カブキ・ウォリアーズの先駆けとなった日本人女子初のメジャーリーガータッグ、JBエンジェルス


現在WWE RAWでアスカ、カイリ・セインの二人がカブキ・ウォリアーズを結成し、WWE女子タッグ王者としてレッスルマニアに出場することが決定したが、カブキ・ウォリアーズの先駆けとなったチームがかつてWWF(WWE)で活躍していた日本人による女子チームが存在した。

1981年、全日本女子プロレスに立野記代、山崎五紀が入門を果たした。当時の全日本女子は大ブームを呼んでいたビューティーペア(ジャッキー佐藤とマキ上田)が引退したことで低迷期に差し掛かっていた。立野は7月に入門して僅か2か月でデビュー、遅れること2か月後に山崎もデビューを果たしたが、立野がデビュー出来た理由は「巡業先が立野の地元だった」山崎に至っては「デビューさせるのを忘れていたから」と実にアバウトなものだった。

 デビューした二人は立野がジャガー横田率いる正規軍、山崎がデビル雅美率いるヒールユニット、デビル軍団と分かれたことで接点はなく、別行動だったが、出世争いの先頭に立っていたのは立野で新人王トーナメントでは決勝で長与千種に敗れて準優勝となるが、翌年には長与からリベンジを果たし若手の登竜門的王座である全日本ジュニア王座を奪取、また可憐なルックスから「女子プロレス界の松田聖子」と称されて、当時少数だった男子ファンから人気を博していく。
 一方、遅れを取っていた山崎は空位となっていた全日本王座を立野を破り王座を奪取して1年間保持するも、山崎が1年間王座を保持している間に全日本女子プロレスの状況は一変、長与とライオネス飛鳥がクラッシュギャルズを結成すると、デビル雅美はベビーターンしてデビル軍団は自然消滅し、代わってダンプ松本率いる極悪同盟がヒールとして台頭した。山崎はデビル雅美を師事していたこともあってベビーターンし、1985年に「タッグ・リーグ・ザ・ベスト」に会社の意向で立野とタッグを結成。これがJBエンジェルズの誕生でもあったが、この時はまだ「フレッシュコンビ」と名付けられていた。

 二人の立野が極度の人見知りのため会話は挨拶だけで、プライベートでも山崎と一緒になってもプロレスの話はしないなど、普段の会話はなかった。ところがいざ試合となると二人の呼吸はピッタリ合い、互いに何をやりたいか、どう動くのか瞬時に察知することが出来た。またスピーディーな連係と華麗な空中殺法、まさしく阿吽の呼吸でチームとして成り立っていった。

 二人はリーグ戦ではデビル&ジャンボ堀、ジャガー&大森ゆかりの先輩チームを破るだけでなく、クラッシュギャルズまで破るという快進撃を見せ、リーグ戦では3位に終わったものの、クラッシュギャルズの保持するWWWAタッグ王座への挑戦権を手に入れた。ところが二人の幸運は続き、タイトル戦は長与が右膝を負傷して欠場して王座は返上、極悪同盟のブル中野とコンドル斎藤の間で王座決定戦に返上され、二人は王座を奪取。4日後の愛知大会でダンプ&ブルの挑戦を退けて王座を防衛する。

 全日本女子プロレスも立野&山崎をクラッシュギャルズに次ぐチームとして売り出すことになり、チーム名も「JBエンジェルズ」と名付けられ、レコードデビューまで果たしたが、全日本女子プロレスのメインはクラッシュギャルズvs極悪同盟であり、JBエンジェルズはあくまで2番手のポジションに据え置かれた。

 そのJBエンジェルスにビックチャンスが舞い込んでくる。1987年にWWF(WWE)から出場オファーが来たのだ。当時のWWFはハルク・ホーガンを筆頭にしたことで全米を席巻していたが、WWF側がスポーツ専門チャンネルESPNで全日本女子プロレスの試合を視聴したのがきっかけだった。早速WWFは全日本女子プロレスと交渉、まず先陣としてクラッシュギャルズと極悪同盟が短期ながらWWFへ遠征してMSGでの試合を実現させていたが、WWFは長期での参戦をリクエストすると、白羽の矢が立ったのはJBエンジェルスだった、全日本女子プロレスもクラッシュギャルズと極悪同盟がまだまだ人気を博していたこともあって、JBエンジェルスが長期に渡って日本を離れても構わなかったのかもしれない。

 このオファーに立野は「一度違った環境の中で身を置きたい、先輩や後輩の目を気にする必要のない場所へ行けば、もう少し頑張れるかな」と乗り気だったが、一方の山崎は胃腸が弱いせいもあり「性格の正反対の二人が長い間二人だけで過ごせることが出来るのか」と乗り気でななかったが、立野と全日本女子プロレス側に押し切られてアメリカに渡ることを決意した。二人は6月にアメリカに渡ったが、今まであまり会話がなかったこともあって、2人でじっくり話し合い、言いたいことを言い合って、互いに反省し合った、特に立野は自分本位の言動で周囲に振り回していたことを山崎に指摘されると大いに反省したという。こうやって二人は打ち解け合ってWWFのツアーに参加し、WWF女子タッグ王者で全日本女子プロレスにも何度も参戦したレイ・ラニ・カイ&ジュディ・マーチンのグラマガールズをノンタイトルで破ると、早速WWF女子タッグ王座挑戦が実現し、この時は王座奪取に失敗するも、当時のアメリカは日本人はヒールとして扱われていたこともあって、最初は観客から武ブーイングで出迎えられたが、WWF側は二人に日本と同じような試合を求められたこともあって、二人の試合ぶりは一転して声援へと変わり、ベビーフェースのチームとして認知されるようになり、JBエンジェルスvsグラマーガールズはWWFの看板カードとなって、日によってホーガンの搭乗前のセミを任せれるようになった。心配していたホームシックの問題もダイヤマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスのブリティッシュブルドックスなど来日経験者が親切にケアしてくれたこともあって解消され、それどころかアイスキャンディーのテレビCMにも起用されるなど、JBエンジェルスはたちまち全米で知名度を上げた。

 心身ともにパワーアップしたJBエンジェルスはWWFとの契約が終わったということで8月にいったん帰国、秋に2度目のWWF遠征に出たが、今回は6か月にわたっての長期の契約で全米各地を転戦、11月24日にはMSGにも初登場を果たし、「サバイバーシリーズ」では女子初の5vs5によるイリミネーションマッチにも参加、翌年にはグラマーエンジェルズを破りWWF女子タッグ王座も奪取して名実ともにWWF女子の頂点に立った。この時点でWWFも二人をレッスルマニアに抜擢することも視野に入れていたという。

 しかし、全日本女子プロレスは12月にWWFとの残りの契約をキャンセルさせて、JBエンジェルスを突如帰国させてしまった。この時の全日本女子プロレスは25歳定年制を設けており、デビル雅美は表向きは引退したものの、現役続行を望んだためフリーとなり、ダンプと大森も引退して主力が手薄となっていたのだ。WWF側の配慮もあってWWF女子タッグ王座は持ち帰ることになったが、その際にWWF側から全日本女子プロレスを辞めてWWFと契約することを勧められていた。

 JBエンジェルスは世界のJBエンジェルスとなって凱旋し、広報を務めていた小川宏氏も二人を本格的に売り出そうとして興行パンフレットの表紙にしようとしたが、松永高司会長は刷り上がった表紙の見て突如破り捨てる。松永会長はあくまでクラッシュギャルズがメインであり、JBエンジェルスはアメリカで受けても日本では受けるわけがない考えていたのだ。WWF側は全日本女子プロレスに対してJBエンジェルスの派遣を要請するが、全日本女子プロレスは断ってしまうが、「世話になった会社と揉めてまで辞めたくない」と考えており、山崎も長くプロレスを続けるつもりはなかった。、これを受けてWWFはグラマーエンジェルズを全日本女子プロレスに参戦させてJBエンジェルスからWWF女子タッグ王座を奪還させたことで、WWFにおけるJBエンジェルスはこうして終わった。

 1989年5月にJBエンジェルズの二人は25歳定年制に則って引退したが、1年後に山崎はジャパン女子プロレスに参戦していたデビル雅美の要請を受けて復帰してWCWにも参戦したが、1991年12月に正式に引退、92年に日本食レストランの経営者と結婚してWWF参戦時に活躍したニューヨークへ移住して幸福な家庭を築いた。

 引退した立野は全日本女子プロレスのビデオ解説や、全女が経営していたカラオケボックスの店長をするなどして全日本女子プロレスに留まっていたが、1992年にLLPWが旗揚げされると現役復帰を果たし、ダンプ松本自主興行「極悪血祭り」では一時帰国した山崎と共に4試合限定でJBエンジェルズを復活させた。
 しかし2010年にLLPWが団体としての機能を失うと退団、病気を理由に自主興行を開催して正式に引退、引退後はハーレー斉藤と共同経営していたバーの仕事に専念するも、ハーレーが逝去後には一人で切り盛りしており、二人は別々の道を歩むも親交は変わらず続き連絡を取り合っているという。

 その後WWFにはブル中野が参戦してWWF女子王座を奪取、現在ではアスカがSD女子王者になるなど頂点に立ったが、その先駆けになったのはJBエンジェルズだったことには間違いない。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.15タッグチームの行方」)

 

 

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