アイアン・シーク


元WWFヘビー級王者だったアイアン・シーク(本名コシロ・バジリさん)さんが死去した。享年81歳

シークさんはイラン出身でレスリングの選手として活躍していたが、アメリカ亡命後に1972年にミュンヘン、1976年にモントリオールオリンピックの米国代表チームのアシスタント・コーチとして参加。その後バーン・ガニアに見いだされてプロレスデビュー、1974年に新日本プロレス、1976年に全日本プロレスに本名名義で来日、全日本プロレスでは道場破り対策のためのポリスマンとしての役目も請け負っており、柔道家である岩釣兼生とスパーリングした際には一方的にねじ伏せたという。

1970年後半に現在のリングネームであるアイアン・シークに改名しヒールに転向、1979年2月に起きたテヘランで起きたアメリカ大使館人質事件をきっかけにトップヒールの仲間入りを果たした。その後アイアン・シークとして2度新日本プロレスに参戦したが、北米タッグ王座に挑戦するだけでシングル王座への挑戦の機会は与えられず、シングルの総当たり戦である第5回MSGシリーズでも長州力からの不戦勝だけの1勝に留まるなど戦績が振るわず、アメリカと比べて日本では活躍の場は与えられなかった。

ところが1983年にボブ・バックランドを破りWWFヘビー級王者となるが4週間後にハルク・ホーガンに敗れ王座転落と短期政権に終わるも、ホーガン政権からWWFが全米に本格侵攻を始めたことから、シークも重要な役を担ったことでWWFの歴史にその名を残すことになったが、ホーガン戦の際には、ホーガンを引き抜かれたガニアから「ホーガンを潰せ」と命じられたという。

その後はサージャント・スローターと抗争を繰り広げたが1987年にマリファナやコカイン所持で逮捕されると、同じく逮捕された抗争相手であるハックソー”ジム・ドゥガンと車で同乗していたという失態をやらかしたこともあってWWFから解雇され、一旦WWFに戻ったものの再び解雇され、1992年にはUWFインターナショナルに来日し安生洋二と対戦、その後シーク自身も引退したことで、これが事実上最後の来日になった。

その後は私生活では大事な娘が殺される不幸に見舞われ、そのショックのせいか自暴自棄になって薬物依存症になり全財産を失ったが、治療もあって薬物依存症から脱し、そしてYoutubeを始めたことがきっかけになってYoutuberとして再起、タレントとしてTVや映画にも登場するようになった。

2005年にはWWE殿堂入りを果たし、2015年には自伝的映画「アイアン・シーク」も公開された。映画は現在HuluやU-NEXTで配信されている。

ご冥福をお祈りいたします

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