女子プロレス初の東京ドーム進出!②ハプニング続出、不入りでも赤字にはならず!?


週刊プロレスや全日本女子プロレスを中継していたフジテレビを要するフジサンケイグループも全日本女子プロレス初の東京ドーム大会をバックアップするために様々なメディア展開をするが、チケットの売り上げには結びつかず、大量のチケットが売れ残ったまま11月20日の東京ドーム大会を迎えたが、その前後に大きなハプニングが起きていた。

東京ドーム大会は全23試合が組まれ、前半戦は異種格闘技戦やアマチュアレスリングの試合が4試合も並んだが、異種格闘技戦として行われる予定だった井上京子vsルシア・ライカの一戦がライカの練習中の負傷としてキャンセルとなってしまう。ライカは女子キックボクシングでも「女子最強の格闘家、世界で最も危険な女性」と評され、1993年12月19日、両国国技館でのK-2 GRAND PRIX’93でもテコンドー全日本選手権王者岡本依子と対戦し、2ラウンド38秒右ローキックでTKO勝ちを収め、女子では相手がいないとして男子とも対戦するなど華々しい活躍を見せていた。

井上京子の異種格闘技戦を思いついたのは大会プロデューサーであるロッシー小川氏で、京子に相応しい相手としてライカを選び、京子だけでなくライカ自身も来日にしてドームに向けて調整はしていた。ところがライカとの契約はプロモートを通さず本人との直接交渉して成立したことから契約トラブルが発生し、小川氏を始め全女サイドも大会直前まで交渉していたがクリアできず、京子vsライカの異種格闘技戦はライカの負傷として中止せざる得なかった。

京子のカードは宙に浮いてしまい、最悪ドームに出場できない可能性すらあったが、「V☆TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」が一枠空いていたことから、京子を急遽エントリーさせることで、京子のドーム出場は出来たものの、異種格闘技戦に向けて調整していた京子にしてみればコンディションやメンタルなどすべての面で切り替えることは難しいことだった。

東京ドーム大会当日も観客席はびっしり埋まらず、薄っすらと埋まっている程度で動員数も42500人とされたが、実際は25000人程度だった。本来は不入りで興行的には失敗なれど、舞台設定など演出などは「テレビ収録のための舞台装置」ということで全日本女子プロレスを中継していたフジテレビが全て支払ってくれたため、全日本女子プロレス側は1円も出さなかった。その後も客席はなかなか埋まらず、当日は全日本プロレスが後楽園ホール大会を開催しており、終わった後でハシゴ観戦を決め込んだファンが優待券片手に続々来場するという事象もあったほどだった。

また大会中にも事件が発生し。当日は長谷川咲恵がマンガ雑誌とのタイアップでマスクウーマンであるブリザードYukiに変身し吉田万里子と対戦したが、入場の際の演出においてスタントマンが高所から転落して負傷するハプニングが起きてしまう。それを間近で見てしまった長谷川はすっかり動揺してしまったことで自身もリングインも失敗、試合には勝つには勝ったもののグタグタの内容で終わってしまった。

バックステージでも事件が発生し、神取が北斗を殴打する事件を引き起こしてしまう。神取は自分に負けて引退を表明したにも関わらず、なんの説明もないだけでなく、引退するかはっきりしない北斗に苛立ちを抱えたまま会場入りしていたことから、社長だった風間ルミからも「お願いだから手を出さないでね」って注意していた矢先に、バックステージで北斗と神取がばったり出くわしてしまい、神取は『おい、久しぶりだなあ…』とガンを飛ばすと、北斗のボディにパンチを叩き込む、幸いパンチは北斗が抱えていたドーム大会の分厚いパンフレットに当たって大したダメージはなかったものの、神取はさらに北斗を平手打ちにしてしまった。ドーム大会の各団体の控室は、入場シーンだけで相当時間を要することから外野側のワンフロアに集中させており。その中央には、TVのモニターがあって、各団体の選手がノーサイドで試合を見ていたのだが、北斗と神取のトラブルを見た堀田祐美子が風間と共に大慌てで二人を止めたため、これ以上のトラブルには発展しなかった。

「V☆TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」1回戦で北斗とLLPW代表のイーグルと対戦となったが、バックステージのトラブルから「イーグルがどうやら北斗に対して仕掛けるらしい」と不穏な噂も飛びかっており、試合も開始からイーグルが猛ラッシュをかけて北斗を追い詰めたものの、北斗がノーザンライトボムの連発で3カウントを奪い辛くも勝利、セコンドに着いていた神取はイーグルが何か仕掛けてくれると期待していたが、イーグルはあくまで自分の仕事を全うしたことで、神取は思わず舌打ちすると、風間は注意するなど、全日本女子プロレスとLLPWの信頼関係はほとんどなかった。

トーナメントもFMW代表のコンバット豊田が堀田、アジャが豊田、JWP代表の関西が京子を破り準決勝に進出、準決勝でもアジャが関西、北斗がコンバット豊田を破って、決勝戦はアジャvs北斗になった。

ところが、試合中にもハプニングが起き試合中にアジャがトペの際にトップロープに足を引っかけて右膝が外れてしまう、アジャは試合続行不可能の状態にもかかわらず片足同然の状態での試合を続行させ、試合も20分を越える死闘の末、ノーザンライト・ボム3連発で北斗が勝利を収め優勝、試合後は敗れたアジャは号泣しながらWWWAベルトを差し出し「このベルトは、あなたのものです。あなたと、このベルトを賭けるために、1年やってきました。このベルトは、あなたのものです。」とマイク・アピールすれば。北斗は下を向いたまま言葉を発することなく、静かに涙を流し、やがてマイクを取ると、「アジャ・・・いつもよぉ、生意気なこと言ってんのによぉ、なんでこんなときによぉ、言葉が見つからねえんだよ。だけど、この赤いベルトは、アタシのもんじゃない・・・これはアジャのもんだよアジャもう一回巻いてみせてくれ、アタシが唯一取れなかったベルト、巻いてみしてくれ」と言って、WWWAベルトを座り込んでいるアジャに強引に巻き付け、二人で抱き合って泣き続けるが、遠いスタンド席からでは二人のやり取りがわかり辛かったという。これで北斗が有終の美を飾って全てが終わるかに見えたが、北斗が「私のことを、もっと見たいか!」と叫ぶと「来年もドームがあるなら、その時また戻ってくる」と締めくくってしまい、結局引退するかはっきりしないままトーナメントは幕となった。

実は北斗は前夜にニッポン放送の「オールナイトニッポン第2部」のパーソナリティーを務めた際にも引退するか否かを迷っている発言し、トーナメントに優勝した場合は、引退を撤回するかもしれないとも発言していたことから、バックステージで北斗トラブルとなっていた神取の指摘も間違いではなかったのだ。またプロデューサーを務めていた小川氏も「東京ドームは最初で最後だろう」と考えており、北斗も同じ考えだったが、来年ベースボールマガジン社が主催で東京ドーム大会(『夢の架け橋』)の開催する情報を得ていたことから、北斗の「来年もドームがあるなら、その時また戻ってくる」は4月まで引退問題を先送りするための謎かけだった。

興行も終わってみれば7時間興行のつもり、前半の格闘技戦が判定が多く、レスリングの試合もあったことから時間を押してしまい、入場の花道もドームということで長くみせたいということで長く特設されたことで選手の入場にも時間をかけ、プロレスと関係ないブラスバンドの演奏や、予定された演出を全部見せることを優先したことで、7時間で終わらせるつもりが時刻を大幅にオーバーして11時間興行(大会開始は午後2時)となってしまい、23時57分に終わらせたことで日を跨ぐ興行にはならなかったが、前年度の横浜アリーナ大会同様、またも終電に間に合わない客が続出。秋の寒空のなか始発の時間までゲート前の通り、階段のあちこちで雑魚寝するファンもいる始末となってしまった。

全日本女子プロレス最初で最後のドーム大会をもってLLPWとFMW女子が対抗戦から撤退することで、対抗戦ブームが終わり、バブルが弾けたが、ドーム大会は赤字にはならなかったことで、全日本女子プロレスにとって大会場を満員にできるほどの余力は残したままアフタードームを迎え、ロスなしで乗り切れる…と思われていた。

全日本女子プロレスはJWPとの交流は続けながらも、団体内での激しいぶつかり合いにシフトを変え、全日本女子プロレスもポスト北斗晶として豊田真奈美を大きく売り出しにかかる。

また女子プロレスも1994年に新団体設立を発表していた長与千種が「GAEA JAPAN」を旗揚げ、また吉本興業が出資する「J’d女子プロレス」も旗揚げするなど、対抗戦が終わっても女子プロレスの人気はまだまだ絶大なものであると思われていた。

矢先に北斗晶が結婚を発表する。北斗は4月2日、週刊プロレスの主催する東京ドーム大会「夢の懸け橋」に来場して、「もう引退騒ぎは終わりだ。辞めるのをやめた」と引退を撤回を宣言、北斗の結婚したことが大きな話題となったことで、ビックマッチの限定参戦ながらも、全日本女子プロレスにとっても興行の大きな柱となる。

9月2日の日本武道館で王座戦線から一歩後退していた豊田が北斗と対戦し、豊田が北斗越えを達成すると、12月6日の両国でJWPに流出していたWWWA王座をダイナマイト・関西を破って座を奪取、至宝を全日本女子プロレスに取り戻したことで、豊田時代が到来した。

ところが1996年に入り、北斗は2月をもって全日本女子プロレスを離れ、3月には長谷川咲恵の引退試合が横浜アリーナで開催されるが、空席が目立つようになる。全日本女子プロレスは興行の他にサイドビジネスとして飲食業、株や不動産の投資を行っていたが、投資が全くの赤字で多額の負債を抱えており、資金繰りに慢性的に悩まされていた。対抗戦ブームが起きて利益が出来ても、利益の全て借金の返済や外部業者への支払いにあてるなど常に自転車操業状態だった。地方巡業も赤字が続いてビックマッチの利益だけが全女の主な収入源になっていた。

そこで全日本女子プロレスは大博打をうち、8月の武道館2連戦を開催することを発表する。松永高司会長も成功を収めるために、東京ドーム大会同様、週刊プロレスのターザン山本編集長に相談、またベースボールマガジン社を口説き落として週刊プロレスの主催興行としたが、全日本女子プロレスの手打ちにしなかったのは、もし失敗した時の保険みたいなもので、失敗した時はベースボールマガジン社が全て損を被る計算だったのかもしれない。興行のプロデュースは山本編集長に任されることになったが、この頃は新日本プロレスを含めた数団体からの取材拒否問題で苦しい立場に立たされており、プロデュースするどころの状況ではなかった。

興行の目玉は団体のエースと若手がタッグを組む「ディスカバーヒロインタッグトーナメント」、格闘技ブームを意識しての「U☆TOPトーナメント」の二本立てだったが、「ディスカバーヒロインタッグトーナメント」はJWP、FMW女子、GAEA、J’dから協力を得られたが、週刊プロレスが誌面を通じてキャンペーンを張ったにも関わらず、チケットが全く売れずに不振、その矢先に山本編集長が取材拒否の責任を取らされ失脚し、プロデュースからも降板する事態が起きてしまう、

山本氏の後を受けてロッシー小川氏がプロデュースを引き継いだものの、チケットの売り上げが全く伸びず、大会当日の武道館は観客席は空席だらけでスカスカ、結局2連戦とも大失敗に終わり、損はベースボールマガジン社が被ったが、2連戦の大失敗は団体としても大きなイメージダウンとなり、全日本女子プロレスは徐々に低迷、遂に資金繰りも悪化して選手やスタッフに支払うギャラも遅配が始まるなど苦境に立たされていった…

対抗戦の中心にいた北斗はWCW遠征を終えると9月にGAEA JAPANに入団、女子プロレス界をあっと言わせた。その後もGAEA JAPANを主戦場にして2002年の引退まで現役を続けたが、北斗のGAEA JAPAN入団は全日本女子プロレスだけでなく女子プロレス界全体を見越したものだったのか、ただ北斗のGAEA JAPAN入りも全日本女子プロレス転落の表れだったのかもしれない。

(参考資料 彩図社『憧夢超女大戦25年目の真実』小島和宏著、ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.4 球場・ドーム進出」)

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