1985年3月21日、成田空港に降り立ったブルーザー・ブロディは後楽園ホールへと直行したが、上がったリングは初来日から参戦し続けた全日本プロレスではなく新日本プロレスで、ベートーヴェンの「運命」に乗って背広姿のブロディが愛用のチェーンを持って登場、ハックソー・ヒギンズとの試合を控えてリングに上がっていたアントニオ猪木と向かい合い、ファンはブロディの登場を大歓迎した。
ブロディは1979年1月、全日本に初来日を果たし、1981年からは新日本に引き抜かれたアブドーラ・ザ・ブッチャーに代わってトップ外国人選手に伸し上がり、新日本から移籍した盟友であるスタン・ハンセンとの超獣コンビで大暴れするだけでなく、インターナショナルヘビー級王座も奪取してジャンボ鶴田に敗れるまで長期政権を築いた。
アメリカでのブロディは基本的にフリーランスで通し、アメリカでは一地区に定着せず、渡り鳥のように各テリトリーを渡り歩いていたが、その反面「自分の敵はプロモーターだ」と言い放っていた通り、プロモーターとトラブルを起こすトラブルメーカーの一面を持っていた。しかしWWFの全米侵攻によりテリトリー制度が崩壊すると、フリーランスで活躍していたブロディの活躍する場が少なくなり、そのためブロディは古巣であるダラスのWCCWやAWAなどアメリカでの主戦場にせざる得なくなっていた。
この頃の1985年の新日本プロレスは前田日明、藤原喜明らが旧UWF、長州ら維新軍団だけでなく、中堅選手や若手選手までもジャパンプロレスへ移籍したため、選手層が一気に薄くなり、また外国人選手ルートもWWF(WWE)との提携関係は継続していたが、莫大なブッキング料をせしめられるだけでなく、これまで新日本の常連だったハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントなどの大物がWWFのスケジュールを優先して頻繁に参戦できなくなるなど、新日本にとって不利な条件を飲まされていた。そこで副社長だった坂口征二はWWFに頼らず独自の外国人エースルート開拓に奔走、WCCWとの業務提携を結んだ。
WCCWはテキサス州ダラスを拠点に置くNWA系のプロモーションで、NWA会長にもなったフリッツ・フォン・エリックがプロモーターとして取り仕切っていたが、当時のNWA会長だったジム・クロケット・ジュニアの発言力が増したことを契機にNWAとは距離を取るようになっていた。そのWCCWとの提携の第1弾として派遣したのはブロディで、プロモーターとはトラブルを起こすブロディだが、フリッツのスカウトを受けてデビューしていたことから、フリッツを師事しており、フリッツの命令だけは従っていたものの、全日本に愛着も感じていたブロディもさすがにフリッツから命令に戸惑いを隠せなかった。
ブロディは2月から開幕する「激闘!エキサイトウォーズ」に参戦、エリックからは「馬場に気づかれないように、シリーズ中は平静を装うこと、新日本への移籍はセンセーショナルなものにすること」と指示されていたが、ブロディ自身はまだ新日本との契約は結んでいなかったのもあって移籍することにまだ躊躇しており、馬場からのギャラアップを含めた引き止めを待っていた。ところが馬場も前年末からエリックが新日本に接近しブロディが新日本に移籍することを察知しており、なぜか引き止めるつもりはなく、馬場の中ではブロディの離脱は想定内だった。
馬場からの引き止めもなかったブロディは、3月9日の両国大会でキラー・ブルックスと組んで長州、谷津嘉章組と対戦すると、長州の技を受けずに徹底的に痛めつけ、最終戦である3月14日の愛知県体育館大会では、ブロディはラッシャー木村、鶴見五郎の国際血盟団と組んで馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組と対戦した際には、試合途中でバックステージに下がって試合を放棄してしまう。ブロディは一旦アメリカへ戻ると、1週間後の新日本プロレスの後楽園大会にベートーベンの「運命」と共にブロディが現れ、アントニオ猪木に対して対戦を要求したが、この時の馬場もブロディの離脱は想定内と考えていたことから慌てず平静を保っていた。
ブルーザー・ブロディが新日本に初登場した翌日の22日、京王プラザホテルで記者会見を開き、ブロディが会見を開き、新日本プロレスへの参戦を正式表明した。ブロディは会見で「私は日本に来るたびにテレビを通じて猪木のファイトを見てきた。そして、次第に彼の存在に興味を持つようになった。レスラーの資質で一番重要なのは、その人間の内面にあるバーニングスピリットだ。猪木の眼を見ていると、私と同じバーニングスピリットを感じることが出来る。彼と私の闘いはマインドとマインドのぶつかり合いになるだろう」と”バーニングスピリット”を強調して猪木との対戦をアピール、「私のオールジャパンでのファイトはは、3月14日の名古屋大会が最後となった。再びオールジャパンに出場することはない。今後は、WWFとニュージャパンを中心に活動していく」と新日本を主戦場にしつつ、ゆくゆくはWWF(WWE)参戦も視野に入れると発言したが、WWFは問題児であるブロディにアプローチする気は全くなかった。
追伸=長州&谷津とのタッグマッチでブロディのパートナーを務めたブルックスさんが6月30日に死去しました。ご冥福をお祈りいたします

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.27 反逆・決起の時 GスピリッツVol.40 金曜8時の新日本プロレスPART3 狂騒の80年代編 斎藤文彦著「ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還)
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