1983年8月、NWA総会が行われ、WWF(WWE)のビンス・マクマホン・シニアがNWAから脱退を宣言したことで、総会は大荒れとなった。WWFはアメリカ最大のプロレス組織NWAに加盟していたが、1980年に入るとケーブルテレビを活用して全米向けにTV放送を開始してしたことで、NWA内でも影響力を大きくさせていた。
1982年に入るとビンス・マクマホン・シニアは息子であるビンス・マクマホンに株を買い取らせる形でWWFをビンスに譲り渡していたが、政権移譲は公表されておらず、表向きはビンス・シニアがまだWWFを取り仕切っているとされており、提携していた新日本プロレスや家族ぐるみでマクマホン家と親交があるWWF会長の新間寿氏さえもこのことは知らされていなかった。
NWAはWWFの影響力を押さえつけようとして、「テリトリー侵害」として、ケーブルテレビでの全米向け放送を辞めるように勧告するが、WWFは勧告を突っぱねて脱退する。脱退はビンスの意向を反映されたものだが、この頃のNWAはローカルテリトリーの閉鎖が続出、プロモーター間の権力争いで協力関係が希薄化しており、NWAにはもうWWFに対抗する力はないことを見抜いての脱退だった。
その頃の新日本プロレスは、NWAの大激震どころの騒ぎではなかった。社長であるアントニオ猪木がカナダのカルガリーへ、専務であり猪木の懐刀である新間氏がNWA総会に出席するためにラスベガスへ出張していて日本を不在している間に、日本では社内クーデターが起きており、総会に出席していた新間氏は対応に追われるために帰国するが、新日本プロレスの実権を握ったクーデター派から専務から解任、謹慎を命じられ、猪木も社長、坂口征二も副社長から解任、失脚した新間氏はクーデターの全責任を取る形で新日本プロレスから追われるように去っていった。


クーデターの失敗による事態収束後、猪木が社長、坂口が副社長として復権し、坂口がNWA会員プロモーターの役割を引き継ぎ、渉外担当も兼任することになったが、前任の新間寿氏からの引き継ぎが不十分だったため、当時WWFがNWAから脱退した件を対岸の火事と捉えており、これまで通りWWFからレスラーが派遣されていたこともあって、良好な関係が続いていると認識していた。
だがmその裏で、ビンス・マクマホン・ジュニアは着々と全米侵攻計画を進めており、1983年11月には極秘に来日し、新日本プロレスに参戦中だったハルク・ホーガンと独占契約を結ぶことに成功、そして同年12月26日、WWFヘビー級王者だったボブ・バックランドがアイアン・シークに敗れ、王座から転落するという波乱が起きる。
年が明けた1984年1月23日、今度はホーガンがアイアン・シークを破り、WWF世界ヘビー級王座を奪取すると、 これを合図にWWFの全米侵攻作戦が本格的にスタートし、NWAの総本山であったセントルイスをはじめ、NWAやAWAの各テリトリーへ次々と侵攻、エリアをWWFに売却するプロモーターも続出しました。これによりWWFは一気に勢力を拡大し、NWAは弱体化の一途をたどることになった。

WWF世界ヘビー王者となったホーガンは、翌2月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」に王者として参戦し、その存在感を大きくアピール、その一方、前年のクーデター事件で全責任を負わされる形で新日本プロレスを追放されていた新間寿氏は、古巣への復讐を胸に新団体「ユニバーサル・レスリング・フェデレーション(UWF)」を設立する。 新間氏は新日本を退社した後もWWF会長の肩書を保持しており、その立場を利用してUWFに移籍した前田日明をエースに据える計画を立て、計画の一環として、前田をWWFのサーキットに参加させ、1984年3月25日のマディソン・スクエア・ガーデン大会で、UWFの名を冠した独自の「WWFインターナショナルヘビー級王座」を新設し、前田を初代王者に認定する。
新間氏の狙いは、クーデター事件の首謀者として自身を追放した新日本への復讐で、そのため、アントニオ猪木を新日本から引き抜くと同時に、WWFのプロモーターであるビンス・マクマホン・シニアに働きかけ、WWFの提携先を新日本からUWFへ変更させようと画策していた。
しかし、この時すでにWWFの実権はビンス・シニアから息子であるビンス・マクマホン・ジュニアへと移譲されており、新間氏はこの事実を完全には把握しておらず、病床にあったビンス・シニアの鶴の一声でジュニアも従うと考えていたが、その影響力はもはや失われていた。最終的に、実権を握るビンス・ジュニアは新日本プロレスとの関係継続を選択し、WWFとの提携の横取りは失敗に終わる。
最大の切り札であった猪木も、クーデター事件後に新日本の社長に復帰したことなどから、最終的にUWFへ参加することはな、 復讐計画が頓挫したことで、新間氏はUWFの存続は意味がないと判断し、団体を解散させて選手やスタッフと共に新日本へ吸収合併されようと試んだが。前田をはじめとする選手やフロントスタッフの猛反発に遭い、結果として新間氏は自ら設立したUWFからも追放され、失脚する。

1984年5月にビンス・マクマホン・シニアが死去した際、アントニオ猪木はWWF(現WWE)からの要請を受け、「ビンス・マクマホン・シニア追悼大会」に出場するため、「サマーファイトシリーズ」の最中に渡米するが、当時の猪木の心中は穏やかでは状況ではなく、前年に起きたクーデター騒動の余波から、クーデター派が設立した「新日本プロレス興行」が新日本プロレス本体に反旗を翻し、全日本プロレスとの業務提携を発表する事態にまで発展しており。さらには、藤原喜明や髙田伸彦がUWFへ移籍するなど、団体内部の混乱が続いていた。

1984年7月23日、アントニオ猪木はマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でチャーリー・フルトンと対戦し、延髄斬りで勝利を収め、同日に行われたバトルロイヤルでも優勝を果たすが、このMSG大会の模様がTBSで放送されることになり、猪木対フルトン戦もその対象になっていることが発表される。

当時、猪木の試合はテレビ朝日が独占放映契約を結んでおり、他局では放送できない決まりになっていた。この事態を受けてテレビ朝日がTBSに猛抗議すると、TBSは「素材はビンス・マクマホン・ジュニア(ビンスJr.)から直接買い付けたもので、猪木の試合を放送することも本人から許可を得ている。クレームがあるなら、マクマホン・ジュニア氏に直接言ってほしい」と返答する。
これを受けて坂口征二副社長がビンスJr.に連絡を入れるが、ビンスJr.は「父(ビンス・シニア)の時代のようにWWFのレスラーを派遣してほしければ、新日本プロレスは我々と年間契約を締結し、契約料を支払わなければならない」と通告、そして同年9月、ビンスJr.はハルク・ホーガンを伴って来日。猪木社長、坂口副社長、さらにクーデター事件を経て新日本の実権を握っていたテレビ朝日側と会談し、「今まで通りホーガンを日本に派遣してほしいなら、年間契約で2億円を払いなさい」と要求する。
当時、ビンスJr.はWWFの全米侵攻作戦のために莫大な資金を必要としており、テレビ朝日という強力な後ろ盾を持つ新日本プロレスに目を付けた。今思えば、ビンスJr.がUWFに乗り換えなかったのは、UWFにテレビ局がついていなかったからかもしれない。 また、当初「ブラディファイトシリーズ」に参戦予定だったにもかかわらず、WWF側の都合で一方的に来日をキャンセルさせたホーガンをあえて交渉の場に連れてきたのも、「ホーガンは自分の管理下にあり、新日本プロレスのコントロールは受け付けない」という姿勢を示すためだった。
新日本プロレスとWWFは1974年から提携を開始し、アンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガン、ボブ・バックランドといった大物選手を日本に送り込むなど、外国人選手の招聘ルートの大部分をWWFが握っていたが、提携の窓口だった新間寿氏の失脚と、ビンス・シニアが死去したことで、両者の関係は大きく変わろうとしていた
新日本プロレスはビンスJr.に対して「(従来通りの)ブッキング料は支払う」としましたが、年間2億円という金額はあまりに高額なため、この件は交渉継続という形で先送りにして、後日、猪木、ビンスJr.、ホーガンが揃って記者会見を開くと、提携関係の継続をアピール。TBSの放送問題については、猪木が出場したバトルロイヤルのみを放送し、注目のフルトン戦はカットすることで決着した。

しかし、9月20日に「ブラディファイトシリーズ」が終了し、シリーズ後に長州と谷津のWWF遠征が予定されていた矢先、翌21日に事態が急変する。長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇ら維新軍団が新日本プロレスに退職届を提出し、「新日本プロレス興行」への移籍を発表。さらに永源遙、栗栖正伸、キラー・カーンといった中堅や若手選手までもが追随する事態に発展する。
選手層が一気に薄くなった新日本プロレスは、未曾有の苦境に立たされるが、この後さらに団体を大きく震撼させる事態が起きるとは、この時、猪木も坂口もまだ気づいていていなかった。

(参考資料 辰巳出版「GスピリッツVol.35」ベースマガジン社 流智美著「猪木戦記第3巻」)

コメントを投稿するにはログインしてください。