冬木弘道がマット界の将来を見越していた”理想”のインディー統一機構

1996年11月1日、石川敬士率いる東京プロレスのオーナーだった石澤広太郎氏は、全日本プロレスではブッカーを務め、IWA JAPANの専務を務めていた佐藤昭雄と一緒に会見を開き、乱立するインディー団体を統一する構想として機構を設立することを発表した。

 1988年に剛竜馬が「パイオニア戦志」、大仁田厚がFMWを旗揚げ、そしてFMWが成功したことで次々とインディー団体が旗揚げされていった。インディー団体がなぜ誕生したのか?、新日本と全日本は飽和となった選手層を緩和するために、ある程度キャリアを積んだ選手や中堅となった選手達を海外へ派遣していたが、WWFによる全米侵攻などの影響で海外で活躍する場が少なくなり、団体からあぶれる選手が出ていたことから、インディー団体の誕生は必然的な流れでもあった。そのインディーの乱立に拍車をかけたのはUWFとメガネスーパーという大きなバックを受けたSWSの分裂だった。UWFはUWFインター、リングス、藤原組と3派に、SWSはWAR、NOW、PWC、SPWFと4派に分裂、またFMWからもW☆INGやIWA JAPANなど派生する団体も出たため、インディーの乱立は歯止めが効かない状況となったが、1995年5月に大仁田厚が2度目の引退、またK-1、PRIDEなどの格闘技ブームもあってプロレスも冷え込み始め、インディー団体にも大きな影響を出て活動停止する団体も出始めていた。

1994年12月にWARを離脱した石川敬士が東京プロレスを旗揚げした。石川はSWS時代から天龍源一郎と行動を共にしてきたが、WARは天龍の実家である嶋田家も経営に携わっていたこともあり、現場側と嶋田家側であるフロントとは対立し合っていた。だが天龍が社長を退いて選手に専念にすることになり、義弟の武井正智氏が社長に就任したことで、フロントの意向が強く反映されることになり、フロント主導となったWARに見切りをつけた石川は子飼いの嵐(大黒坊弁慶)と共にWARを離脱、自身のタニマチである石澤広太郎氏からバックアップを受け、新団体「東京プロレス」を設立、石川の元には嶋田家とは折り合いが悪く引退としてWARを追われ、月光というマスクマンに変身して他団体に参戦していた折原昌夫も合流、活動停止となったNOWからはアポロ菅原や当時若手だった山川竜司を加えた5選手や、新日本プロレスを契約切れで離脱した青柳政司も加わり陣容を整えた上での旗揚げだった。

 石川は東京プロレスの存在をアピールするために、1995年5月に2度目の引退をする大仁田厚の引退試合の相手に名乗りを挙げ(実現せず)、時価3億円相当のチャンピオンベルトを使用したTWA認定世界タッグ王座の争奪戦、ガッツ石松との異種格闘技話題実現(実現せず)、また初代タイガーマスクや藤原喜明、契約切れのため新日本から離脱していたザ・グレート・カブキ、FMWから離脱していたミスター・ポーゴ、アブドーラー・ザ・ブッチャーなどの大物が参戦、1997年には新日本やWARと対抗戦を行っていたUWFインターナショナルも運営資金確保のために石澤氏に接近したことで、安生洋二と山本健一らゴールデンカップスが参戦し、安生は石川と組んでTWAタッグ王座を奪取するだけでなく、10月8日大阪府立体育会館にて石川と安生が社長争奪マッチも行い、安生が勝ち社長に就任、高田延彦も参戦してブッチャー戦の実現させるなど、話題を提供したが、大物を参戦させたとしても観客動員に繋がるものではなく、人件費などの経費がかさみ、運営も芳しくなかった。

 高田vsブッチャーが行われた10・8大阪大会と同時期にインディーでは異変が起きていた。全日本でブッカーとして辣腕を振るい、WWF極東マネージャーに就任したのを契機に全日本を離れ、WWFからも離れIWA JAPAN専務に就任して団体を仕切っていたが佐藤昭雄が退陣を表明し、団体の中心だった真FMW(ターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原)も離脱する事態が起きる。IWA JAPANもビクター・キニョネス体制でスタートしたが、キニョネスが撤退して子飼いの選手らと共にFMWへ移ると経営が苦しくなり、テコ入れのために佐藤が招かれたが状況は好転しなかった。そんな状況の中で佐藤は石澤氏から誘いを受けた、おそらく石澤氏は最初は東京プロレスのテコ入れのために佐藤を引き抜こうと考えていたが、話をした上で様々な選手に影響力を持っていると知り、東京プロレスより面白いものが出来ると考えたのではと思う。石澤氏は乱立するインディー団体を統一する構想を佐藤に話すと、佐藤も石澤氏は資金力もあることから、自分の手腕が生かせると思い話に乗った。

 早速石澤氏は佐藤のルートでWA JAPANから後藤率いる真FMWを引き抜き。そして次にWARで冬木軍を率いていた冬木弘道を引き抜いた。後藤はいつ活動を休止してもおかしくないIWA JAPANに見切りをつけており、冬木も自身が牽引していたのにも関わらず、天龍を中心とするWARに見切りをつけていた。また冬木も後藤も全日本時代から佐藤の指導を受けレスラーとしても尊敬するだけでなくブッカーとして信頼していたのも離脱の要因だった。特に冬木は「社長レスラーはダメ、全体をまとめるのは、お金を持った第三者的の役目に」と将来はスターによって団体をまとめる時代ではなく。資金力がある企業の下で団体が運営され、しっかりとしたブッカーが団体を仕切る時代が来ると見越していたことから、”佐藤が仕切る団体なら、自分の理想が生かせる”と団体の将来性を考えていた上での離脱だった。

 冬木は10・28後楽園大会を最後にWARを離脱、その3日後の11月1日に開き、石澤氏の構想に共鳴したということで冬木軍、真FMWが参戦を表明、そして東京プロレスから石川、UWFインターからゴールデンカップスとして安生も賛同、冬木軍と真FMWは東京プロレス12・7両国大会への参戦を発表するも、Uインターは構想には全く興味を持っておらず、あくまでゴールデンカッププスのみの参戦に留めた。しかし冬木に去られたWARも黙ってはおらず、インディー統一機構に対抗してプロレス連合會を設立、佐藤と真FMWに去られ開店休業に追いやられたIWA JAPAN、WARと提携していた剛竜馬の冴夢来プロジェクトと北尾光司の武輝道場、そしてレッスル夢ファクトリー、大日本プロレスが参加し、東京プロレスの12・7に対し、WARも12・13両国の開催を発表、プロレス連合會に名を連ねる団体だけでなく、Uインターからは高田の参戦が発表された。Uインターも統一機構に安生を参戦させていたが、連合會には高田を参戦させるなど中立として両面外交を貫いていた。

  WARに先駆けて開催された東京プロレス12・7両国大会だったが、早くも統一機構に足並みの乱れが出る。冬木軍と6人タッグで対戦した石川が負傷を理由に試合途中で退場してしまい、メインに出場した安生が石川を批判して社長辞任を発表するなど、観客不在の大荒れの中で幕となった。そして大会終了後の2日目には東京プロレスの活動停止、そして新団体「FFF」の設立を発表され、所属選手には旧東京プロレス勢や冬木軍、真FMW、そしてカブキや栗栖正伸も加わったが、会見の場には石川は姿を見せず、石川は後に会見を開きインディー統一機構からの離脱、奥村茂雄(OKUMURA)、川畑輝鎮らと共に、WARと和解してプロレス連合會に参戦を表明するが、石川の突然の離脱はきな臭いものを感じさせた。対するプロレス連合會も一枚岩ではなく、両国大会直前には統一機構から引き抜きの被害がなかった大日本が撤退してしまうも、石川一派を加え、天龍vs高田という好カードを要したWARが大盛況となり、興行戦争はプロレス連合會に軍配が上がる。だが統一機構から団体に発展したFFFはWARだけでなく、大仁田が引退したFMWにとっても脅威であり、新日本と全日本に継ぐ第三勢力になるはずだったが、統一機構の団体化は冬木にとって理想とはかけ離れていたものだった。

  FFFも2008年1月10日後楽園ホールで旗揚げを開催と旗揚げシリーズの日程も発表されたが、東京プロレス12・7両国前に既に異変が起きていた。資金が潤沢とされていたはずの石澤氏がUインターの鈴木健氏に”金を貸して用立てて欲しい”と申し入れがあり、鈴木氏も500万円を貸したが、後になって石澤氏の事業が上手くいっていないことを知り、慌てて貸していた500万円を回収するも、この時点で石澤氏が安生が東京プロレスの本当に社長に据え、事業の負債もまとめて安生に被せる計画だったことが発覚する。石川が統一機構から離脱したのも、石澤氏の計画に気づき、統一機構から手を引いたと見ていいのかもしれない。

  そして年末に発売された週刊プロレスで石澤氏が資金繰りに行き詰まっていることが報じられてしまうと、12・7両国大会のギャラすら受け取っていなかった選手達は”FFFは旗揚げしない”と判断して見切りをつけ始める選手が続出、雁之助と市原は後藤を見限る形で古巣のFMWにUターンし、カブキも新装開店を前にしたIWA JAPANに招かれるなど今後に向けて動き出す。そして旗揚げ戦2日前に石澤氏が選手やフロントを招集し、事の経緯を説明した後で12・7両国のギャラを支払うも、支払いは小切手だった。そして石澤氏は夜逃げ同然で行方をくらまし、旗揚げ戦や旗揚げシリーズの中止も発表され、FFF構想は完全に頓挫、石澤氏の事業も不渡りを出して倒産し、選手やフロントに手渡された小切手は紙くず同然となった。

  FFF構想は完全に頓挫したものの、冬木は早速行動を起こして、冬木に追随した邪道、外道と共に冬木軍プロモーションで自主興行を開始しつつFMWやIWA JAPANにも参戦、次第にFMWを主戦場にすることになる。雁之助と市原に去られた後藤はフリーとして活動、各団体を渡り歩き、古巣である全日本にも参戦、元NOW残党は大日本プロレス入りするも、菅原はセミリタイアした。佐藤は「こんな素人に騙されたんじゃ焼きが回ったな」と業界から身を引き、Gスピリッツでインタビューに答えるまでは業界とは一切連絡を絶った。

 冬木が「社長レスラーはダメ、全体をまとめるのは、お金を持った第三者的の役目に」と発言したとおり、ブシロードが新日本を買収したことで、マット界もカリスマ性を持った社長レスラーの時代から第三者が団体を仕切る時代になったが、冬木はマット界の将来を見越していたことがよくわかる。しかし冬木が「最初の頃と話が違ってきて、最後はもの凄くしょっぱいインディーが出来ただけだった」と語っていたとおり、団体化した時点で冬木の理想は崩壊してしまっていた。もしインディー統一機構がキチンとした企業が取り仕切っていたらどうなっていたか、冬木の構想も実現するまで時間を要していたことを考えると、時代を先取りしすぎていたのだろうか…

(参考資料 GスピリッツVol.26 俺たちのプロレスVol.9「プロレス団体の終焉」)

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