平成元年に旗揚げしたインディー団体「パイオニア戦志」


 今日で平成がまもなく終わるが、ドーム興行も平成で生まれたプロレス文化だが、インディベンデント団体、略してインディー団体も平成で生まれたプロレス文化の一つだった。

1989年4月30日、剛竜馬、高杉政彦、アポロ菅原の元国際プロレスの3人を中心とした団体、「パイオニア戦志」が旗揚げされた。3人は国際プロレス出身だったが、先に新日本プロレスへ引き抜かれた剛を除く、高杉と菅原は国際プロレス崩壊後は全日本プロレスに移籍、高杉はマスクマン”ウルトラセブン”に変身してジュニア戦線、菅原は中堅~若手クラスあたりで活躍してきたが、1984年11月に剛がラッシャー木村と共に全日本プロレスに参戦するにあたって、元国際プロレスを中心としたユニット”国際血盟団”に組み入れられた。

 この頃の全日本プロレスは長州力率いるジャパンプロレス勢が参戦したことで日本人選手が飽和状態となり、血盟団もメインで扱われるのは木村、鶴見五郎、そして助っ人として加わった阿修羅・原だけで、剛らは前座扱いされ、対戦カードからも外されることも多くなり始めていた。

 1986年4月からジャパンプロレスがカルガリー・ハリケーンズ(スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二)を引き抜いてしまったことで、ハリケーンズを全日本に上げざる得ない状況となってしまい、これ以上選手を増やすことが出来なかったジャイアント馬場は剛、高杉、菅原の3人を余剰人員として解雇、特に”藤波辰爾に一度勝った”ことをプライドに持っていた剛は、自分の扱いに不満を抱いており、鶴見の斡旋で馬場と話し合いの場を設けたものの、剛と菅原は馬場に対して馬場の考えるプロレス論を全面否定して反抗的な態度を取っていたことが解雇の決め手になっていたという。

3人は解雇されたが、高杉はジム経営に専念、剛は海外へ旅立ち、菅原は故郷へ戻るも、高杉のスポンサーから”小さいながらもプロレス団体を旗揚げしないか”と持ちかけられ、乗り気になった高杉は帰国していた剛や菅原に話を持ちかけた。剛はAWAへ行ったものの、WWFの全米侵攻でアメリカマットはテリトリー制が崩壊しており、AWAも団体としては下火になり、その影響で海外に出ていた日本人選手も活躍の場を次第に失っていた。アメリカマットに見切りをつけた剛は帰国しスポンサーの経営するお好み焼き屋の店長となっていた。

高杉の新団体案に剛や菅原も乗り気になり、88年11月15日にアニマル浜口のジムである浜口ジムで設立会見を開き、団体名は「パイオニア戦志」と名づけられた、名づけ親はプロレス評論家で国際プロレスを懇意にしていた菊池孝氏だったが、高杉と菅原は「新国際プロレス」を団体名にしたかったが、剛は国際プロレスを裏切って新日本へ引き抜かれた引け目もあって団体名に”国際”を入れることを嫌がり、菊池氏に命名を頼んだという。

 「パイオニア戦志」は剛が渉外となって動き、藤波辰爾と会って新日本からリングを借り受け、また新日本名義で4月30日に後楽園ホールを押さえることが出来た。藤波が剛らに協力したのは、当時の藤波はSWSの部屋別制度を意識して、新日本内の部屋であるドラゴンボンバーズを設立しており、長州力が現場監督となっていたことで現場の実権を握られていたことから、自身の手駒としてパイオニア戦志の3人を引き入れたいという意図があったという。

剛は”打倒・藤波”を掲げてパイオニア戦志の中心となった。言いだしっぺである高杉や菅原は剛が団体の主導権を握ることに不安はあったものの、藤波を1度破ったという実績面を考えて剛を全面に押し出すことになり、早速ジムも設けて新人を募集し、その中には後にFMWで活躍することになるハヤブサとミスター雁之助もいたが、剛はなぜか採用せず、それでも金村ゆきひろ、板倉広などを採用し新人をそろえることが出来た。

 旗揚げ戦は新人はデビュー戦には間に合うことが出来ず、練習生の公開練習と一般参加のアームレスリング大会で穴埋めはしたものの、高杉vs菅原、剛vs大仁田の2試合しか組めなかった。このときの大仁田は新間寿氏の「格闘技連合」の一員になっていたが、新間氏がいつまでも「格闘技連合」の旗揚げに動こうとしないため、距離を取って独自で動き出していた。パイオニアへの旗揚げ戦参加も大仁田からの売り込みだったという。大会にはプロレス転向が取り沙汰されいた北尾光司がリングに上がって挨拶し、藤波も来場するなど話題を呼び、満員にはならなかったものの1600人を動員する。

 高杉vs菅原は、高杉が当時人気だったUWFを意識してグランド中心の攻防を見せ、最後は菅原がヨーロピアンクラッチで高杉を下したが、メインの剛vs大仁田は、剛が大仁田に投げられて場外に落ちた際に右肩を脱臼するハプニングが起きてしまう。剛は「セミの試合では高杉が飛ぶかもしれないから、場外マットをリングより少し離れて敷くように」とセコンドに指示をしていたが、メインで元に戻すのを忘れてしまい、マットのないところに剛が落ちてしまったのだ。それでも大仁田が剛をリードして試合を進行し、剛がアキレス腱固めを決めてレフェリーストップで勝ったが、評価されたのは負けたものの試合リードして成立させた大仁田で、内容でも藤波に酷評されてしまった。

興行的には諸経費を引いて黒字にはなったものの、菅原は国際プロレスでレフェリーを務めていた遠藤光雄から北尾光司の面倒を見るように頼まれ旗揚げ戦を最後に離脱する。元々剛と菅原は折り合いが悪く、自分中心で動かしていく剛に不信感を抱いていた。

 剛戦で自信を持った大仁田は10月6日にFMWを旗揚げ、パイオニア戦志も10月26日に元ジャパンプロレスの新倉史裕を加え、新人もデビューさせて第二弾興行を開催、メインは剛が新倉と対戦したが、旗揚げ戦と比べて観客動員が落ちるだけでなく、今度は剛が試合中に膝を脱臼させてしまうなど散々な結果となる。

剛はFMWから青柳政司ら誠心会館勢を引き抜いて対戦したものの、顔面蹴りを食らって鼻骨を折ってしまい、試合は無効試合となるが、館内の客から”金返せ”コールが巻き起こって、立会人だった浜口が剛に喝を入れてどうにか収めたものの、評価を受けることはなく、次第に後発から旗揚げしたFMWに押され始めていった。

そこで新日本プロレスからオファーが舞い込み、パイオニア戦志は青柳と共闘する形でパイオニア軍団として新日本に参戦することになった。新日本との提携も全て剛が藤波との間で決めた話で、高杉にも相談せず独断で決めたものだったが、皮肉にも北尾のコーチ役となっていた菅原も新日本に参戦しており、剛らとも対戦することになった。

パイオニア戦志は最初こそは評価されなかったものの、マシンらブロンドアウトローズを抗争を繰り広げ、剛と高杉もIWGPタッグ王者だった武藤敬司&蝶野正洋とも対戦するなど、パイオニア戦志の頑張りに現場監督の長州が認め、パイオニア戦志の興行には新日本勢を貸し出したりもした。

11月28日に博多スターレーンで腰痛から復帰した藤波と剛が遂にシングルで対戦したが、剛が流血し藤波のエルボーアタックの前に完敗を喫し、新日本はパイオニア戦志とのは提携を年内で終了することを決定する。剛は新日本との提携にあたって大金を貰っており、他の選手からピンハネしてギャンブルに使ってしまっていた。実は高杉は長州から『何かあったら言ってくれ』と新日本に誘われていた。高杉は剛を見捨てるわけにはいかないと断ったが、おそらくだが長州が剛の悪評を聴いたことで、剛だけを切り離して高杉と青柳は新日本に引き取ろうと考えていたのかもしれない。

 12月20日の愛知県半田で剛のピンハネに気づいた青柳が離脱、剛も新日本から大金を手にしたことでやる気をなくし、パイオニア戦志は事実上活動停止となった。結局高杉の描いた団体を剛が食いつぶす形になってしまった。

 剛はその後、新日本から受け取った大金もギャンブルで使い果たしたのか、メガネスーパーの田中八郎氏に接近しSWS入りを狙ったが、普段バラバラだったSWSの選手らも剛の入団だけは一致団結して猛反対したため、剛のSWS入りはならず、それでも田中氏の世話を受けてマンションまで提供されていた。

そこで元ジャパン女子プロレスの代表だった持丸常夫氏から新団体旗揚げを持ちかけられ、再び高杉を巻き込んでオリエンタルプロレスを旗揚げしたが、そこでもピンハネをやらかしてしまい、団体から追放され、その後に剛一人で剛軍団を旗揚げ、『プロレスバカ』をニックネームにしてインディーで再ブレイクを果たす。しかしそのブレイクも長く続かず、団体からのオファーがなくなり、金に困ってヤバイビデオにも出演、挙句の果てには窃盗の疑いで逮捕されるなど、剛は落ちるところまで落ちてしまった。

 釈放後に剛はカンバック、DDTにも参戦したが、過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、練習もままならない状態だったが、それでもリングに上がり続けた。しかし2009年10月に剛は自宅で倒れ、敗血症で死去、享年53歳だった。

 平成の間に様々なインディー団体が生まれていったが、平成元年に旗揚げした「パイオニア戦志」は先駆者だったことには間違いない。

(参考資料 GスピリッツVol.46「1981年8月9日以降の国際プロレス」)

平成元年に旗揚げしたインディー団体「パイオニア戦志」” への2件のフィードバック

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