武道館から始まったアジアタッグベルト


全日本プロレスがアジアタッグベルトが老朽化により新装されることを発表した。(アイキャッチ画像が新装されるベルト)

 アジアタッグ王座は1955年11月に日本プロレスがアジア選手権でヘビー級、タッグ王者を決めるために誕生し、アジアヘビー級王者は力道山が初代王者となったが、タッグ王座は力道山&ハロルド坂田組を破ったキングコング&タイガー・ジョキンダー組が初代王者で、このときはベルトではなくトロフィーが進呈されたが、キングコング&ジョキンダー組が5年間も防衛活動はしなかった。おそらくだがこの時点ではまだ力道山もタッグ王座というものを軽視していたのかもしれない。


 1960年6月に力道山もタッグ王座に本腰を入れたのか、アジアタッグ王座はコング&ジョキンダー組が返上したとして復活、フランク・バロア&ダン・ミラー組が力道山&吉村道明組を破って2代目王者となったが、力道山はパートナーを豊登に代えて王座を奪取、計4度戴冠するなど力道山&豊登組の代名詞となり、日本プロレスの看板タイトルの一つとなったが、この時点でもベルトではなくトロフィーを使用し続けてきた。
 力道山死去後は豊登はジャイアント馬場と組んで王座を保持してきたが、力道山死去に伴ってインターナショナルヘビー級王座やアジアヘビー級王座は力道山1代のものとして封印され、新体制となった日本プロレスの唯一の王座となったが、インター王座がNWAの許可を得たということで復活し、馬場が王者になると、タッグ王座もインターナショナル化になることを迫られたのか、インターナショナルタッグ王座も誕生し、1966年11月に馬場と吉村が王座を奪取、インターナショナルシングル&タッグ両王座を巻いた馬場はインター王座に専念したいとしてアジアタッグ王座を返上、アジアタッグ王座はこの時点で2番手のベルトに降格となった。
 しかしインタータッグ王座はベルトが存在したのに対し、アジアタッグはいまだトロフィーのままではと思ったのか、日本武道館で初のプロレス興行が開催された日である1966年12月3日、馬場vsフリッツ・フォン・エリックのセミファイナルに空位となっていたアジアタッグ王座決定戦が行われ、大木金太郎&吉村組がターザン・ゾロ&エディ・モレア組を破って新王者となり、初披露されたアジアタッグベルトを巻くことになったが、アジアタッグのベルトは武道館から始まったといっても過言ではない。

 日本プロレス時代のアジアタッグ王座は東京プロレスから日本プロレスに復帰したアントニオ猪木が巻く事はあったが、パートナーのほとんどが吉村であったことから実質上吉村のためにあるようなベルトだった。しかし1978年に吉村が引退、日本プロレスが崩壊するとアジアタッグ王座は封印されたが、1976年に新日本プロレスが独自でアジアヘビー、アジアタッグ王座を創設しようとした際に、全日本が先手を打って管理していた旧日本プロレスから管理権を獲得、オリジナルのアジアタッグが復活しベルトもそのまま使用され、全日本では中堅クラス・若手クラスのベルトとして扱われ、体制が変わっても現在に至っている。

 そのアジアタッグベルトも53年ぶりに新装されることになった。新装されるベルトに新しい歴史が刻まれる。

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