木戸修


新日本プロレス、第1次UWFで活躍し、新日本プロレスの旗揚げメンバーの一人だった木戸修さんが死去した、享年72歳

木戸さんは1963年に日本プロレスに入門していた兄の時夫さんが練習中の事故で脊椎を損傷し、デビューを断念、その後の闘病生活を見て、兄の意志を次いで日本プロレスに入門、練習の虫であり、コーチをしている時も千回単位のヒンズースクワットなどを無言で長時間に渡って淡々とこなしていたという。
レフェリーだったユセフ・トルコの付き人だったこともあって、トルコが新日本プロレスに参加すると追随して、新日本プロレスに参加、旗揚げメンバーの一人となり、藤波辰巳と共に武者修行に出ると、カール・ゴッチ道場の門を叩いて、ゴッチから直接レスリングを学び、ゴッチからも可愛がられていたが、木戸は先に新日本プロレスから帰国命令が出たため、日本に帰国、それ以降は中堅選手として活躍するようになった。

1984年にゴッチの誘いで第1次UWFに参加、1985年に開催された「格闘技ロード公式リーグ戦」では、スーパー・タイガー(佐山聡)、藤原喜明、前田日明を差し置いて優勝を果たしたことで、実力者ぶりを見せる。第1次UWFが活動停止し、新日本プロレスへUターンを果たすと、前田とのコンビで藤波&木村健吾組を破り、IWGPタッグ王座を奪取、この時に木村を仕留めたキドクラッチが大きなインパクトを呼んだことで注目されるようになった。

前田が髙田延彦、山崎一夫と共に、新生UWFを旗揚げするが、木戸は追随せず新日本プロレスに留まり、再び中堅選手として活躍するも、1990年2月に東京ドーム大会に全日本プロレスからジャンボ鶴田、谷津嘉章組が参戦すると、新日本プロレス代表として木戸は木村と組んで対戦し、鶴田がジャンボラリアットを狙った際には脇固めで切り返し、1993年2月に行われた新日本対WARの5対5マッチでは天龍源一郎の逆水平を脇固めで切り返し、天龍の左腕を負傷させるなど、他団体との対抗戦では対抗戦男として活躍した。

木戸は2001年11月に引退し、引退後は新日本プロレスのコーチを務めて中邑真輔を育て上げるが、新日本プロレスから去った後は、上井文彦氏の誘いでビックマウスの所属となり現役復帰、ハッスルや全日本プロレスで散発的にリングに上がり、その一方で長女の木戸愛がプロゴルファーとして活躍したことでも注目され、愛さんも今年12月1日に結婚したばかりだったが、数年前から癌で闘病しており、抗がん剤治療をしていたという。

ご冥福をお祈りいたします。

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