新日本プロレスの創成期にデビューし、日本マットやメキシコマットを股にかけて活躍したグラン浜田(本名・浜田広明)さんが死去した。享年74歳
浜田さんは1972年に友人だった関川哲夫ことミスター・ポーゴと一緒に旗揚げしたばかりの新日本プロレスに入門、当時の新日本プロレスは選手不足ということで、柔道の下地もあったことから短期間でデビューを果たし、藤波辰巳がデビュー戦の相手を務めた。


浜田さんは前座戦線で活躍するも、コーチを務めていた山本小鉄に反発して解雇寸前になるも、当時新日本プロレスで営業部長を務めていた新間寿氏のとりなしもあってメキシコ行きを命じられ、UWAした浜田さんはリングネームをグラン浜田に改め、UWAで活躍、世界ライトヘビー級、ミドル級、ジュニアヘビー級と三階級制覇を成し遂げてスター選手の仲間入りを果たし、新日本プロレスとメキシコマットを股にかけて活躍しつつ、浜田さんのルートでルチャドールを新日本プロレスに送り込み、新日本プロレスでも初代タイガーマスクと対戦した。


ところが、浜田さんの後ろ盾だった新間氏がクーデターで新日本プロレスから去ると、浜田さんも新日本プロレスでの居場所がなくなったことから、新間氏の誘いでユニバーサルプロレスリング(第1次UWF)の旗揚げのに参加も、第1次UWFからも新間氏が去ると、新間氏の斡旋で全日本プロレスに参戦する。

1986年に娘のソチがジャパン女子プロレスでデビューを果たすと、浜田さんも引退としてメキシコから撤退、ジャパン女子にコーチ兼任レフェリー、ブッカーとして携わるが、ジャパン女子のリングで大仁田厚と対戦したことで、ジャパン女子の選手から猛反発を受け、浜田さんもジャパン女子を去る。


1990年には新間氏の誘いでユニバーサルプロレスリングの旗揚げに参加、中心選手の一人として活躍するが、ザ・グレート・サスケがみちのくプロレスを旗揚げすると、選手のほとんどがみちのくプロレスに移り、浜田さん一人となったユニバーサルプロレスリングは活動を休止、浜田もみちのくプロレスへ移籍、古巣である新日本プロレスにも参戦、その後はフリーとなって全日本プロレスや大阪プロレスに参戦。、娘の文子もデビューしたことで、親娘タッグを結成しハッスルに参戦するだけでなく、メキシコマットにも復帰を果たした。

しかし、2017年に入ると体調を崩しがちなり。2018年に娘の文子が麻薬取締役法違反で逮捕されると。浜田自身も脳梗塞を発症、日本で再婚した後妻が死去するなど不幸が相次ぎ、2019年には娘たちの誘いでメキシコに戻って余生を過ごしていた・
2024年に文子のFacebookにて浜田さんが生命の危機に晒されていることが明かされたが、その後回復、2025年1月に退院したことを報告されていた
ご冥福をお祈りします

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