アントニオ猪木のNWF史上最悪の選手権、フロリダから来たシューター、ボブ・ループの挑戦!


1979年1月12日 神奈川県川崎市体育館でアントニオ猪木がNWFヘビー級王座をかけてボブ・ループの挑戦を受けた。

ループは1942年生まれで高校時代からアマレスで頭角を現し、1968年にはメキシコオリンピックに出場。1969年にエディ・グラハムのエリアであるフロリダマットでデビューを果たし、「将来のNWA世界王者」の触れ込みで1970年に日本プロレスに初来日して「第1回NWAタッグリーグ」の公式戦でタッグながら猪木と初対決した。

帰国後はNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、また拠点としたフロリダではポリスマンとして活躍し、道場破りの輩を容赦なく痛めつけるなどシューターとしてならし、1974年には全日本プロレスに来日、ミル・マスカラスや、まだ新人だったボブ・バックランドとも組み、タッグながらも馬場からフォールを奪うなどして活躍した。

ループはフロリダではヒール側のマネージャーとなっているグレート・マレンコと親しい関係になっていた、グレート・マレンコはボリス・マレンコの名前でフロリダを拠点としたレスラーで、チェーンデスマッチの名手として活躍、日本プロレスや全日本プロレス、新日本プロレスにも来日していたが、ループと親しい関係になってからはタキシード、ステッキ、葉巻をトレードマークに悪の紳士をイメージしたヒール側のマネージャーとなっていたが、カール・ゴッチと親しい関係だったこともあって、グラハムもゴッチを嫌っていたことから、マレンコも当然グラハムから嫌われ、マレンコ側にいたループも次第にグラハムから疎外されるようになっていった。

グラハムがフリッツ・フォン・エリックに代わってNWA会長に就任すると、ループにカリフォルニア州サンフランシスコへの出向を命じた。サンフランシスコはパット・パターソンをエースにして栄えたエリアだったが、パターソンがシスコを去ると一気に廃れてしまい、NWA会長だったグラハムはループを派遣してテコ入れさせようとしたが、もう一つの目的はマレンコとループを引き離すためで、ループをシスコへ左遷させてマレンコを孤立させようとしていた。グラハムから指示を受けたループもフロリダで長く滞在したのもあり、気分転換のつもりでグラハムの指示に従い、シスコへブッカー兼任でシスコへ転戦したが、テコ入れどころかますます観客動員が落ち込んでしまったことで大失敗に終わり、シスコのエリアもクローズされる結果となってしまった。

シスコマット建て直しに失敗したループはフロリダに戻るも、ループがシスコへ転戦している間にマレンコがグラハムと決別してノースカロライナのジム・クロケットプロモーションへ移っていたため、フロリダにおけるループの立場はなくなり、冷遇されるようになった。そこでマレンコから新日本プロレスに参戦することを誘われると、ループはこのままでは飼い殺しにされると考え、マレンコの誘いに応じ、グラハムの承諾のないまま新日本へ参戦した。

シリーズにはジョニー・パワーズも参戦していたが、馬場からフォールを奪ったということでループがエース格と扱われ、12日の川崎大会で挑戦となったが、本来猪木のNWF戦は大都市中心で組まれることが多く、川崎で組まれることは異例で、猪木もシリーズ最終戦の大阪府立体育会館大会にはミスターXとの異種格闘技戦が決まっており、前年の11月でのヨーロッパ遠征でコンディションを最悪の状況だったこともあってコンディション調整のために、猪木はなるべく選手権をかけた試合を避けるつもりでいたが「ワールドプロレスリング」を放送しているテレビ朝日側が納得せず、1月中にタイトルマッチを組んでほしいと要請され、仕方なしに川崎で組んだものの、まだローランド・ボック戦の後遺症も残っていた猪木にとっては手強い相手で、前哨戦のタッグマッチでもループのショルダーバスターを食らって痛めていた右肩に更なるダメージを負ってしまい、テレビ朝日の要請もストレスとなって、心身共にガタガタの状態でループを迎え撃たなければならなくなった。

 開始となると猪木がヘッドロックからショルダータックルを仕掛けるが、ループはジャンピングニーパットで応戦して場外へ追いやり、猪木はセコンドのマレンコを牽制しながらリングに戻る。
 ループは片足タックルからアームロックで猪木の動きを封じ、ロープに押し込んでニーを落として、猪木はたまらず場外へエスケープするも、リングに戻るとループはレッグシザースからグラウンド狙い、猪木は逃れるも再びグラウンドを仕掛けられてしまい動きを封じられてしまう。
 猪木もヘッドシザースで反撃するが、ループは猪木の痛めている左足を攻めて反撃、スタンディングでビンタを狙うも、ループは軽く避け、猪木も「カモーン」と挑発しつつ、セコンドのマレンコを牽制しつつ、ループをヘッドロックで捕えて流れを変えようとする。
 猪木は素早くレッグシザースで足を捕らえようとするが、切り返したループは上から覆いかぶさってグラウンドでリード、猪木はヘッドシザースを狙うがループは巧みに逃れ、ビンタも避けたループはグラウンドに引きずり込み、足を絡めながらの揺りイス固め、グラウンドコブラなどでリードを奪い返し、猪木は場外へ逃れるも、全く自分のペースにならないことで苛立っていく。
 猪木が挑発するとループは場外へ逃れてマレンコの指示を受けてリングに戻り、間合いを外された猪木はリングに戻ったループにラフを仕掛け、ローキックを放っていくも、ループは再び片足タックルからグラウンドに持ち込み、ループがマウントを奪ったまま場外戦に持ち込むも、ループは鉄柱攻撃からリングに戻りアームバーで猪木の動きを再び封じにかかる。
 逃れた猪木は足四の字固めで捕えるが、ループはリバースしてロープに逃れ、場外へ落ちたループは足を痛めたのか呼吸を整えてリングに戻ると、猪木が片足タックルから逆片エビ固めで捕らえるが、逃れたループはクルックヘッドシザースで絞めあげる。
 逃れた猪木はボディースラムで反撃も、間合いを外して追撃を許さなかったループは片足タックルでコーナーへ押し込むと、マレンコがステッキで猪木に攻撃し、ループもネックブリーカードロップを決めるが、猪木は場外のマレンコに襲い掛かり、マレンコもたまらずリング内に逃れる。
 ループはリングに戻った猪木にナックル、エルボーを仕掛けると、猪木はナックルアロー、逆水平で応戦も、ループはマンハッタンドロップからエルボードロップと猪木のペースにさせず、逆片エビ固めで猪木を追い詰める。
ループはベアハッグで捕えてフロントスープレックスを狙うが、体を入れ替えた猪木は起死回生のバックドロップで投げ、ストンピングを浴びせるも、ループがバックを奪うとそのまま反り投げで投げ、バックから猪木の動きを封じる。
 スタンディングになると猪木はブレーンバスターで投げるが、セコンドのマレンコを気にして追撃できず、ループはタックルからサイドポジションを奪い、腕を固めるが猪木はアームホイップ、首投げで反撃するとドロップキックを放ち、差し合いのままループが押し込むとボディブローの連打から必殺のショルダーバスターを決め、再度狙ったところで逃れた猪木はローキックの連打、コブラツイストで捕えたところでマレンコはミスター高橋レフェリーに襲い掛かり、これに怒った猪木はマレンコに襲い掛かると、ループもステッキで猪木を殴打、坂口征二や外国人勢が駆けつけて乱闘となって試合終了、猪木の反則勝ちで防衛となった。

バックステージでも猪木は「こんな早い段階でNWF戦が組まれてしまったのは実に不本意で不満だ。もう少し、自分のコンディションを考えてもらわなければ困る」と強引にNWF選手権を要請したテレビ朝日側に不満をぶつけ、ループとの再戦はミスターX戦に専念する理由で組まなかった。猪木にしてみればループが一方的に攻めて自分を引き立たせないようにしたことに大いに不満だったのかもしれないが、後年ループは「あの試合で最高のものを出し切った充実感はあったから再戦には拘らなかった、猪木も同じような気持ちだったと思うよ」と猪木と好対照だった。

新日本に参戦を終えたループは新日本どころか全日本からもオファーはなく、来日はこれ限りとなった。またマレンコと行動を共にしたことでフロリダに戻ることはなく、ループはNWAの主要マーケットからも外されてインディーを渡り歩く一匹狼となったが、グラハムがアルコール依存症と金融投資の失敗が重なって1985年にピストル自殺で死去すると、息子であるマイク・グラハムの要請でループはフロリダマットに復帰、頭を半分剃り上げペイントを施した「マハ・シン」という怪奇派レスラーに転身、ヒールとして活躍したが、1988年に自動車事故による強いムチ打ち症となったことを契機にプロレスを引退、ループ自身は元々長くレスラーをやるつもりはなかったため、家族と共にフロリダを離れ故郷のミシガンに戻っていった。

ミシガンに帰った後のループは幼稚園の経営に携わり、愛妻を亡くしたものの、元気で余生を過ごしている。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.27 反逆・決起の時」、辰巳出版 「GスピリッツVol.52 全日本プロレススーパーレジェンド列伝」)

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