新日本プロレスとUFO、様々な思惑が絡む中で1999年1月4日の東京ドーム大会が開催され、橋本真也と小川直也が再び対戦することになった。これまではデビューしたばかりの小川を橋本が迎え撃つ立場となっていたが、橋本は1997年8月31日の横浜アリーナ大会で佐々木健介に敗れてIWGPヘビー級王座から転落してからは、IWGPヘビー級戦線から大きく後退してしまい、また引退しても現場監督として留まる長州力と対立したことで、新日本でも扱いづらい存在になっており、対戦カードへの不満から謹慎を言い渡されてしまい、橋本は新日本や長州への不信感から来るストレスでますます練習をしなくなっていた。小川との3度目の対戦は橋本が心身共に最悪の状況の中で行われ、小川に一方的に仕掛けられた橋本は対処できず、結果は無効試合となったものの、橋本は無残に潰されてしまった。



試合が終わってから新日本とUFO側との駆け引きが始まり、全試合終了後に長州が会見を開くと「オレは今日という今日はアントニオ猪木にブチ切れた。今日のUFOとの一件は、全てオレが対処する」と猪木に対してへの果たし状を突きつける。長州も1・4事変は新日本とUFO双方ともセコンドが駆けつけて乱闘状態となったことで、小川とUFOという美味しい素材が手に入ったと考えていた。
ところが社長である坂口征二が「UFOとは絶縁します、UFOの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もUFOの選手が上がることはない」と一転してUFOとの対抗戦を否定してしまう。1・4事変を受けて橋本が選手会長を務める選手会から「UFOや猪木と縁を切ってほしい」と現場監督の長州を通さずに社長である坂口に抗議していた。選手会は橋本が選手会長を務めることで事実上牛耳っており、橋本自身が新日本に対して意向を通し、権力を振るえる場ともなっていた。坂口も選手会の意向を無視するわけにはいかず、新日本はUFOを絶縁せざる得なくなっていた。
2月24日に猪木と坂口が会談して、猪木が1・4事変のことで坂口に謝罪する。猪木が坂口に頭を下げたのは、これまでUFOの興行は新日本がバックアップしてきたものの、新日本が撤退したことで独自で運営せざる得なくなっていたが、3月14日UFO横浜アリーナ大会のチケットが売り上げが伸び悩んでおり苦戦を強いられていたことから、猪木も「やっぱり新日本のバックアップが必要」と感じて頭を下げに来たのだ。猪木から頭を下げたことで坂口の態度も軟化したものの、選手会の決定事項は簡単に覆すことは容易でないことから、猪木に協力することは出来ず、時間を要することが必要と考え、最終的に新日本のUFOの関係は絶縁から冷却期間へと変わったことで落ち着いた。
新日本の協力を得られなかったUFOは独自で3月14日の横浜アリーナ大会を開催、NWAと提携したことで格闘路線からアメリカンプロレス路線へ転換し、小川もダン・スバーンを破ってNWA世界ヘビー級王座を奪取したが、観客動員は6割の入りで惨敗に終わってしまう。大会終了後のパーティーでは佐山が猪木から小川をPRIDEに出場させるつもりだと明かされると、小川にMMAの練習をさせていないことから、佐山が猛反発して猪木と口論となって、佐山はUFOから撤退してしまう。佐山は元々格闘技は神聖なものと考えており、興行として行うことに抵抗を感じていた。

橋本は新日本との契約更改は終えたものの復帰のめどが立っておらず、ジャイアント馬場死去後の全日本プロレス5月2日の東京ドーム大会で川田利明相手に復帰戦を計画されたが、オーナーだった馬場元子から丁重に断られていた。それでも永島勝司取締役は橋本の復帰戦の場を設けるために奔走し、新日本プロレス6月8日武道館大会で天龍源一郎相手に復帰戦が決定、橋本もウエートを絞るなどベストコンディションで臨もうとしていたが、橋本は練習中に右肩を脱臼してしまい、痛み止めを打って復帰戦に臨もうとした試合前に長州によって副現場責任者に就任していた越中詩郎から選手会の経費問題のことで追及されてしまう。橋本は復帰戦の前に選手会長を辞任し平田淳嗣が新会長になったが、引き継ぎの際に経費の杜撰さが明らかになっていた。試合前に越中に問題を追及された橋本はメンタル面を低下させてしまい、試合でも天龍のノド笛チョップの前にあっけなく敗れてしまった。
新日本の状況も変わり、猪木の意向で坂口が社長から会長へと棚上げされ、社長には自身の意向が通りやすい藤波辰爾を就任させた。猪木は最初こそはvsUFOを肯定していた長州に社長就任を打診していたが、長州はジャパンプロレス時代に社長に就任したものの、代表権もないお飾り的な社長を経験していたのもあって、自分が就任しても猪木がオーナーで自身はあくまでお飾り的な立場には変わらないと考えた上で断っていた。

新社長となった藤波は橋本と連絡を取った。藤波が橋本と直接会おうとしたのは、橋本が長州のことを嫌っていたことを充分にわかっており、藤波の尊敬する徳川家康にちなんで、押しでダメなら引いてみろ、長州の強気な態度では、橋本はますます打ち解けようとしない、柔軟な対応で橋本を口説き落とそうと考えていたのかもしれない。橋本は新日本への不信感、長州への不満が募って人間不信の陥りなかなか電話を取ろうとしなかった。それでも藤波が何度も橋本に連絡したことで、やっと橋本がファミレスで藤波と会ったが、誰にも会いたくないということで、ファミレスで待ち合わせしたのは午前1時だった。藤波はUWFがUターンした際に、誰もが対戦を嫌がった前田日明戦を一身に引き受け、何が何でもやり通した経験談を話して、小川との再戦を促す。話を終えた頃には夜明けの6時となって、返事は保留となったが、2度目に会談でやっと橋本が前向きとなって、小川との再戦を決意する。これでフロントも選手会もvsUFOも猪木や長州の思惑通りになったが、藤波が橋本を手なずけてしまったことで、橋本vs小川の主導権は長州ではなく、猪木と藤波に握られてしまった。
10月11日東京ドーム大会で橋本vs小川の第4戦が小川の保持するNWA世界ヘビー級王座をかけて実現となったが、ローキックの連打を浴びせた小川が橋本にSTOを何度も決め、ダウンする橋本を蹴りつける。それでも立ち上がった橋本は小川の脛にローキックを浴びせ怯ませたかに見えたが、小川が再びSTOを炸裂させるとバックドロップで投げ、再びSTO、払い腰、STOで橋本を追い詰める。
橋本は一旦場外へエスケープすると再びリングに上がるが、小川はミドルキック、払い腰、STOを連発する。橋本はダウンしてなお抵抗して起き上がるが、小川はナックルを浴びせて橋本はダウン、それでも立ち上がる橋本を小川が殴りつけてダウンさせるも、橋本は必死で立ち上がる。
小川は橋本の頭部を何度もキックを浴びせて橋本はダウンするも、ここで立会人の猪木が乱入して小川を殴りつけて試合をストップさせ、試合が小川が勝利となり、完敗を喫した橋本は完全の追い詰められた状況となっていった。
(参考資料 宝島社「証言1・4 橋本vs小川」金沢克彦「子殺し」ベースボールマガジン社Vol.16「引退の余波」)
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