全女vsFMWから女子プロレス対抗戦が始まった!


 WWWAタッグ選手権(王者)山田敏代 豊田真奈美vs(挑戦者)アジャ・コング 井上京子戦の試合後に王座を防衛した山田&豊田の前にFMWの土屋恵理子&前泊よしかが乱入してリングサイドで挑戦状を渡そうとしたことで館内は騒然となった。

対抗戦が行われるまでの女子プロレスは1968年に旗揚げした全日本女子プロレスが独占しており、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティーペアが爆発的な人気を呼び、ビューティーペアが引退して女子プロレスは下火になるも、今度はライオネス飛鳥と長与千種のクラッシュギャルズがビューティーペア以上の爆発的な人気を呼ぶと、フジテレビで放送されていた全日本女子プロレス中継も30分枠ながらもゴールデンタイムで放送され、1985年8月22日に開催された日本武道館大会では初の特番も組まれるなど、女子を中心に圧倒的な支持率を獲得していた。

 1988年に長与、1989年に飛鳥が引退したことで女子プロレス人気も落ち込みかけたが、1990年に旗揚げしたユニバーサルプロレスが道場がなかったことで全女の道場を借りて練習したことがきっかけになって、全女の興行にユニバーサルプロレスの提供試合が設けられると、今までビューティーペアやクラッシュギャルズのアイドル人気で敬遠していた男子ファンも呼び込むようになり、ブル中野とアジャ・コングのヒール同士の抗争は男性ファンに大きなインパクトを残した。

 1992年にジャパン女子プロレスが解散、JWPとLLPWの二団体に分裂した。ジャパン女子は1986年に旗揚げ、クラッシュ人気にあやかって旗揚げした団体だったが、旗揚げ戦は成功しても経営陣が何度も変わるなど、団体運営は安定しておらず、風間ルミら選手達の経営批判がきっかけになって解散となるも、選手らの思惑の違いがあって選手会も分裂しJWPとLLPWの2団体に分裂した。

 1989年にはFMWも旗揚げ、女子部も創設され、最初こそは生え抜きの選手が主力となっていたものの、全女を退団していた工藤めぐみやコンバット豊田が参戦するようになると、たちまち工藤とコンバットが中心となって女子部の存在も大きくアピールされるようになるも、あくまで大仁田厚を中心にしたことで、FMW女子は団体内でのステータスは低いままだった。

 この現状に焦れたのはFMW女子でヒールユニット「コンバットアーミー」を率いていた土屋恵理子ことシャーク土屋、前泊よしかことクラッシャー前泊だった。ある日全女の選手から「FMWのやっているプロレスじゃない」と聞かされた二人はカチンと来てFMWに殴り込みを決意、事前に大仁田には知らせたものの「あ、そう」と相手にしなかったとされているが、実際はこれは面白いと思った大仁田は全女の会長である松永高司会長と水面下で会って了承を得ており、松永会長は知名度のある大仁田を引っ張りだすことが出来ればという軽いノリで対抗戦にGOサインを出していた。おそらく大仁田も後藤には話してあったはず、それを受けた後藤は「おう、土屋。オレがケツ持ってやるから。ケンカで負けたらオレが仕返してやるから、行ってこい!会社を通してないから、オマエら2人で乗り込んでこい」と後押しを受けたが、会社を通していないと言ったのは、二人が事前予告もなく現れることで、周囲はどんな反応を示すのか、試す意味合いもあったと思う。こうして土屋と前泊は1992年7月15日の全日本女子プロレス大田区体育館大会に乗り込んでいった。

ところが、二人の乱入する話は松永会長と渉外担当だったロッシー小川氏しか伝わっておらず、選手らも突然現れた土屋達を見て「これ、誰⁉」というリアクションだった。フジテレビの中継も入っていたこともあって、中継スタッフは部外者が来たとして収録の邪魔になるとしていったん会場外へ排除されるも、駆けつけてきた長谷川咲恵に挑戦状を持ってきたことを明かすと、長谷川はカメラクルーに話して、二人は再び会場に入って何とかリングサイドに近づけることが出来た。

 これに反応したのは”女帝”ブル中野だった、ブルは保持していたCMLL女子王座をかけて北斗晶と対戦し、ダイビングギロチンドロップで下して防衛したばかりだった。

FMWの二人が来たことを聞きつけたブルはリングサイドに駆け付け、二人の襟首掴んで睨みつけて一触即発となるが、セコンドらが必死で制止して下げようとする。ブルは「オマエら何しに来た!ここは全女のリングだぞ!一歩も上げないからな!出直してこい」とマイクでアピールして引き上げていく。それでも土屋らは挑戦状を手に山田と豊田に詰め寄ろうとしたが、若手らが必死で制止、山田も「オマエらにそれだけの実力があるのか」とアピールしてお尻ペンペンと相手にしないとポーズを取って引き上げてしまうも、土屋と前泊は本部席にいた植田信治コミッショナーに挑戦状を手渡し引き上げていった。

 早速全女とFMWは対抗戦に向けて交渉開始、全女側は小川氏、FMWは現場責任者であるターザン後藤が交渉にあたったが、後藤はFMWと全女を同列に扱うことを要求してきて交渉は難航していた。FMW女子は後藤と当時の夫人であるテスピナが仕切っており、大仁田も全てを任せていたものの、後藤自身は全女という団体がどれだけレベルがわかっていなかった。対抗戦の場は9月19日のFMW横浜スタジアムに決定したことで、名乗りを挙げたのはブルだった。ブルが名乗りを挙げた理由は、最初にFMWに絡んだのはブル自身だったのもあったが、おそらくフロントが何をしたいのか、即時に判断したと思う。また全女でも進出していない横浜スタジアムで試合をすることに興味を抱いたのもあった。
 ブルはパートナーにリングでは宿敵だった北斗を選んだ。北斗はFMWがのりこんできたことはバックステージで知っていたものの興味はなく、「挑戦を受けても山田と豊田だったら軽く一蹴するだろう」ぐらいしか考えていなかった。ブルから話を持ち込まれた北斗は最初は考えていたが、ブルから「横浜スタジアムでの大観衆で試合をするんだよ」と口説かれると、北斗も横浜スタジアムという大会場に興味を持ってブルの要請を受けることになり、二人でFMW迎撃に名乗りを挙げた。

 全女のトップを引っ張りだしたことに後藤やFMW側は満足したが、FMW女子は土屋と前泊を降してFMW代表として対戦することになった工藤とコンバットからしてみれば、全女出身だったこともあってブルと北斗は雲の上の存在で自分らが敵う相手ではないことはわかっていた。しかしFMW内では大仁田さえも後藤に意見できない空気が出来上がりつつあり、二人も後藤に意見することが出来なかった。またFMWと交渉と同時にJWPにも交渉を開始していた。小川氏と代表だった山本雅俊氏は旧知の間柄でFMWと違って話し合いはスムーズに進展、選手らも乗り気となって対抗戦をアピールした。
 
 1992年9月19日の横浜スタジアム大会当日、ブルと北斗は試合前にも関わらず落ち着き払っていた、組み合わせはセミ前だったが「一番。お客さんを沸かせるのはウチらの試合だろうけど」「今日は。お客さんを引っ張りに来たのよ。だって何万人も入るというじゃない」「まあ、変な試合はしませんよ、要は最後、ギロチンかノーザンライトボムを出せばいんだから」と自信に満ちていた。試合は工藤&コンバットは懸命に食らいついたがコンバットが北斗のノーザンライトボム、工藤がブルのダイビングギロチンドロップを食らって完敗、試合後に北斗がマイクで土屋らを「みっともないな、オマエらは、挑戦を言ってきたんだろ!ウチの新人を倒してから来い!」と挑発すれば、最後にブルが「ブル中野と北斗晶の試合、もっと見たければ全女に来い!」とアピール。このブルのアピールが大きな反響を呼び、週刊プロレスの表紙を飾った。

 しかし、ブルのアピールに怒ったのはFMWだった。FMWは「大仁田以外はマイクアピールしてはいけない」というのがルールとなっていただけでなく、FMW女子vs全女の試合はセミ前で、セミは後藤の試合、メインは大仁田厚vsタイガー・ジェット・シンの電流爆破デスマッチだったが、ブルのアピールだけで二人の試合を食ってしまってい。後藤は勝利者賞トロフィーを床に叩きつけるなど荒れまくり、大仁田も怒りまくった。
 しかし全女vsFMWから、女子プロレス全体を巻き込んだ対抗戦の火蓋が切られることになった。

(参考資料 ベースボールマガジン社別冊プロレス③ 北斗晶著「北斗晶自叙伝―血まみれの戴冠」)

全女vsFMWから女子プロレス対抗戦が始まった!” への1件のフィードバック

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。