新日本プロレス、無我ワールドプロレスリング、全日本プロレスに所属し、フリーとしても様々な団体に参戦してきた西村修さんが死去した。享年53歳。
西村修さんは1991年に飯塚孝之(飯塚高史)戦でデビュー。1993年に第4回ヤングライオン杯で準優勝した後、アメリカへ海外修行に出発し、ヒロ・マツダのコーチを受けた。

1994年に新日本プロレスからの帰国命令を拒否した西村さんは、オランダでクリス・ドールマン、イギリスでビリー・ライレージムでコーチを受けた後、藤波辰爾の誘いを受けて無我に参戦するために帰国。本隊にも参戦し、リック・フレアーとも対戦したが、結果を出せない状況が続いたため、1997年に再修業のためカナダのカルガリーへ渡り、その後ヨーロッパへ渡った。

1998年に凱旋帰国すると、IWGPヘビー級王者だった佐々木健介に挑戦したが敗れ、8月にG1初出場を果たした後、後腹膜腫瘍により欠場。1年半にわたって長期欠場を強いられた。2000年6月に復帰し、2001年には藤波とのタッグでIWGPタッグ王座を奪取。また、藤波の新日本プロレス社長就任に伴い、西村が無我を引き継いだ。
2006年に新日本プロレスを退団し、田中秀和リングアナや同時期に新日本プロレスを退団した選手を集め、「無我ワールドプロレスリング」を旗揚げ。また、NOAHやハッスルにも参戦した。しかし、2007年に入ると、社長だった藤波や所属選手らとの対立が原因となり、10月18日の後楽園ホール大会後に武藤敬司体制だった全日本プロレスへ移籍。2010年には政治家へ転身するため全日本プロレスを退団し、文京区の区議会議員を務めながら、フリーとして各団体に参戦していた。


2024年、食道がんを患い、脳にも転移したため手術を受け、12月にはプロレス復帰を果たしたが、1月に体調不良を訴え緊急入院。1月20日の広島で行われた『新春広島プロレスフェスティバル』や、1月31日の『ジャイアント馬場没25年追善~太陽ケア引退試合~木原文人リングアナデビュー35周年記念大会』(後楽園ホール)の2試合を欠場していた。
ご冥福をお祈りいたします。
https://platform.twitter.com/widgets.js西村修選手が28日に死去されました。
— 田中ケロ@リングアナ (@tanaka_kero_mg) February 28, 2025
2006年同じ年に新日本プロレスをやめ、無我ワールドプロレスリングを一緒に立ち上げた仲間でした。
53歳。
西村、早いよ。
寂しいよ。
西村は飲んで楽しく騒ぐのが好きでした。
あちらの世界で仲の良かった吉江と飲んで騒いでね。
御冥福をお祈りいたします。 pic.twitter.com/VVDDvxwDNa

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