ジャイアント馬場vsラジャ・ライオン 生涯唯一の異種格闘技戦


1987年3月、パキスタンの空手家であるラジャ・ライオン(リアズ・アーメド)から「私はあなた(馬場)のレスリングファイトをパキスタンのテレビで数多く見ている。そしてあなたは大変背が高く、強いと聞いている。だからこそあなたに挑戦したい」と挑戦状が全日本プロレス、ジャイアント馬場宛に送付されてきた。

挑戦状が送付されてきたころの全日本プロレスは、これまでジャパンプロレスから参戦していた長州力が新日本プロレスへUターンを果たしたことで、長州を抜けた大きな穴をどう埋めるか模索しており、元・横綱の輪島大士も全日本マットでデビューして話題を呼んでいたが、話題を呼んだのも最初だけで3月12日にNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーに挑戦して初黒星を喫してからはスランプに陥り、エースであるジャンボ鶴田も淡々と試合をこなしているだけで危機感を持っておらず、天龍源一郎は危機感は持っていたが、行動を起こすまでには至っていなかった。

 全日本側はラジャの挑戦表明に「本当に馬場と試合をしたいのなら、日本に来るように、対戦するのは、それからの話だ」と返答を出すと、ラジャは早速行動を起こして来日して全日本側と接触、会見を開いてvs馬場を大きくアピールすると、馬場も受けて立つ構えを見せる。

これまでの馬場はこういった格闘家からの挑戦状が送られても、自ら出ずポリスマンとして渕正信やシュートに長ける外国人レスラーを差し向け、道場で対戦させることで撃退してきたが、長州ロスに陥っていた全日本に明るい話題が欲しかったのと、プロ野球シーズンで不定期になっていたが土曜夜7時のゴールデンタイムで放送していた「全日本プロレス中継」の視聴率を上げるための起爆剤が欲しかっただけでなく、ラジャの226㎝というアンドレ・ザ・ジャイアントより高い身長にも魅力を感じ、レスラーとして育成すれば大成すると考えていたからだった。

早速ラジャは馬場、鶴田、天龍が見守る中で道場で公開練習を行い、キックミットを持つ渕相手に蹴りを披露したが、レスリング出身の川田利明相手にスパーリングを行った際に、ラジャの長いリーチからの膝蹴りが川田の顔面に命中すると、怒った川田はタックルから腕を極めてしまう。天龍が慌てて止めに入って事なきを得たが、ラジャは空手のキャリアがあっても寝技のキャリアはなく、また対処できないことを露呈してしまい、ブッカーだったザ・グレート・カブキでさえも「馬場さんは、なぜこんなやつと戦わなければいけないんだ」と首をかしげざる得なかった。

5月1日の後楽園ホールでのエキシビションマッチも経て、全日本は5月23日に6月5日の武道館大会で馬場vsラジャによる異種格闘技戦が正式決定したが、この時点で武道館大会は天龍が正規軍を離脱して阿修羅・原と行動を起こした影響で大きくカード変更を余儀なくされ、鶴田が輪島と組んでザ・ロードウォリアーズの保持するインターナショナルタッグ選手権しか決定していなかった。

馬場が異種格闘技戦に挑戦したのも初めて、馬場自身はボクシング元世界ライト級王者であるアーチ・ムーアと対戦したとしているが、実際はプロレスの試合でゲストレフェリーに招かれていたムーアと馬場がひと悶着があった程度だった。

だが、馬場はラジャとの異種格闘技戦には確固たる自信を持っていた。馬場はセメント(シュート)的なことが出来ないとされているが、カール・ゴッチと同格のシューターであるビル・ミラーや師匠であるフレッド・アトキンスからセメントのテクニックを充分に学んでおり、見せるプロレスを重視する馬場は対戦相手がセメント的な仕掛けてきた場合対処する護身用として留め、観客に気づかれず、相手をコントロールする裏技も心得ていた。

馬場vsラジャの異種格闘技戦はセミファイナルに組まれ、ルールは3分10ラウンド、勝敗はKOかギブアップのみ、フルラウンド決着がつかなければ時間無制限1本勝負での延長戦と完全決着ルールとなった。

 1Rからラジャは蹴りを繰り出してくるが、軸足がスリップ、またトラースキックを放った際も軸足が折れるように崩れてまた転倒して館内から失笑が漏れ、放ったキックも全て馬場には効かない。
ラジャはキック、チョップを放つが馬場は余裕でガードしたところで、今シリーズ参戦していたタイガー・ジェット・シンとジェイソン・ザ・テリブルが本部席に現れる。ラジャはキックを放っていくがチョップをキャッチした馬場は腕を固めるも、ラジャはロープ逃れる。ラジャは馬場の顎や側頭部にハイキックを浴びせるが、馬場は動じずガードに終始、ミドルキックをキャッチして倒す、またミドルキックをキャッチした際には顔面への張り手を浴びせ、グラウンドを仕掛け たところで1Rが終了する。

第2Rからラジャはハイキックやローキック、逆水平、ミドルキックと繰り出していくが、全て受けきった馬場はラジャのバックを奪い、得意のボディーシザースで捕える。馬場は足腰が強く鶴田さえでも馬場のボディーシザースはどうしても脱出することは出来なかったと言われており、またボディシザースから裏十字固めを仕掛ける。馬場の腕十字は下半身の強さと足の長いリーチをうまく利用していることから隠れた必殺技とされており、グラウンドに対応できないラジャはギブアップとなり、初めての異種格闘技戦は馬場の完勝に終わったが試合後にはシンがテリブルと一緒に乱入して馬場だけでなくラジャにも襲い掛かった。

週刊プロレスのインタビューで馬場は「よく、スタイルどうのこうの言うけどね、本来プロレスラーはタイツとシューズさえあれば、どこ行こうがやれるもんなんだよ。プロレスは関節技だけじゃない、蹴りが出来ればいいというものではない、投げ技もあるだろうし、飛び技だってある・どんな技を仕掛けられても受け身の技術も必要だろうし、どんな技を仕掛けられても大丈夫な体も作らなきゃいかん、そして最低限守らなければいけないルールもある。それらを全てひっくるめてプロレスなんだ。それはスタイル云々ではなく、”プロレスとはこうだ”という共通のものなんだ」と語っていたとおり、この時のマット界は前田日明によるUWFがムーブメントを起こしており、格闘技ブームの先駆けともなっていったが、馬場は「シュートを超えたものがプロレスなんだ」と掲げていたことから、ラジャ戦を通じて実践したかったのではないだろうか、アントニオ猪木がプロレスこそ格闘技なんだと掲げたのに対し、馬場はプロレスはあくまでプロレスであり、異種格闘技戦もプロレスである、猪木との考えの違いも現れていたのかもしれない。

ラジャは全日本プロレスに入門を果たしたが、馬場もゆくゆくはデビューさせて、異種格闘技戦後に小競り合いとなったシンと対戦させようと考えていたのかもしれない。ところが当時全日本の所属だったビック・ジョン・テンタとトラブルになり、テンタがスパーリングと称してラジャをリングに上げると、シュートに長けるテンタがラジャを徹底的に痛めつける。このことが馬場にバレてテンタは大目玉を食らったが、この事件がきっかけになったのかラジャはプロレスデビューをあきらめてしまい、俳優に転身して倉田保明主演のアクション映画に出演したが、大成せずパキスタンへと戻っていった。

馬場はラジャみたいな身長の高い選手を好みとしていたが、1997年から高山善廣が全日本に参戦した際には、馬場は高山にアドバイスを送るなどして可愛がっていたという。身長も高く、足のリーチも長い、グラウンドにも長けるし身体も柔らかい高山は馬場にとって一番理想的なレスラーだったかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.26「格闘技の波」辰巳出版「ザ・グレート・カブキ自伝 東洋の神秘」)

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