太陽ケアがジャイアント馬場さんの命日である、2025年1月31日に引退


2025年1月31日、後楽園ホールで開催される「ジャイアント馬場没25年追善興行」で、太陽ケアの引退試合が行われることになった。

太陽ケアは1994年6月、初代PWF会長だったロード・ブレアースの紹介で全日本プロレスに入門し、同年11月に津市体育館で本名のマウナケア・モスマンとしてデビューを果たした。

1996年にはロブ・ヴァン・ダムのパートナーに抜擢され、世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリー。1997年8月には小川良成を破り、世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。

1998年にヘビー級へ転向し、2000年7月に三沢光晴らが大量離脱した際には全日本プロレスに残留し、リングネームを「太陽ケア」に改めた。

2001年1月にはジョニー・スミスと組んで世界タッグ王座を奪取。さらに武藤敬司と組んで再び世界タッグ王座を獲得しただけでなく、新日本プロレスのIWGPタッグ王座も奪取し、団体の垣根を越えて活躍した。2004年7月にはNOAHに初参戦し、東京ドーム大会で武藤と組んで三沢&小川組の保持するGHCタッグ王座にも挑戦した。

その後、武藤とのタッグを解消し、RO&Dに参加。2006年には諏訪魔を破りチャンピオンカーニバル初優勝、7月には小島聡を破って三冠ヘビー級王座を奪取。2008年には川田利明とのコンビで再び世界タッグ王座を獲得した。

2007年には鈴木みのるのユニットGURENTAIにも参加し、鈴木とのコンビで再び世界タッグ王座を奪取。2011年には曙とのコンビで再び世界タッグ王座を奪取し、2012年には諏訪魔を破ってチャンピオンカーニバル2度目の優勝を果たした。

しかし、2013年1月3日の後楽園大会を最後に、ハワイ大学で経営学を学ぶために休業。その後はスポット参戦扱いとなり、2014年には武藤が旗揚げしたWRESTLE-1に参戦したが、一度だけに終わった。2017年にはジョー・ドーリングとのコンビで世界最強タッグにエントリーしたが、レギュラー参戦することはなかった。

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