2月2日、元NWA世界ジュニアヘビー級王者だったレス・ソントンが死去した。享年84歳。
自分の中では初代タイガーマスクに敗れた一人のレスラーであるが、最も権威のある王座とされたはずだったNWA世界ジュニアヘビー級王座を混乱に貶めた一人のレスラーでもあった。

NWA世界ジュニア王座は1943年に王座が創設(初代王者はケン・フェネロン)。1949年にはレロイ・マグガークが王者となるも交通事故で失明したため引退したが、NWAはオクラホマのプロモーターとなったマグガークにNWAは世界ジュニア王座の管理を委託、NWA世界ジュニア王座はマグガークのテリトリーであるオクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソーを中心に選手権が行われた。

マグガークの管理化の時代はダニー・ホッジを始め後のAWAの帝王となるバーン・ガニア、アマリロの大物プロモーターでザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク)の父親であるドリー・ファンク・シニア、WWA王者となるフレッド・ブラッシー、ホッジのライバルであるヒロ・マツダなどが歴代王者に名を連ねるも、マグガーグのテリトリーでしか防衛活動が行われなかったこともあって、1960〜1970年代はさほど注目される王座ではなかった。


1978年に新日本プロレスの藤波辰爾がWWF(WWE)ジュニアヘビー級王座を奪取すると、日本でジュニアヘビーブームが巻き起こり、新日本プロレスも当然ながらNWA世界ジュニア王座にも目をつけるが、当時の新日本はNWAの会員でありながらも世界王者のブッキング権は全日本プロレスに独占され、ジュニア王座も全日本プロレスが最優先とされた。全日本でもNWA世界ジュニアヘビー級選手権が行われ、ケン・マンテルvsジャンボ鶴田、マツダvsマイティ井上、ネルソン・ロイヤルvsアド・マドリルがNWA世界ジュニアヘビー級選手権として行われたが、この当時の全日本はジャイアント馬場の方針もあってジュニアヘビー級にはあまり力を入れず、定着しなかった。
王座はロイヤルからマドリルに渡り、マドリルが病気のため王座は返上になるが、1979年10月に大剛鉄之助のブッキングでロイヤルが国際プロレスに来日し阿修羅・原相手にNWA世界ジュニアヘビー級王座をかけて防衛戦を行うことを発表する。そこで馬場と新日本プロレスの営業部長だった新間寿氏と一緒に会見を開き「現在NWA世界ジュニアヘビー級王座は空位、ロイヤルは王者でないので、日本で防衛戦を行うのはおかしい」と国際プロレスに抗議する。この頃の新日本プロレスと全日本プロレスは「8・26プロレス夢のオールスター戦」を契機に雪解けとなって友好関係となっており、新間氏も藤波にNWA世界ジュニアヘビー級王座を取らせたい、また馬場もNWA非加盟の団体である国際プロレスでNWAの選手権を開催するのは許されないということで利害が一致し共闘戦線を張ったのだ。これに対してロイヤルをブッキングした大剛は「NWA会長だったボブ・ガイゲルには承諾を得てある」と抗議を突っぱね、10・5後楽園大会で選手権は強行されるも、ベルト自体が正規のベルトではなくロイヤル個人が所有ベルトだったことがわかったことから、馬場と新間氏はこれ以上国際プロレスを深く追及する気はなかった。(選手権はロイヤルが原を破り王座を防衛)


この騒動の後でロイヤルが引退し王座が正式に空位となると、同じNWAの会員だった新日本はジュニア王座を独占するマグガーグに不満を持つ、WWFのビンス・マクマホン・シニアとフロリダのプロモーターであるエディ・グラハム、ロスサンゼルズのマイク・ラベールと組み、マグガークを無視して勝手に王座決定トーナメントを開催、その王座は日本に渡り藤波が王者となりNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座となって新日本の王座となる事態が起きる。
これを受けてマグガークも反撃して王座決定トーナメントを開催し、ソントンを破ったロン・スターを王者として据え、NWA世界ジュニア王座が二つ存在するという事態を招く結果となったが、NWAはマグガークの管理するNWA世界ジュニア王座が正当であると認められた。
1981年に日本では外国人選手の引き抜き戦争が勃発すると、全日本プロレスは当時のインタージュニア王者だったチャボ・ゲレロを王座ごと新日本から引き抜いてしまう。ゲレロは新日本プロレスが提携していたロスアンゼルスマットを主戦場にしていたが、ラベールとの間でギャラを巡ってトラブルとなり、ロスアンゼルスを離れていたことで、ゲレロ一家と家族ぐるみで親交があったファンクスの誘いで全日本プロレスに移った。この頃のNWA世界ジュニアヘビー級王者は既にソントンとなっていたが、オクラホマではブッカーだったビル・ワットがマグガーグから独立し、ほとんどの選手がワットに追随してしまったことで、マグガーグはプロモーターから引退して興行権をワットに譲渡、NWA世界ジュニア王座の管理権は放棄してしまったた。そのためNWA世界ジュニア王座はソントンの個人のベルトとして勝手に選手権を開催して防衛戦を続けていたが、この頃のNWAはマグガークだけでなくファンクスなどがプロモートを撤退して会員数が減り、組織として形をなくしつつあった。
NWAインタージュニア王座を全日本に持って行かれた新日本は、管理者不在となった NWAジュニア王座に目をつけ、1982年5月から開催された「ビックファイトシリーズ」にソントンを招き、5月25日の静岡産業館大会で初代タイガーマスクがソントンに挑戦、タイガーはツームストーンパイルドライバーで3カウントを奪い王座を奪取、そのままWWFと共有する形で新日本の管理下のベルトにしてしまう。

この事態にNWAのアジア支部長でもあった馬場はNWAに無許可で選手権を行い、王座まで移動させた新日本に怒り、NWAに抗議するも、NWA会長だったボブ・ガイケルは事を荒立てなくなかったのか馬場を説得し王座移動を認めてしまった。渋々承諾した馬場だったが「ただ、向こうさん(新日本)のタイトルはもうNWAは管理していないんです。管理していたレロイ・マクガークは引退してNWAから脱退している。かといって新日本に管理を委ねたなんて話は、少なくとも(NWAアジア支部長の)俺は聞いてない。現にソントンはその後もテキサス、プエルトリコで王者としてタイトルマッチを行っている。一体誰があのベルトを管理しているのか、そこら辺はハッキリさせなくていいんでしょうかね?」と皮肉ったが、今思えば、新日本がNWA世界ジュニア王座を管理下にしたのは、全日本がインタージュニア王座を王者ごと引き抜いたことに対する報復だったのかもしれない。
タイガーに王座を明け渡したソントンは1982年10月の新日本に参戦、NWAジュニア王座をかけてタイガーと対戦する予定だったが、ソントンのウエートオーバーを理由に選手権は開催されず、ノンタイトル戦となったタイガーとの試合にも敗れてしまい、これを最後に来日することはなかったが、983年11月にジョージアで勝手にNWA世界ジュニアヘビー級王者を名乗り防衛活動を再開していた。この頃にはタイガーも引退していることから、タイガーが返上したとして再び王者として名乗ったのかもしれない。同じ時期に新日本でもザ・コブラがデイビーボーイ・スミスとの王座決定戦を制してNWAジュニア王者となり、再びNWA世界ジュニア王座が二つ存在する事態となるが、新日本はなぜか追求せず、二つの王座が存在したままの状態となるも、ビンス・マクマホンに代替わりしたWWFが全米侵攻を開始すると、ソントンが主戦場にしていたジョージアがWWFによって買収され、ソントンはそのまま移籍して王座は返上する。新日本もWWFとの提携を解消したためコブラの保持していた王座も返上、二つのベルトは空位となり、現在はまた一つの王座となって組織が代替わりしたNWAの中で、かつての権威は低下しながらも存続するも、ソントンが巻いた時点で、権威は低下していたのかもしれない。
ソントンは1991年に引退、そして今年の2月2日に死去したが、政治的背景に振り回されたNWA世界ジュニアヘビー級王座をどう思っていたのだろうか…
ご冥福をお祈りします。
最後に全日本に渡ったインターナショナルジュニアヘビー級王座はNWAから「今後は半永久的にPWFと全日本プロレスに一任する」と全日本の王座となり、後に世界ジュニアヘビー級王座と改められ、ベルトも一新して現在に至る。
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