれを言っているんじゃない。冷静なんですよ、ワールドリーグ戦で優勝できなかった腹いせでこんなこと言っているんじゃない、デストロイヤー戦では力及ばず引き分けとなってしまった。こうなったら馬場さんに優勝してもらいたい。でも、それとこれから言うことは別なんです。オレは馬場さんの保持するインターナショナルヘビー級王座に挑戦したい。これは公式声明です。明日、コミッショナーに挑戦願いを出します。最近街を歩いて『UN王者とインターナショナル王者、どっちが強いの?』とよく聞かれる。我々もファンのそういった疑問に答える義務があると思う」と突然馬場へ挑戦を表明したのだ。

リング上では馬場がブッチャーの毒針エルボードロップを自爆させて3カウントを奪い優勝を果たしたが、控室で猪木が突然馬場への挑戦を表明したことからマスコミだけでなく日本プロレス幹部も色めきだって、馬場の優勝どころの騒ぎではなかった。

優勝トロフィーを持って控室に戻った馬場だったが親しい記者から、猪木が挑戦を表明したことを知らされると、温厚な馬場が珍しく怒った。理由は仁義を通していなかった、猪木からの根回しがなかったからだった。馬場は常々「プロレスの世界っていうのは、何をやるにしろ根回ししてやるのが仁義なんだ」とアメリカマットから教わっており、猪木のやったことは根回しのない仁義破りと受け取っていた。そして猪木が馬場の控室へ訪れ握手して優勝を祝福し、馬場も応じたが内心は猪木に対してムカついていたと思う。

猪木は帰京後に日本プロレスコミッション事務局を訪れ、馬場の保持するインターヘビー級王座への挑戦願いを提出、そして川島正次郎亡きあと日本プロレスコミッショナーに就任していた椎名悦三郎との会食でも、日本プロレスの幹部らの前で馬場に挑戦願いを出したことを報告すると、馬場も「ああ、そう」と軽く受け流した。そしてコミッションや幹部らの会議は馬場vs猪木が実現させるか紛糾し、賛否両論が飛び交った。そして最終的な結論は猪木の挑戦願いは”却下”で、挑戦願いはコミッション預かりとして実現の可能性はあるものの、時期尚早というものだった。

猪木は「馬場への挑戦という信念は曲げない」としつつ、挑戦願いの預かりとなったことで引き下がった。猪木にしてみれば実現は出来なかったが、実現に向けて賛成してくれた者もいたことから、前向きに討議してくれたことに満足していた。

猪木は後年「相手が一番嫌がるところは、そこでしょ。別に仲がいい、悪いとかじゃなくて、戦いという中にいる以上、馬場さんは戦いたくないわけで、戦いだから、そりゃ結果はわかりませんよ。まあ…オレの方からすれば、結果がわかっているわけだけど」「”馬場プロレスは将来的なものじゃない”というのがオレの考えですよ、それは力道山イズムの問題になってくる。本家はジャイアント馬場ですよね、百田家との関係で、本来なら本家があって、そこが大事にされるべきなんだけど、オレらにしてみれば、その本家に力道山イズムがないんだから、そこは相いれないものがありますよ」と答えていた。確かに馬場は力道山を立ててはいるが、目指しているのは自身が学んできた本場のアメリカンプロレスで、力道山のプロレスではない、馬場にしてみれば猪木は自分を利用しているのではと思っただろうが、猪木にしてみれば馬場の中に力道山はあるのか、いつまでも日本人vs外国人にこだわる日本プロレスの在り方だけでなく、馬場への問題定義も挑戦願いに込められていたのかもしれない。

その後、日本プロレスにクーデターが勃発、馬場と猪木は袂を分かって、馬場は全日本プロレス、猪木は新日本プロレスを旗揚げ、猪木は旗揚げ後も馬場への挑戦を表明し、馬場が避け続けたことで「馬場は逃げたという」というイメージを受け付けたことで、猪木の人気を上げることになったが、猪木自身も馬場は最初から挑戦は受けないだろうとわかったうえでの表明で、馬場自身も事前に話も通っていないことから「また猪木はオレの名前を利用しているのか」と相手にしなかった。
しかし猪木は馬場に事前に仁義を通したことがあった。1979年8月に開催された「プロレス夢のオールスター戦」の前日に猪木が馬場に電話を入れ、”あることをすることので承諾して欲しい”と申し出てきた。馬場は自身への挑戦表明だと察知して”だから猪木は信用できないんだよ”と考えながらも、事前に仁義を通してきたことで猪木の申し出を認めた。猪木は馬場と久しぶりにB・I砲を結成してブッチャー&タイガー・ジェット・シン組を降した後で猪木は「私は馬場選手と戦えるように、今後も努力していくつもりです。二人が今度このリングで会う時は、戦う時です」と握手を求めると、馬場は笑顔で「よし。わかったやろう!」と握手をかわしたが、二人の対戦は実現することはなかった、いや猪木もvs馬場はこの頃には冷めていたことから、猪木自身もvs馬場への挑戦アピールはリップサービスに過ぎず、馬場自身もそれをわかっていたから応じていたのかもしれない。

1999年に馬場は死去、猪木は現役引退後は新日本プロレスを離れてIGFを設立、IGFの猪木劇場でも猪木は馬場への挑戦を口にしていたが、馬場も天国から「死んでもなお、オレの名前を利用するのか」と呆れて見ていたのかもしれないが、猪木にとって馬場は永遠に追いかける存在でもある。

(参考資料 GスピリッツVol.50「B・I時代の日本プロレス」Vol.56「日本プロレス」日本スポーツ出版社「プロレス醜聞100連発」)

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