昭和の名レフェリー・ジョー樋口


1997年3月1日、全日本プロレス日本武道館大会で行われた三冠統一ヘビー級選手権(王者)三沢光晴vs(挑戦者)スティーブ・ウイリアムス戦が行われ、試合は三沢がタイガードライバー91で3カウントを奪い王座防衛したが、この試合をもって全日本プロレス旗揚げから長らくレフェリーとして活躍したジョー樋口が引退した。

ジョー樋口こと樋口寛治は昭和4年1月18日に横浜で生まれ、マラソンや相撲でも1番になるなどスポーツ万能で、いっぱしのガキ大将でもあったが、小学6年生になると最初は父から勧められて剣道を学んだものの、早くから剣道部に入った連中から、メチャクチャに竹刀で叩かれたことにキレて、竹刀を放り出して、相手に組み付き面を取ってしまった。これを見た剣道部の部長は隣の柔道部へ行くように勧められて、そのまま柔道部に入ってしまった。
中学に進学しても柔道を続けていたが、日本とアメリカの間で太平洋戦争が勃発すると、勤労動員に駆り出されて柔道どころではなくなり、3月に京浜工業地帯がB-29によって大空襲にされると、樋口が勤めていた工場も空襲された。幸い樋口は同級生が当時敵性音楽とされたジャズのレコードを隠し持っており、工場の仕事をサボって聞きに行ったことで、九死に一生を得ることが出来た。

 昭和20年4月には大学へ進学したものの、8月15日に太平洋戦争は日本は負けて終戦、アメリカからやってきた駐留軍の通達で剣道や柔道などの武道関係の部活動は禁止されたが、樋口は町道場で柔道を続け、県主催の柔道大会で優勝すると、駐留軍の将校で日系二世だったジョージ原口という人物から「部隊の体育館で柔道をコーチしてほしい」と依頼される。樋口も部活動で柔道を禁止されていた反発から断ったが、柔道マニアだった原口の熱心な誘いに折れて部隊の施設を訪れると、当時の日本では考えられないほど設備が整っており、樋口は柔道を教えるだけでなく、ボクシングやボディービルなど学び、また当時は物資が欠乏していたこともあって食事を腹いっぱい食わしてもらうなど、好待遇を受けていた。
 しかし、駐留軍のジムに入り浸っていたことで、大学から除籍処分を受けてしまい、原口の配慮で隊内勤務の職員に採用されると、この頃から英会話が堪能になって通訳までこなすようになった。そんなある日ボクシングの世界ヘビー級王者だったジョー・ルイスが駐留軍を慰問のためにプロレスラーを伴って来日、ルイスも慰問試合を行ったが、プロレスも行われ、原口に誘われて観戦した樋口は初めて見るプロレスに魅了するようになった。

 樋口も「いつまでも駐留軍勤務では…」と思っていたころから一念発起し、家族兄弟の反対を押し切って、大阪で全日本プロレス協会を旗揚げしていた山口利夫の下へ弟子入り、その時先輩だった吉村道明と知り合って面倒を見てもらいつつ、昭和29年にデビューを果たした。ところが昭和30年1月26日の大阪府立体育会館で山口が力道山の保持する日本ヘビー級王座に挑戦して敗れると、団体は一気に凋落してしまい、31年1月に活動停止、プロレスをあきらめた樋口は横浜へ戻ったが、山口が静岡県三島に山口道場を立ち上げ、参加していた吉村から日本プロレスが主催する「ウエイト別日本選手権トーナメント」参加するように説得され、樋口もライトヘビー級として参加するがトーナメントはには山口道場だけでなくアジアプロレスなど各団体が参加し、またプロレスとは程遠い俗に言う”ガチンコ”的な試合が多く、腕を折られる選手もいたほどだった。しかし柔道の下地があった樋口は2回戦まで勝ち抜き、準決勝では吉原功(後の国際プロレス社長)には敗れたものの、3位で入賞を果たした。

 吉村はジュニアヘビー級トーナメントに優勝、山口もヘビー級トーナメントでは決勝で東富士に敗れたものの、準優勝となり、この実績を盾にして再起を図ろうとしたが、山口の側近が興行の売り上げ金を持ち逃げする事件が起きてしまい、この一件で山口道場も解散となった。樋口は再び行き場を失いかけたが、吉村の誘いで日本プロレスへ移籍することになった。そもそも「ウエイト別日本選手権トーナメント」の目的は人材発掘で、力道山はトーナメントを通じて他団体から日本プロレスへ引き抜くことが目的だった。ジュニアヘビー級で優勝した吉村と、ライトヘビー級で好成績を残した樋口が力道山の目に留まり、吉村を通じて日本プロレスから誘いを受けたのだ。

 日本プロレスでの樋口は軽量だったこともあって主に前座で活躍したが、英語が堪能であることが力道山にわかると、外国人係も兼務するようになり、当時は洋風レストランも少なかったこともあって、料理好きでもあった樋口は地方巡業で宿舎だった日本旅館の厨房を借りて、ステーキを焼き、ポテトの料理、一抱えもある大きな器に生野菜のサラダやスープなど振舞って外国人レスラーを喜ばせ、その話を聞いた力道山が「オレにも作れ」と一時期力道山の食事係まで務めたこともあった。しかしジャイアント馬場とアントニオ猪木が入門すると、自身が30歳にもなったことでレスラーとしても限界を感じた樋口は引退し、日本プロレスを退団して大阪で水商売に転職したが失敗してしまい、父親が亡くなったことをきっかけに横浜に戻ったところで、吉村から誘いを受けて日本プロレスに戻り、外国人係として裏方に専念したが、樋口は外国人選手に出来るだけ良いコンディションで試合をしてもらうように全力投球し、初来日のレスラーも多かったことで、樋口は日本でのマナーや教え、またホームシックになると慰めたり励ましたり、また言うことを聞かない選手もいたりすると怒鳴り合いのケンカもしたが、そうして樋口は外国人レスラーから信頼を得るようになり、初来日の外国人選手が空港に着くと真っ先に樋口を探し、来日経験者から「日本に行ったら、全てジョーに頼れ」と言われるようになった。

 1963年12月に力道山が死去すると、翌年には海外武者修行に出ていたジャイアント馬場が凱旋帰国を果たす。1965年にメインレフェリーだった沖識名が拳銃不法所持で逮捕されてしまい欠場することになると、レフェリーはユセフ・トルコと田中米太郎だけとなってしまい、レフェリー不足となったところで、樋口が全日本プロレス協会でレフェリーもやっていたことも知っていた吉村から「レフェリーもやれ」と命じられ、そのまま外国人係兼任でレフェリーとなり、レフェリングを勉強するだけでなく、トレーニングにも励み、中には試合中にレフェリーに手を出す外国人選手もいることから、もっぱら受け身の練習に励み、馬場から「ジョーさん、現役レスラー時代よりいい受け身を取っているね、下手なレスラーよりよっぽど上手い」と褒められたことがきっかけに、馬場との親交が生まれるようになった。また樋口のレフェリングも外国人選手から評判が良く、昭和42年にはアメリカの各地区のプロモーターからオファーを受け、樋口も修行がてら海外でもレフェリーとして試合を裁き、好評を得たことでプロモーターとの親交も深まった。

 日本プロレスではアントニオ猪木も台頭し馬場、猪木によるB・I時代へと突入、それに伴って派閥も生まれ始め、レフェリーも馬場の試合は沖、猪木の試合はトルコが主に裁くようになったが、樋口は馬場、猪木両方にも合わせられるため、猪木からも一目置かれる存在になるも、1971年に日本プロレスでクーデター事件が起きると、猪木は日本プロレスから追放され、トルコと共に新日本プロレスを旗揚げし、翌年には馬場も退団して新団体設立へと動く、樋口は力道山時代から尽くしてきた会社のスキャンダルに「世間に顔向けできない」と考え、日本プロレスから退団を決意、吉村も自身が近々引退することもあって樋口を引き留めなかった。
 樋口はアメリカの各テリトリーから誘われていたこともあって、渡米を決意していたが、渡米用のビザを渉外担当だった米沢良蔵に頼むと、密かに馬場に追随することを決めていた米沢氏は馬場に知らせ、馬場はすぐ樋口と会い新団体に誘った。馬場は日本プロレスを退団した際には誰も誘わなかったのだが、「退団するなら遠慮なく誘える」として樋口を新団体に勧誘したのだ。樋口はこの頃にはすでに家庭を持っており、渡米に際しては慣れない土地で家族に苦労をかけるのではと悩んでいたところだった。樋口は馬場の申し入れを受けて新団体・全日本プロレスの旗揚げに参加することを決めたが、アメリカのプロモーターたちから「すぐに来い」と言われていたことから、それらを断るために詫びという意味で頭を丸めてスキンヘッドになり、渡米した際に「これが日本流の詫びの印だ」と謝りつつ事情を説明すると、彼らは大笑いしながら「馬場がオフィスを作ったのなら、そちらの方が安心だ。オレらの付き合いは今後も続けられる」として快諾し、ついでにレフェリーの仕事まで与えてくれた。

 全日本の設立に参加した樋口は馬場と一緒に旗揚げへと奔走、ブルーノ・サンマルチノやテリー・ファンク、フレッド・ブラッシーなど大物選手が旗揚げに参戦することになり、樋口はメインレフェリーとして全日本の試合を裁いていったが、その樋口にレフェリーとして最高の名誉が与えられることになった。
 1974年6月に馬場はアメリカ遠征をおこない、遠征の際には樋口も帯同したが、馬場はPWFヘビー級王座をかけてディック・マードック相手に防衛戦を行うために14日にミズーリ州セントルイス入りすることになった。ミズーリ州セントルイスはNWA会長だったサム・マソニックが取り仕切っていたエリアで、メイン会場とされたキール・オーディトリアムはNWAの総本山とされていた。
 会場入りした樋口はNWAの大物プロモーター達に挨拶すると、彼らから「ジョー、レフェリーの仕度は持ってきているだろうな」と聴かれた。樋口は遠征先でプロモーターからレフェリーを依頼されることもあり、レフェリーの仕度は持ってきていたが、当日は客席で試合を観戦する予定でレフェリーの仕度はホテルに置いてきていた。そこでプロモーターらから「メインのNWA世界ヘビー級選手権を裁いてほしい」と突然依頼される。実はマソニック会長は樋口のレフェリングを高く評価しており、樋口が馬場と一緒にセントルイスに来ることがわかると、「ジョーのレフェリングを、アメリカの関係者やファンに一度見せておきたい、NWAの総本山で世界選手権のレフェリーをやってもらおう。」と考えたのだ。
 キールで行われるNWA世界ヘビー選手権のレフェリーは世界から名レフェリーと認められたのと同じで名誉とされていたが、突然のオファーにさすがの樋口も「これは冗談だろう」と聞き返す。しかし、プロモーターらは「マソニック会長の指名なんだ、既にライセンスもこの通り発行してある」と州ごとに発行されるライセンスを見せられると、まさかの事態に樋口は大慌てでホテルに戻り、レフェリーの仕度を持って会場に戻った。樋口が裁く試合は馬場vsマードックの後で行われたNWA世界ヘビー級選手権で王者ジャック・ブリスコvs挑戦者ドリー・ファンク・ジュニアと当時のドル箱カードと言われた試合で、互いに正統レスリングで真っ向から渡り合い、レフェリーとしても一瞬も気の抜けない試合だった。試合は3本勝負で1-1の時間切れ引き分けとなったが、「ここでぶっ倒れても、レフェリー冥利につきる」と充実した気持ちのいいレフェリングが出来ることが出来た。試合後も激戦を繰り広げたブリスコやドリーだけでなく、樋口にも拍手が送られ、「ずっとセントルイスにいてくれ!」「また帰ってきてくれ!」と声援が送られ、マソニック会長からも樋口に「またキールで裁いてくれ」と絶賛された。

 その後も樋口は全日本でレフェリーとして裁きつつ、和田京平など後継のレフェリーの人材育成に取り組み、レフェリー哲学を叩きこんだ。1980年8月に行われた「プロレス夢のオールスター戦」のメインで行われた馬場、猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン戦も裁いた。

 1990年代に入り、ジャンボ鶴田や天龍源一郎、三沢光晴ら四天王が全日本のメインを任されるようになると、和田京平がメインを裁くことが多くなり、樋口は一歩下がってセミ以下を任されるようになったが、いつしかリングアナが「レフェリー・ジョー樋口!」とコールすると、館内は一斉に「ジョー!」と声援が送られるようになって、全日本で定番となっていったが、1997年に馬場もタイトル戦線から引いたこともあり、後進に道を譲ろうと考えて引退を決意、馬場は旗揚げから全日本に参加してくれた樋口の功労に報いるために、シリーズ最終戦で盛大なセレモニーをやろうと提案してくれたが、樋口は個人的なことでもあり、レスラーよりレフェリーが目立ってはいけないと考えて固辞する。しかし馬場の配慮で3月1日の日本武道館大会当日に発表され、メインを裁ききった。引退後の樋口はこのままマット界から身を引くことを考えていたが、馬場から「全日本での生き残りはオレとジョーさん、事務所の大峡さんだけになんだから、外国人係として残ってくれよ、ジョーさんがいないと、ほかの外国人にも示しがつかないし」と言われた。気づけば全日本の旗揚げメンバーも引退や亡くなるなどして数少なくなっており、馬場自身も樋口がいなくなれば寂しくなると思ったのかもしれない。こうして樋口も外国人係として全日本に留まり、4月19日の武道館で馬場から「やらなければファンから怒られる」として引退セレモニーが行われ、樋口はこうして表舞台から去ったと思われていた。

 2000年に三沢が退団してNOAHを旗揚げすると、仲田龍の依頼でNOAHの監査役に就任する。樋口は1999年に馬場が死去すると5月1日の東京ドーム大会で特別レフェリーとして来場した後でひっそりと退社して、余生を過ごしていた。馬場の側近だった仲田氏の依頼を受けた樋口はNOAH旗揚げに参加することを決め、GHCの管理委員長に就任、GHCのタイトルマッチが行われると管理委員として認定宣言が読まれた際には、館内から再び「ジョー!」と声援が送られ、また選手権の際に選手が凶器としてベルトを持ち出そうとした際に体を張って取り上げ「ベルトを凶器として使うなら、管理委員の権限として即反則負けにするぞ!」と一喝するなどレフェリー時代と変わらぬ厳格さを見せた。

 2010年9月に樋口は病気で入院するようになったが、時折会場を訪れ、”プロレスこそ自分の最大の良薬”として体力が続く限り、NOAHの試合を観戦し続けていた。しかし11月8日に肺腺癌で死去、81歳の生涯に幕を閉じた。そして樋口が残したレフェリー哲学は全日本プロレスの和田京平、新日本プロレスのレッドシューズ海野、NOAHの西永秀一や福田明彦にしっかり受け継がれている。

(参考資料 経済界 ジョー樋口「心に残る名勝負」)

 

 

 

 

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