全日本プロレスではアブドーラ・ザ・ブッチャー後の抗争で活躍するだけでなく女性から人気があり、FMWやIWA JAPANではデスマッチファイターとして活躍したテリー・ファンクさんがなくなった、享年79歳。
テリーはアマリロのプロモーター兼プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、レスリングの英才教育を受けながら育ち、兄であるドリー・ファンク・ジュニアがデビューした2年後に1965年にプロレスデビュー、1970年に日本プロレスに初来日して1971年にジャイアント馬場&アントニオ猪木のB・I砲からインターナショナルタッグ王座を奪取した。


1972年10月にはシニアと共に全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦してからは、日本での主戦場は全日本プロレスとし、シニアが亡くなった後はブッカーも兼任して全日本プロレスに外国人選手を送り込み、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、大仁田厚の育成、またスタン・ハンセンの全日本プロレスへの電撃移籍にも一役買った。
1975年12月10日には、全日本プロレスに参戦するために挑戦を辞退したドリーに代わり、NWA世界ヘビー級王者であるジャックブ・リスコに挑戦して王座を奪取、ハーリー・レイスに敗れるまで約1年半間王座を守り抜いた。

1977年にはドリーと共に「世界オープンタッグ選手権」に参戦、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークを破り優勝、特にテリーはブッチャーのフォークに腕を刺されながらも懸命に反撃する姿をファンが感動し、女性を中心にしてファンクラブが出来るまで人気が爆発し、アメリカではヒールとして活躍しながらも、日本では絶対的ベビーフェースを通して人気を集めた。

1983年8月31日に長年にわたって酷使してきた膝を痛めたテリーはスタン・ハンセン&テリー・ゴーディ組相手に引退試合をするも、ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビの挑発に乗った形で復帰を果たすも、この頃の全日本プロレスは超獣コンビやジャンボ鶴田&天龍源一郎の台頭もあり、長州力のジャパンプロレス勢も参戦もあって、以前のような人気を獲得するまでには至らなかった。

全日本マットからは一線を退いたテリーはWWEやWCW、ECWにも参戦、ECWではアメリカでやってきたラフファイト路線に回帰してハードコアレスリングスタイルで再浮上した。
日本では大仁田厚のFMWに参戦して時限爆弾デスマッチで大仁田と対戦し、IWA JAPANではECWで抗争してきたキャクタス・ジャックとも対戦した。

また体制が代わった全日本プロレスだけでなく、新日本プロレスにも参戦、2013年にはドリーとのザ・ファンクスとして全日本プロレスに参戦、2014年12月の東京愚連隊興行にも参戦してミル・マスカラス、船木誠勝とタッグを結成した。

それ以降はDDTや東京愚連隊興行から参戦が発表されながらも、体調不良を理由にキャンセルし、2015年には天龍プロジェクトから出場発表がありながらも、愛妻であるヴィッキー夫人の容態が悪いため来日を断念し、代わりにドリーが出場した。そしてこの年の11月15日、天龍源一郎引退興行でやっと来日するも、これが最後の来日になり。ヴィッキー夫人が死去後は気落ちしたテリーは認知症を患ったと報道されてきたが、SNSなどでは元気な姿を見せていた。

テキサスブロンコ、テリー・ファンクよ永遠に!
ご冥福をお祈りします

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