新日本プロレスとWWFの蜜月関係の終焉②キッド&スミスが全日本に電撃移籍、ビンスにNOと言った新日本プロレス


WWFとの契約更新を先延ばしにしていた新日本プロレスだったが、長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇ら維新軍団、そして中堅の永源遥らがごっそりとジャパンプロレスへ移籍したことで、選手層は一気に薄くなった。この苦境の中、11月16日に川崎市体育館で「’84 MSGタッグリーグ戦」が開幕した。

そういう状況の中で新日本プロレスは「MSGタッグリーグ戦」が11月16日の川崎市体育館から開幕した。
<出場チーム>
アントニオ猪木&藤波辰巳
坂口征二&木村健吾
ディック・マードック&アドリアン・アドニス
アンドレ・ザ・ジャイアント&ジェリー・モロー
ハルク・ホーガン&ワイルド・サモアン
タイガー戸口&ケリー・ブラウン
ストロング・マシーン1号&2号
ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス

昨年の覇者である猪木&ホーガン組は解散し、猪木は藤波と、ホーガンはサモアンとそれぞれ新チームを結成。 本来ジュニアヘビー級のキッド組が抜擢された背景には、マードック組以外に目玉となる外国人チームがおらず、リーグ戦の盛り上がりを何とか維持したいという新日本側の苦しい台所事情があった。

一方、11月22日に開幕を控えた全日本プロレスの「’84世界最強タッグ決定リーグ戦」は、豪華な顔ぶれを揃えた。
<出場チーム>
スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ
ジャンボ鶴田&天龍源一郎
ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク
ハーリー・レイス&ニック・ボックウインクル
タイガー・ジェット・シン&マイク・ショー
ワンマン・ギャング&鶴見五郎
ジャイアント馬場&X
X&XX

前年度覇者の超獣コンビ(ハンセン&ブロディ)、鶴龍コンビ(鶴田&天龍)に加え、テリー・ファンクの現役復帰によるザ・ファンクス再結成、さらにNWAとAWAの現役世界王者コンビ(レイス&ニック)まで名を連ねた。ファンの注目は、謎の「X」と「XX」に集まった。既にジャパンプロレス勢が全日本の大会を視察しており、その参戦は時間の問題と見られていたことから、この枠には長州らが収まるのではないかとの憶測が飛び交っていた。

11月13日、運命の日が訪れる。「MSGタッグリーグ戦」参戦のため来日するはずのキッド&スミスを待ち受ける報道陣の前に、なぜか全日本の渉外担当である米沢良蔵氏の姿があった。米沢氏は「知人を迎えに来ただけ」ととぼけていたが、キッドとスミス、そして彼らに帯同していたミスター・ヒトが姿を現すと、3人は新日本の関係者ではなく米沢氏に駆け寄り握手。そのまま全日本が用意した車に乗り込み、空港を後にしたが、「X」と「XX」の正体がキッド&スミスであることが明らかになった瞬間だった。

翌14日、全日本が用意したキャピトル東急ホテルで記者会見が開かれた。キッドは「俺たちはアメリカで勝負したい。そのためには馬場さんの力が必要だ。アメリカでは猪木ではなく馬場だ」と述べ、WWFのサーキットがプライドを傷つけるだけだったと痛烈に批判し、NWA圏での活動を希望した。
この電撃移籍の背景には、キッドらの主戦場だったカナダ・カルガリーのプロモーション「スタンピート・レスリング」が、ビンス・マクマホン率いるWWFに買収されたことがあった。 WWF傘下となったことで、キッドら地元勢は冷遇され、ブッカーだったミスター・ヒトもリストラされていた。ヒトは、新日本が若手の育成費用を正当に支払わなかったことや、犬猿の仲であった大剛鉄之助が北米支部長に就任したことへの不満も募らせていた。
会見に同席したヒトは、「新日本の若手を一人前にしてやったのに、俺への報酬は5千ドルだけだ」と新日本への不満をぶちまけ、スーパー・ストロング・マシンやザ・コブラら、自身がカルガリーで世話をした選手たちの引き抜きも示唆する。

会見が終わるとジャパンプロレスの大塚直樹社長が現われ、ヒトと会談、この時点で誰もがキッド&スミス移籍の仕掛人は大塚社長で、ヒトと通じていた永源もジャパンプロレスにいることから、キッド&スミスの移籍はジャパンプロレスが大きく関与していると思われていたが、後年とんでもない事実が明らかになる。

2023年11月、東京スポーツ誌上で、キッド&スミスの電撃移籍劇の仕掛人は後年ヒトではなく、別の人物であることが明らかになった。東京スポーツの記者で全日本プロレス番を務めていた川野辺修記者によると、「移籍した年の夏、恵那さん(ロサンゼルスで全日プロのチケットの手配をしていたエージェント「ニュージャパン・トラベルセンター」社長)が来日したので銀座の焼き鳥屋で会食した。恵那さんが『面白いことが起きますよ』というので根掘り葉掘り探りを入れた結果、安達(ヒト)は単なるメッセンジャー。声をかけたのはドリー(・ファンク・ジュニア)だよ」と真の仕掛人はドリーであることを明かした。

キッドは1978年からカルガリーに定着しているが、1979年にドリーがカルガリーへ遠征に来ており、キッドと接点がある可能性あるだけでなく、ヒトとも対戦していたことから。これは推測だが、キッドはヒトを通じてドリーから口説かれた。それを考えるとヒトはメッセンジャーだけでなくキッド&スミスの代理人のような存在だったのかもしれない。

川野辺記者もビックスクープということで、早速記事にしようとして原稿を提出したが、編集局長だった桜井康雄によって握りつぶされてしまった。理由は新日本プロレス番記者だった永島勝司が新日本プロレス側のエージェントである鯨岡チカさんに連絡を取って『そんなことは絶対ない』と確認を取ったからだった。桜井氏も「ワールドプロレスリング」の解説を務めていたこともあって、新日本プロレスにキッド&スミスが引き抜かれるのではと通報したが、新日本プロレスも「まさかキッド&スミスが動くわけがない」と見ていたことから、新日本プロレスへの忖度の意味も込めて記事を握りつぶしてしまったのだ。ところがキッド&スミスには鯨岡チカさんの用意した飛行機のチケットを渡していたが、ヒトの提案でそのチケットをキャンセルさせ、同じ飛行機のチケットを用意して来日したのだ。後年に川野辺氏は「裏を取って書いたのに…あれには腹が立ったね」と記事を握りつぶした桜井氏に憤っていたが、それだけ新日本プロレスだけでなく桜井氏も、キッド&スミスは契約書がある限り移籍はないと油断していたのだ

事態を重く見た新日本の坂口征二副社長は、キッド組との契約書を手に馬場との緊急会談に臨んだ。しかし馬場は、スチュ・ハート(スタンピート・レスリングのプロモーター)とキッドらの契約は信頼関係に基づく口約束に過ぎず、正式な契約書はないと一蹴。話し合いは平行線に終わり、新日本は法的措置を示唆するしかなかった。

15日には来日していたビンス・マクマホンが、キッドの保持していたWWFジュニアヘビー級王座の剥奪を発表。翌16日には坂口の仲介で馬場と会談した。NWA第一副会長である馬場と、WWFのボスであるビンスの会談は、NWA対WWFという代理戦争の様相を呈した。会談内容は公にされなかったが、キッド&スミスを1年間両団体で共有することで合意したと見られている。

こうしてキッド&スミスは晴れて全日本プロレスに参戦することになるが、新日本プロレスとの契約でキッド&スミスの試合は日本テレビの「全日本プロレス中継」には放送されないことになった。それはキッド&スミスのことでは泣きをみた坂口や新日本プロレスにしてみればせめてもの抵抗だったかもしれない。また馬場と話し合っても、全日本プロレスとWWFだけでキッド&スミスを独占してしまい、新日本プロレスの意向は一切反映させるつもりはなかったビンスに対しても大いに不満を抱いたと思う。

キッド&スミスは11月16日、後楽園ホールで開催された全日本プロレス・ジャパンプロレス提携記念 チャリティ興行に参戦し、小鹿&大熊の極道コンビと対戦し、スミスが大熊をオクラホマスタンピートで叩きつけてから、キッドがダイビングヘッドバットで3カウントを奪い、初戦を勝利で飾るだけでなく、メインで行われた馬場&天龍vs鶴田&タイガーのタッグマッチに乱入、試合は無効試合になった後でキッドvsタイガーのシングルが3分間のエキシビションという形で行われ、試合は時間切れ引き分けとなったが、キッド&スミスは全日本プロレス参戦を大きくアピールする。

同日に川崎にて新日本プロレスの「MSGタッグリーグ」が開幕したが、開幕戦で猪木&藤波の師弟コンビと対戦したホーガンが試合中に流血、そして負傷を理由で途中帰国してしまうが、負傷は表向きでビンスの意向が絡んでいたからだった。ビンスがわざわざ来日した理由は、先延ばしになっていた新日本プロレスとの契約を更新をするためだった。だが、新日本プロレスはまた契約更新を先延ばししようとするため、ビンスはホーガンを開幕戦だけ参戦させただけでアメリカへ戻してしまう強硬措置に出たのだ。このままではアンドレどころか、WWFから参戦していた選手は引き上げてしまい、リーグ戦は成り立たなくなってしまうと懸念した新日本プロレスはビンスの恫喝に屈し、莫大なブッキング料を支払う契約を結ばざる得なくなってしまった。

一方の全日本プロレスの世界最強タッグも23日から開幕し、馬場のパートナーXはWWFを離脱していたボブ・バックランドではとも噂されていたが、ふたを開けてみればラッシャー木村がXの正体だった。ラッシャー木村は新日本プロレスから第1次UWFに移籍していたが、第1次UWFの路線が変わると離脱し、プロレス評論家で東京12チャンネルの国際プロレス中継で解説を務め、馬場とも通じていた菊地孝氏の仲介で全日本プロレスに参戦となったのだ。
キッド&スミス組はテレビ中継はされなかったが、最強タッグでは目玉になり、ハンセン&ブロディ、レイス&ニック、ファンクスに敗れたものの互角以上に渡り合い、鶴田&天龍の鶴龍コンビとは引き分けたことでヘビー級にも十分通用することをアピールする。

12月6日の大阪では「MSGタッグリーグ戦」の優勝決定戦が行われ、猪木&藤波の師弟コンビがマードック&アドニス組を30分を越える激闘の末、破り優勝を果たしたが、優勝争いをしたのは猪木&藤波、マードック&アドニス、アンドレ&モロー組の3チームだけという寂しいリーグ戦となり、キッド&スミスの離脱とホーガンの途中帰国の影響を大きく反映させてしまった。

8日の全日本プロレス愛知大会は、ゴールデンタイムの特番枠で生中継で放送されることになったが、鶴田&天龍組と対戦した馬場&木村が試合中に仲間割れを起こし、乱入した剛竜馬と共に新ユニット国際血盟軍結成へと動けば、メインのファンクスvsハンセン&ブロディ組の後で、リングに上がった馬場は長州に対して「上がって来い!」と挑発したことを受けて、長州らジャパンプロレス勢はリングに雪崩れ込み、長州と浜口は上半身裸となって臨戦態勢を取ると全日本勢とジャパン勢が小競り合いとなれば、天龍も着ていたシャツを引き裂いて臨戦態勢を取って一触即発となるが、ここは馬場が双方を宥めたため、長州らはリングを後にする。

長州らジャパンプロレス勢の登場は生中継が終わった後で行われたもので、ゴールデンでの特番も長州登場を見越して組んだものだったが、長州もブルドックス同様テレビ朝日と契約を結んでいたため「全日本プロレス中継」に登場することは出来ないことになっていた。長州の愛知大会登場に向けては日本テレビ側もテレビ朝日側と交渉を持ったがクリアできず、苦肉の策として生中継が終わった後での長州登場となったのだ。 

長州の「全日本プロレス中継」登場はならなかったが、こうして長州らの参戦の既成事実を作り上げたことで、12日に最終戦が行われた横浜文化体育館大会から長州らジャパンプロレス勢が参戦し、長州は浜口、谷津と組んで石川敬士、グレート小鹿、 大熊元司の全日本の中堅勢と対戦、この試合も日本テレビでは放送されることはなかったが、長州は維新軍お馴染みの連係を披露、最後は大熊もリキラリアットを降し、来るべき本格参戦へ向けての予告編を充分に見せつけたれば、木村もリーグ戦途中でショーと仲間割れし脱落したシンと共闘することを表明し国際血盟団の存在をアピールする。

最強タッグは鶴龍コンビが超獣コンビと対戦し、ハンセンが天龍をウエスタンラリアットでKOした後で、超獣コンビが鶴田にツープラトンパイルドライバーを狙うが、制止に入ったジョー樋口レフェリーを突き飛ばしたため反則負けとなり、鶴龍コンビが念願の初優勝となるも、話題の全てを長州に持っていかれる結果となった。

こうやって激動の1984年が終わり、1985年に入るとWWFは契約に則ってホーガンなど選手を新日本プロレスへ送り込んできたが、2月に入ると新日本プロレスは全日本プロレスからブロディを引き抜く、ブロディは会見の席で「今後は、WWFとニュージャパンを中心に活動していく」とWWFへの参戦を匂わせていたことで、WWFが引き抜きに一枚噛んでいたのではと思われていたが、ビンスはプロモーターとトラブルを起こすブロディを全く起用する気はなかった。

5月に「第3回IWGP」がWWFの冠が着いたことで、「IWGP&WWFチャンピオンシリーズ」として開催され、ホーガンらだけでなくWWF系のレスラーが大量に参戦、そしてシリーズ終盤にはビンス自身もリンダ夫人を伴って立会人として来日するが、それは表向きで、真の理由は8月までに切れる年間契約の更新のためだった。ところが、新日本プロレスは従来のWWE依存度を100%から50%にする、つまりホーガンとアンドレ以外はいらないと通告する。

新日本プロレスは坂口主導で密かにWWFに頼らない新たな外国人ルート発掘へ動いており、ヒロ・マツダとデューク・ケオムカの仲介でフリッツ・フォン・エリックのWCCW、ビル・ワットのMSWAと提携を結ぼうとしていた。WCCWもNWAの会員で全日本プロレスとの繋がりが深かったが、NWAが力がなくなると脱会して独立しており、それと共に全日本プロレスとの関係も切れていた。MSWAもWWFが全米侵攻しても、強固なマーケット基盤のもと、WWFに屈するなく独自で活動していた。こうしてWCCWやMSWAと提携、新日本プロレスも独自で獲得したブロディ、常連のマードック、マツダのルートでフロリダマット、また大剛が独自で発掘した外国人選手を中心にしたことで、WWF抜きでもやっていける陣容を整えつつあった。

結局話し合いは保留となり、ビンスは「IWGP&WWFチャンピオンシリーズ」の打ち上げパーティーにリンダ夫人と一緒に出席し、猪木、坂口、藤波と一緒に乾杯となったが、内心はビンスも新日本プロレスからしっぺ返しを受けたことで、はらわたが煮えくり返っていたと思う。

そして9月に入るとビンスは新日本プロレスに対し「今の契約は9月30日まで、10月1日から新しい契約期間には50万ドル(約1億円)の支払を要求する)」と通告する。提携料は2億円から1億円に減額されていたが、ビンスにしてみれば新日本プロレスに対して最後通牒だった。新日本プロレスはテレビ朝日と協議の結果、WWFとの提携打ち切りを決め、WWFの冠が入ったタイトル(WWFインターナショナルヘビー、インターナショナルタッグ、ジュニアヘビー級王座)は全て返上、こうして新日本プロレスとWWFの関係は終わるも、アンドレは新日本プロレスとの参戦への希望したため、特例としてアンドレだけは新日本プロレスへの参戦は継続されることになったが、ビンスは二度と新日本プロレスに来ることはなかった。

その後のキッド&スミスは、長州らジャパンプロレス勢と一緒にテレビ朝日との契約がクリアになったことで、1985年から晴れて「全日本プロレス中継」の画面に登場、1985年の最強タッグに参戦し、この年の最強タッグは出場全チームが優勝の可能性があるという大混戦となるも、キッド&スミスは優勝することが出来ず、ビンスとの約束通り1年の共有期間が終わったということで、二人はWWFマットに専念することになった。馬場もキッド&スミスの二人をWWFで共有している間に、NWAへと橋渡ししようとしていたが、NWAはジム・クロケットが権力を独占しており、クロケットは二人を高く評価しなかった。スチュとクロケットが折り合いが悪かったことから、その影響もあってクロケットはキッド&スミスを呼ぼうとしなかったのかもしれない。キッド&スミスのNWAエリアへの登場は果たすことは出来ず、二人は全日本プロレスとWWFとの共有期間が終わると、WWFへ戻るしかなかった。それを考えると一番美味しいところを持っていったのはビンスかもしれないが、キッド&スミスがWWFに専念することは、二人の関係を大きく変えることになる。

「スタンピートレスリング」は1985年、スチュの息子であるブルース・ハートによって買い戻され、新日本プロレスだけでなく、全日本プロレスからも選手が送り込まれて修業の場として復活、1998年にWWEを離脱したキッド&スミスも復帰したが、時代の波には逆らえず閉鎖、その後は復活、閉鎖を繰り返して消滅していった。

ブロディは事実上新日本プロレスのエース外国人選手となるが、対戦できる選手は猪木だけで、猪木vsブロディも初対決の頃と比べて乱発したことマンネリ化し始め、またホーガンほど集客力もなかったことから、新日本プロレスの期待を大きく裏切ってしまう。そこで新日本プロレスは活動停止となったUWFとの提携を始め、再び日本人同士の抗争に路線を転換を図り、そのためブロディも絶対必要な存在でもなくなったため、新日本プロレスとブロディの間でトラブルが発生、ブロディは出場する大会をボイコットすることで新日本プロレスから去っていった。

1985年に馬場と猪木の間に引き抜く防止協定が結ばれ。長州力が新日本プロレスUターンを最後に引き抜きという概念は消えていったが、その間にもWWFの全米侵攻の全米侵攻が続き、NWAをジム・クロケット・ジュニアの一プロ―モーション化することで、事実上NWAを崩壊に追いやることに成功したが、クロケットはテッド・ターナーにプロモーションを売却、WCWが誕生したことで、WWFがWCWと熾烈な仁義なき戦いを繰り広げることになる。

(参考資料、日本プロレス事件史Vol.8)

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