PWF杯争奪タッグトーナメント…アイドルだらけの夏に異分子登場!


1981年8月20日の全日本プロレス「スーパーアイドルシリーズ」」後楽園ホール大会から「第2回PWF杯争奪タッグトーナメント」が開幕した。「PWF杯争奪タッグトーナメント」は1980年から始まり、ミル・マスカラスとドスカラスのマスカラス兄弟が優勝したが、マスカラス兄弟は例年は子供のファンが集まりやすい1月、8月に来日することから当時人気のあったマスカラス兄弟のために設けられたシリーズで、前年度が評判が良かったこともあって、2回目も開催することになった。

<出場チーム>
ミル・マスカラス&ドスカラス組
リッキー・スティンボード&チャボ・ゲレロ組
ジノ・ヘルナンデス&グラン・マーカス組
ドクトル・ワグナー&アニバル組
石川敬士&佐藤昭雄組
グレート小鹿&大熊元司組
天龍源一郎&ロッキー羽田組

参加チームは前年度覇者であるマスカラス兄弟を筆頭に、1980年の世界最強タッグに初来日を果たしてから人気を博していたリッキー、新日本プロレスからNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を保持したまま移籍したチャボ、当時テキサス州ダラスでエリック兄弟相手にヒールとして活躍していたジノ、メキシコからワグナー、アニバルらが参戦したが、マスカラス兄弟だけでなくリッキーもアイドル的な人気を博しており、ジノもヒールながらアメリカでは女性から人気があったこともあって、まさしくアイドルが集結したシリーズだった。

チーム編成はリッキーはチャボ、ワグナーはアニバルと組み、日本勢からは凱旋帰国を果たして第3の男として売り出されたばかりの天龍は羽田と組み、アジアタッグ王者になったばかりの石川&佐藤、元アジアタッグ王者組の小鹿&大熊の極道コンビがエントリーしたが、ジノと組むはずだったグラン・マーカスという選手が負傷を理由に来日が中止になると、マーカスの代役としてジプシー・ジョーが急遽参戦することになり、そのままジノのパートナーとなった。

ジョーはマッドドック・バションの推薦で1975年に国際プロレスに初来日、ラッシャー木村相手に金網デスマッチでIWA世界ヘビー級王座をかけて何度も対戦し、金網最上段からダイビングニードロップやイスで叩いても逆に壊れるなどタフネスさを売りにして、たちまち国際プロレスで外国人エースとなって伸し上がっていた。アメリカではローカルエリアを渡り歩いたジョーにしてみればトップとして扱ってくれる日本は天国のように感じていたのかもしれない。

1981年に入ると国際プロレスの観客動員が激減して経営状態が悪化すると、約束通りに支払われるはずのギャラも徐々に下がり始めていこともあって、”国際プロレスはまもなくTHE END(崩壊)だな”と感じ始めていた。しかし日本を主戦場にすることにこだわっていたジョーは月刊ゴングの記者だった山口雄介氏に相談すると、山口氏のラインで馬場を紹介され、馬場もマーカスの代役を欲していたところだったこともあり、全日本に参戦が急遽決定した。

ところが国際プロレスの吉原功社長が全日本とジョーが接触していることがわかると、全日本がジョーを引き抜いたとして馬場を非難し、国際プロレスとの契約を盾にしてジョーの参戦にストップをかけようとする。吉原社長は国際プロレスの活動休止にあたり、所属全選手を全日本に引き取ってもらおうと馬場に働きかけていたが、馬場から断られたとしていた。当時の全日本は日本テレビから派遣された松根光雄氏が社長に就任しており、馬場は会長に棚上げされていたことから馬場の一存では決められない状況となっていたが、後でわかった話だが吉原社長と会ったとしても、選手を引き取りの話はなかったという。仮に吉原社長から、その話は出ても日本テレビからテコ入れを受けるぐらい全日本の経営も苦しい状況であったことから、全選手を引き取るのは無理な状態であり、ジョーに関しても国際プロレスとは口頭だけでキチンとした契約が結ばれていないことも本人から確認していた。いくら国際プロレスに優先権があったとしても、活動を停止する団体に引き留めること自体が無理な話であり、吉原社長はジョーを引き留めようとしていたのは敢えて抗議することでジョーのトレードマネーを全日本から引き出して借金の返済に充てようとしていたのかもしれない。その後、馬場は国際プロレスから反新日本プロレスの急先鋒であるマイティ井上、阿修羅・原ら数名の選手を吉原社長を通さずに一本釣りで獲得し、ジョーと同じく国際プロレスのトップ外国人選手だったアレックス・スミノルフもザ・デストロイヤーのルートで全日本に移籍となった。

8月9日の北海道羅臼大会をもって国際プロレスは活動を休止、最終興行にも参戦して国際プロレスの最後を見届けたジョーは20日の全日本の「スーパーアイドルシリーズ」の開幕戦に合流、開幕からいきなり馬場とシングルで対戦するビックチャンスが与えられ、馬場の逆水平やキックもジョーは平然と受け流し、ジョーが持ち出した角材を馬場に差し出して”殴って見ろ”と挑発して、馬場が角材で殴打しても、逆に角材が真っ二つに折れるというタフネスぶりを見せたことで、今までジョーの試合を見たことのなかった馬場だけでなくファンも唖然とさせてしまう。試合は場外戦でジノが乱入してジョーと共に馬場を痛めつけたためジョーの反則負けとなり、また22日の後楽園で行われたマスカラスvsリッキーのシングル戦でもジノと一緒に乱入して試合をぶち壊して、そのままマスカラス&リッキーvsジョー&ジノのタッグマッチに突入するなど、この二日間でジョーはアメリカでヒール人気があったジノを差し置いてヒールのトップ格として扱われるようになる。テキサスで人気を博していたジノにしても、アメリカでは格下であるジョーに主役を奪われたのは屈辱だっただろうが、ジョーもケンカ強さにも定評があったことから、ジノは敢えて手を出さなかった。

トーナメントは8月28日の新潟県三条大会で決勝戦が行われ、マスカラス兄弟がリッキー&チャボを降して優勝し、リッキーは9月2日までの契約だったこともあってシリーズから途中退場するが、ジョーにはさらなるチャンスが与えられ9月2日の大阪ではジャンボ鶴田の保持するUNヘビー級王座に挑戦することになり、試合は3本勝負で行われ、1本目は鶴田がリングアウト勝ち、2本目はジョーが得意のフライングニードロップで3カウントを奪いタイに持ち込むも、3本目は鶴田のバックブリーカーから逆エビ固めでギブアップを奪われ王座奪取はならなかったが、9日の小山ゆうえんち大会ではマスカラスの保持するIWA世界ヘビー級選手権に挑戦するチャンスも与えられた。IWA王座は国際プロレスの至宝であるIWA王座と同名の王座だが、マスカラスの保持するIWA王座はかつてアメリカにあったIWAの王座で、団体が崩壊してからはマスカラスの個人のベルトとして所有し防衛戦を行っていたものの、国際プロレスへの配慮からか日本では防衛戦を行うことが出来ず、国際プロレスが崩壊したに伴って解禁となったが、ジョーにしても出自は違えど全日本のリングでIWAの名の付く王座に挑戦するとは皮肉だったと思う。この試合も3本勝負で行われ、1本目はマスカラスがボディープレスで先取も、2本目はジョーが得意のダイビングニードロップで3カウントを奪ってタイに持ち込んだが、3本目でマスカラスがジョーの持ち出したイスを奪い取って一撃を浴びせると、ダイビングボディーアタックを決めて3カウントを奪い2-1でマスカラスの勝利となり、ジョーは王座奪取はならなかったものの、ジョーのヒールぶりは高く評価されて全日本に定着することが出来た。

シリーズは無事終了したがジョーの相棒だったジノは2度と全日本に来日することはなかった。アメリカで人気を博していたからかもしれないが、ジノからしてみれば格下のジョーの風下に立たされたことでプライドが傷つけられ、オファーがかかっても全日本に来日する気はなかったのかもしれない。その後もエリック兄弟との抗争でヒール人気を高めたジノは、フリッツ・フォン・エリックの指示で提携を開始したばかりの新日本に参戦することが決まっていたが、来日直前の1986年2月2日にコカインの過剰摂取で死去、ジノはプライベートではマフィアやコカインの売人との交際があり、その影響でコカインを摂取していたという。

一方のジョーは全日本の常連となったが、スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディ、タイガー・ジェット・シンなどの大物選手が来日すると脇に回されてしまい、元国際プロレスのマイティ井上や阿修羅・原が保持していたアジアタッグ王座や大仁田厚の保持するインタージュニア王座に挑戦することはあっても、PWFやUN、インターヘビー王座のビックタイトルには挑戦することはなく、中堅外国人として埋没していったが、1985年夏までに10度に渡って全日本に参戦した。

ジョーは日本で得たギャラを夫人に仕送りしていたが、その夫人に逃げられてから、再び名前の通りジプシーとなってアメリカのローカルエリアを渡り歩き、全日本との縁が切れてからはW☆ING、SMASHにも参戦、2011年にアメリカで引退し、2013年8月には長く患っていた痛風のために右足を切断、2016年に死去して82年の生涯に終止符を打った。
(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.22 悪党の世紀」)

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