日米プロレスサミットの裏側、そして名ブッカーだった佐藤昭雄は馬場の下から去った


1990年4月13日 WWF(WWE)、新日本プロレス、全日本プロレスが共催で「日米プロレスサミット」を東京ドームで開催した。

1984年にビンス・マクマホン・シニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりしたWWFはNWAやAWAの各エリアに侵攻を開始、たちまち各エリアを飲み込んでしまい、大幅にエリアを拡大させていった。そしてWWFは新日本プロレスを提携していたのもあって、いずれは日本に侵攻してくるのではと囁かれ、その事態をNWAの第1副会長だったジャイアント馬場は一番懸念していた。しかし新日本は莫大なブッキング料金を求めてくるWWFとの提携を解消、日本侵攻の大事なパートナーを失ったことで、日本侵攻は避けられたものの、WWFは日本侵攻を諦めたわけでなかった。

 WWFは1989年に単独で東京ドームを押さえていたが、「単独で行ったら、妨害されないか?」という懸念があり、キャンセルせざる得なかった。WWFが一番怖れていたことは、いざとなったら馬場とアントニオ猪木が手を組むことで、これまでも敵対関係だった馬場と猪木は利害が一致すれば手を組んできたことがあったことから、二人が手を組んで興行戦争を仕掛ける可能性も否定できなかったからだった。

 単独での日本進出は無理と判断したWWFはプランを練り直すことになり、佐藤昭雄を極東エリアのエージェントとしてWWFに招くことになった。佐藤はかつては全日本プロレスでブッカーを務め、ジャンボ鶴田と天龍源一郎路線を確立させた立役者だったが、長州力らジャパンプロレス勢が参戦するとブッカーを降板し、全日本に籍を残しつつテネシーでブッカーを務めていた。
 ビンスから直接電話をもらった佐藤は直ちにビンスに会った。ビンスは佐藤を選手兼任で極東のエージェントに招くことを打診、1990年4月13日に東京ドームで興行を開催することを明かし、「新日本だけでなく全日本にも協力を要請する文書を送ったものの、反応がなくて進めようがない」を相談を持ちかけたられた。WWFは新日本と全日本に協力要請を求める親書を送ったものの返事はなく、後でわかったことだが親書は手違いで全日本プロレスではなく全日本女子プロレスに送られていたという。

 日本進出の担当者は選手として全日本プロレスにも来日したことのある副社長のJ・J・ディロンとダニー・クローバー氏だったが、クローバー氏はレスラーではなかったこともあってリングのことはわかなかった。そこで佐藤が自身とも親交が深いディロンと組むことでビンスからの申し入れを受け、馬場の許可を得てWWF入りを果たし東京ドーム大会の準備を始めたが、馬場が佐藤のWWF入りを認めたのは、WWF側の事情を知るためだった。

 ビンスは猪木の新日本プロレスと再び組むことを提案したが、佐藤は「自分はジャイアント馬場の下にいた自分としては、馬場さんに先に話をしなければいけないから」と馬場を先に話へもって行くことを薦め、ビンスも了承したが、ビンスの狙いは最初から新日本ではなく全日本だった。
 ビンスが全日本との接触を選んだ理由は、馬場がNWAを牛耳っていたWCWとは既に関係を解消しており、そのWCWが新日本と接触しようとしていたことから、NWAとは関係がなくなった馬場と組むのが最善と考えていたが、ビンスにとって馬場はWWF発足時からMSGのリングに上がっていた大スターで、馬場も子供の頃からビンスを知っていた。ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスらが新日本から全日本に移籍した際に、ビンス自身が極秘裏に来日して馬場と会談するも、馬場は業界の先輩として毅然とした態度を取って、常に上から目線の立場で接していたことから、目の上のタンコブの一つで最も苦手な人物だった。ビンスが佐藤を雇ったのは理由は、馬場を良く知る人物で、交渉役に適しており、また全日本プロレスを放送していた日本テレビ放送網は民放テレビでも老舗で最も信頼があり、馬場のバックアップを得られたら日本テレビが話に飛びつき、生放送の実現もあると考えていたのもあった。 またこの頃のWWFはまだテレビでの生放送を実現していなかったのもあって、 実はビンス自身も東京12チャンネル(テレビ東京)で放送されていた国際プロレス中継を見本にして勉強していたという。

 佐藤は1990年1月に帰国し、WWFの特使として馬場と会談、WWFの日本進出に協力を求めた。馬場は「考えておくよ」しか返事はくれなかったが、佐藤は長年馬場の付き人だったこともあって、その返事はノーかアイデアがないときだとわかっていた。佐藤は時間を置く必要があると考え、2週間後に回答を求めた際には「返事を貰わないと、自分は新日本とテレビ朝日にこの話をもっていかなければいけない」と迫ると、馬場は渋々ながらOKの答えを出して、話を煮詰めていったが、その際に馬場は新日本にも話をすると提案する。新日本プロレスは猪木が政界進出したため社長は馬場と気心が知れている坂口征二に代わっており、常に話し合える状態だった。佐藤は新日本も協力得られるならと承諾するが、新日本との話し合いは馬場自身が行った。馬場が佐藤に対してこういった態度を取ったのは、合同興行の主導権は絶対にWWFには握らせないためで、現在新日本とは上手くやっていることをWWF側に見せつけプレッシャーをかけようとしていたのだ。

 1月27日にビンス・マクマホンが来日、馬場と会談した後で、28日「新春ジャイアントシリーズ」後楽園大会のリングに上がり、4月13日東京ドームでの3団体の合同イベントの開催を発表する。WWFのボスであるビンスが自ら来日するのは異例でもあるが、当初はハワイで開催に向けて会見をする予定だったが、馬場が「日本テレビが特番で放送することを決めたから来て欲しい、日本で会見をしないとファンが信用しないから」と馬場が呼びつけたものだった。今思えば「ビンスから話を持ってきたんだから、そちらから来るのが筋だろう」と考えていたのかのかもしれない、その代わり馬場も「新春ジャイアントシリーズ」を終えると渡米し、ビンスを始めとするWWF首脳部と会談、13日のアリゾナ・ベテランズ・メモリアル・コロシアム大会に登場してファンに挨拶、アンドレ・ザ・ジャイアントと共にTVインタビュー撮りを行うなど、日米プロレスサミットをPRした。

 馬場と新日本プロレスの現場監督だった長州、そして佐藤の間でマッチメークに関して話し合いがもたれることになったが、馬場は「オレが新日本との話し合いでまとめるから」としながらも、新日本のマッチメークは全て長州に任されていることを知ったのか、馬場は話し合いに加わらずハワイへ行ってしまい、新日本のカードに関しては佐藤と長州の間で話し合われることになった。馬場もジャパンプロレスの分裂のいきさつもあって長州とは対等な関係で顔を合わせたくなかったのかもしれない。新日本関連の試合は話し合いの結果、長州が「ウチのスタイルを見せる試合をしたい」として、WWFや全日本も加わらない、提供マッチという形で新日本同士のカードを申し入れ、WWFも了承した。

 そして馬場と佐藤の間で改めて話し合いが行われ、メインに関してはビンスからのリクエストでホーガンvs日本における外国人選手No1の試合が組まれることになり、最初はホーガンvsスタン・ハンセンで意見は一致したものの、しばらくして馬場は「テリー・ゴーディに変更して欲しい」と申し入れる、ハンセンからゴーディに変えた理由は、ハンセンが負けたときのリスクと、ゴーディの将来性のことを考えた上でのことだったが、ゴーディはマイケル・ヘイズとのフリーパーズで1度だけWWFには参戦したことはあったが、WWFは水が合わなかったのか、すぐ離脱してしまい。WWFでの評価はWWFに定着していたことがあったハンセンのほうが上だった。

 ホーガンvsゴーディをメインとしてカードが次々と組まれ、馬場はアンドレと組んでアックス&スマッシュにデモリッションと対戦、WWF側はテレビ解説をして欲しいとしていたが、佐藤が「それは馬場さんが承諾しないだろう」として、馬場とアンドレのタッグとなり、馬場も承諾した。この頃のアンドレは肉体的な衰えもあって、レスラーとしてはピークを過ぎてしまっており、WWFでの出番も少なくなってきていたことから、WWFを離れるつもりだった。

 天龍の相手はWWFのトップの一角となっていたランディ・サベージとなったが、佐藤はサベージの相手は最初こそはジャンボ鶴田を考えていた。しかしサベージがスープレックスを使う選手でないことから、相手は天龍になり、鶴田には元AWA世界ヘビー級王者だったということで、鶴田とはAWA王座めぐって対戦したリック・マーテル、カート・ヘニングとのタッグマッチが組まれ、鶴田のパートナーは五輪コンビということで谷津嘉章が予定されていたが、谷津は欠場中ということで、元全日本プロレスのキング・ハクになり、WWF世界ヘビー級王者となったばかりのアルティメット・ウォリアーは、日本でも馴染みが深いテッド・デビアスとの防衛戦が組まれた。

 ところがホーガンvsコーディは中止となって、ホーガンの相手はWWF側が希望していたハンセンに変更となってしまう。理由はホーガンvsゴーディはインパクトが薄くチケットの売り上げがよくないとされ、またゴーディが乗り気でなかったとされているが、真相は明らかになっていない。ただ馬場も周囲には「ゴーディもバカなヤツだな」とこぼしていたこともあって、ゴーディ自身が乗り気でなかったことは確かだと思う。全日本側はすぐハンセンと交渉し、ハンセンも新日本時代にホーガンとは1度だけ対戦していたこともあってOKし、ホーガンの相手はハンセンとなった。

 日米プロレスサミットは53742人を動員、試合もホーガンがアックスボンバーでハンセンから勝利、馬場&アンドレはデモリッション相手に6分で圧勝したが、一番沸かせたのは天龍vsサベージで、サベージのコテコテのアメリカンスタイルと天龍の武骨なスタイルが噛み合って好試合となり、試合は天龍がパワーボムで勝利も、試合内容や観客の沸きを見て佐藤も一安心した。

 テレビ中継もゴールデンではなかったが午後3:30~5:00の特番枠で放送され、視聴率も14.1%をマーク、まずまずの結果を残したビンスは全日本抜きにして単独でWWFを日本テレビで放送することを考え、日本テレビも乗り気になったが、日本テレビは全日本抜きにして他団体の試合を放送することはNGという契約がなされており、このことを知ったのか馬場は「日本テレビの中継を横取りされるのでは」と考え、WWFとの関係は「日米プロレスサミット」限りとした。

 全日本との関係を打ち切られたWWFはまだ日本進出を諦めていなかったところで、メガネスーパーがSWSを設立、日米プロレスサミットでも活躍した天龍が移籍すると、SWSの旗揚げ戦を視察した佐藤らWWF上層部はSWSとの提携を決定する。佐藤は馬場と会い「今後日本で興行するようになれば、WWFの一員として来なければならない」と馬場に辞意を伝え、全日本を去った。佐藤は全日本のブッカーになる前からアメリカでやっていける自信をつけ、早い段階でやめるつもりでいたことから、義理は果たしたということなのかもしれない。辞意を伝えられた馬場は葉巻を煙を吐くだけで何も答えず、佐藤のことも周囲に話すことはなかった。

SWSと組んだWWFは2回行われたドーム大会にはハルク・ホーガンを始めとするトップスターを来日させ、SWSも莫大なブッキング料を支払っていたこともあって、良好な関係を築いていくかに見えたが、SWSに内紛が起きて分裂、WWFは再び日本におけるビジネスパートナーを失ってしまう。1994年にはWWFが単独でマニアツアーを日本で開催、横浜、大阪、名古屋、北海道の大都市中心に開催され、ジ・アンダーテイカーやブレッド・ハート、ヨコヅナを投入、日本からも天龍が参戦したが、まだWWFのスタイルは日本には受け入れられなかったのか、空席が目立ち興行的には失敗してしまった。

1996年1月、全日本から大森隆男が「ロイヤルランブル」、12月にはWWFからブラックジャックス(ジョン・ブラットショー・レイフィールド&バリー・ウインダム)が「世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦するようになってから、全日本とWWFに間に再び接点が生まれた。WWFもこの頃には佐藤も去っていたが、再び日本におけるビジネスパートナーを必要としたのか、全日本に再び接触しようとしていた。

1998年12月、馬場は年間の試合を終えるとハワイで過ごすことが恒例となっていたが、ビンスからの要請でカナダへ向かい会談が行われることになっていた。ところが、馬場は病気で入院し1999年1月に死去してビンスとの会談も実現することはなかった。おそらくだが全日本も単独で東京ドームを予定していたことから、WWF勢を全日本に参戦させるために本格提携を考えたと見ていいだろうが、WWF勢の全日本参戦は馬場の死去で実現しなかった。

 2000年に入ると日本にもCS放送が普及し始め、WWEと団体名を改めたWWFの試合も放送されることで、プロレスファンにも身近な存在になり、新崎人生やTAJIRI、ヨシタツなどがWWEと契約して進出、WWEも単独でのジャパンツアーを開催し始め、2005年にはさいたまスーパーアリーナで「RAW」「SMACKDOWN!」の収録が行われた。

 現在ではインターネットの普及によって、WWEだけでなくアメリカマット全体が身近な存在となり、中邑真輔やKENTA、カイリ・ゼイン、紫雷イオ、KUSHIDAなど日本人選手が野球のメジャーリーグに挑戦するかのように進出することが当たり前のようになり、新日本プロレスやDDTもアメリカで興行を打つなど逆輸入されていくケースが出てきた。またWWEもNXTの日本支部を設立する話も浮上している。すっかり身近になったアメリカンプロレスを馬場はどう思うのだろうか・・・
(参考資料 双葉社「俺たちのプロレス」Vol.11全日本vs新日本 全面戦争の真実」)

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