中邑真輔が猪木へ挑戦発言・・・呪縛から脱するための大いなる賭け


 2009年9月27日の神戸ワールド記念ホール大会で真壁刀義を降しIWGPヘビー級王座を奪取した中邑真輔が「聞いてくれ! 言いたいことがある。新日本プロレスの歴史、すべてのレスラーの思い、このIWGPにはこもっている。その思い入れはある。ただ、輝き。このIWGPに、昔のような輝きがあるか? 俺はないと思う。足りない! 猪木–!! 旧IWGP王座は俺が取り返す! 時代も変われば、プロレスも変わります! それでも俺はやります! ついて来る奴はついて来てください!」とアピールする。

 この頃の中邑は2008年1月4日の東京ドームで棚橋弘至を破ってIWGPヘビー級王座を防衛、2月17日の両国大会にはカート・アングルを破り王座防衛と共に、IGFに流出していた三代目IWGPベルトを回収に成功したことで中邑時代が到来かと思われたが、4月27日の大阪で全日本プロレスの武藤敬司に敗れ王座から転落し、10月両国で行われた再戦でも破れIWGP戦線から大きく後退する。2009年1月4日の東京ドーム大会で棚橋が武藤を破ってIWGP王座を奪還すると、2月15日に中邑が棚橋に挑戦したが敗れてしまい、ライバルである棚橋に差をつけられるどころか、タイトル戦線やトップ争いからも大きく後退してしまった。

そこで中邑は立ち位置を変え、矢野通ら旧GBHメンバーと共に反体制ユニットCHAOSを結成、この頃から顔面への膝蹴り”ボマイェ”を使用するようになり、この年のG1 CLIMAXでは準決勝ではボマイェで棚橋を破ったものの、決勝では真壁を敗れ準優勝に終った。

ところがG1準決勝で中邑のハイキックを顔面に食らった棚橋が眼窩内側壁骨折で負傷したため王座は返上することになり、9・27神戸で行われる予定だった棚橋vs真壁のIWGPヘビー級選手権試合は、真壁vs中邑による王座決定戦に変更となった。思わぬ形でチャンスを得た中邑は真壁をボマイェで破りリベンジを果たし王座奪取に成功、その後でマイクで猪木への挑戦をアピールしたのだが、中邑のアピールは周囲に飽かしておらず事前予告もなかったことから、脱猪木を図っていた新日本プロレスを震撼させた。

中邑と猪木で思い出されるのは2004年11月13日、新日本プロレス大阪ドーム大会におけるビンタ事件だった。中邑はデビュー前から猪木の直接指導を受けた最後の弟子で、猪木に接することで大きく影響を受け、また猪木もプロレスとMMAを両立できるプロレスラーとして中邑を大きく期待していたが、中邑自身はプロレス一本で臨みたかったのが本音だった。ところが2004年11月の大阪ドーム、メインカードに棚橋vs中邑がファン投票で選ばれたのにも関わらず、ファン投票の提唱者であった猪木が鶴の一言で大会数日前に突如カードが変更され、猪木の決定に大きな不満を抱いていた中邑は中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦し、藤田に蹴られまくって敗れると、中邑の不満を知っていた猪木は突如殴りつけたことで、師弟関係に亀裂が生じ、中邑も”猪木がまた殴ってきたら殴り返す”と周囲に告げ、一時引退まで考えるほど荒れ、この事件をきっかけに中邑は猪木か離れていった。

2005年10月に猪木は持ち株をユークスへ売却し、経営の悪化した新日本プロレスから退いたが、ユークス体制と経営方針で対立し新日本プロレスを離脱してIGFを設立、猪木という象徴を手に入れたIGFは”新日本にはストロングスタイルはない”など様々な形で新日本プロレスを攻撃したが、棚橋エース路線が固まってからは棚橋自身も「猪木の神通力はもう通用しない!」といわんばかりに猪木の名前を口にしなくなり、また新日本プロレスも猪木の存在すら封印したことで、新日本プロレスとIGFとの軋轢も平行線となっていた。ところが中邑が猪木の存在を持ち出したことで、新日本プロレスとIGF両団体の軋轢が再燃されることになり、またテレビ朝日で放送していた「ワールドプロレスリング」でも中邑発言をカットされることもなく放送したことで、ファンだけでなくマスコミも中邑だけでなく猪木の出方を注目した。

中邑のアピールを受けて、早速IGFは反応し、GMに就任していた宮戸優光は会見を開いた。宮戸はUWFインターナショナルでは様々な仕掛けをすることで高田延彦を日本プロレス界を代表するトップレスラーへと押し上げていったが、新日本プロレスとの対抗戦へと走るUWFインターナショナルに反発する形で離脱、現役をも退いてビル・ロビンソンをヘッドコーチに招いてキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの一般会員制ジム「U.W.F.スネークピットジャパン」を開き、後進の育成に取り組んでいたが、2008年に猪木とロビンソンの対談したことがきっかけになって、宮戸はIGFに関わるようになりGMに就任、当初は育成目的のコーチのはずだったが、いつの間にか猪木の後ろ盾の下で実質上現場を取り仕切るようになっていた。

会見で宮戸は「会長承諾のもとに前回会見をしたわけですけども、リング上からチャンピオンが猪木会長を名指しで“挑戦”という言葉を使って、旧IWGPベルトを獲り返すと言った以上、長く放置しておくわけにもいかない。向こうは『IGFは関係ない』と言うんでしょうけど、猪木会長=IGFというのは誰もがわかる話でしょうし、リングが絡んでくるのは当然」として中邑発言をIGFへの挑戦と受け止め受けて立つ姿勢見せ、中邑に対して11月3日のIGF・TDC大会への来場を要求、ジョシュ・バーネットか澤田敦士を対戦相手に用意するとしたが、中邑は「IGFの理論にスリ変えられては困る。自分としてはマジで猪木さんとやりたい。悪いけどTDCには行かないよ」とあくまで標的はIGFではなく猪木としたため、IGF側の要求を拒否、しかしIGFも「IGFの見解こそ猪木の見解だ」振りかざすだけで譲らず、事態は混沌化していった。 そうなってくると猪木本人の見解を待つしかなかった。肝心な猪木は海外に滞在しているとして姿を見せようしなかった。

当の猪木本人は海外ではなく、腰椎すべり症の手術を受けるために入院しており、13時間に及ぶ大手術を受けていた。猪木は退院し会見に応じたが、中邑に対して出した答えは 「(中邑からの対戦要求は)いま初めて聞いたよ。入院してたから。退院したばっかりだしな。ホラ吹くにもホラ吹ける状態じゃないから(笑)。ただ、オレも引退してるじゃん。そうだそうだって感じにはならんでしょ。まあ、いいじゃん。いろいろアピールしろよって。オレを利用してもらって構わないから。昔だったらバカ言ってんじゃないよっていうかもしれないけど、自己主張をもっとしっかりとして。そのために、アントニオ猪木を使うのは大いに結構ですよ。」と中邑の挑戦発言は歓迎はするも、引退を理由に対戦を拒否するという消極的な態度だった。また宮戸もSAMURAI TVの生番組に出演した際に自身が出した見解はIGF側が用意したものであったことを明かし「未だにリング上の話なのかどうか中邑の真意を図りかねる。」「IGFは先走ってリングの話に直結させすぎた。」としてリセットを宣言する。そして中邑は「(猪木の)口から発せられたのは、『俺は出ねぇ』『引退している』『できるわけねぇ』って。要はノーでしょう。正直ショックでね。すぐにコメントってわけにもいかなかったですよ。」とこれ以上の深追いは必要とないとして、抜いた刀を矛へ納めた。

 中邑の狙いは何だったのか?棚橋が中邑発言に関して「ストロングスタイルの呪いにかかっている」と答えたが、中邑は後年「猪木さんが持ち株を手放して以降、新日本プロレスの中で猪木さんの存在はタブーとなった。なんか別れ方が違うだろうと僕は思っていた。新日本プロレスは本来、闘う会社なんだかさ。ケジメの付け方がある、最後に一発でもぶん殴ってお別れした方がいいだろうという大義名分、自分の生き方、プロレスを示したかった、自分で自分を追い詰めた部分もあるだろうし、猪木さんの会社のため、そんな気持ちもあった。覚悟を持って吐き出した言葉、猪木さんからは『オレは現役じゃないから、試合なんてやれねえよ』、そっかとスーと潮が引いて、それからですよね、自分の中で猪木さんを清算できたのは、なんだろう…猪木さんって人にケンカを売るのはメッチャ好きじゃないですか、売られたケンカにはむっちゃ消極的だなって(笑)」
中邑の中では大阪ドームで猪木にぶん殴られたことがいつまでもトラウマのように残っており、いつかは猪木を殴り返したかったが、猪木は新日本プロレスからいなくなっていた。それだったら猪木を引きずり出して一発殴り返して別れたかった、それが中邑にとって猪木からの卒業であり師匠に対するケジメでもあったが、肝心な猪木はケンカを売るようなことがあっても、売られたケンカは買わなかった。そもそも猪木は過去にジャイアント馬場に挑戦をアピールして、馬場からは相手にされなかったが、いざ馬場から”どうぞ”と仕掛けられた時は消極的になって対戦することはなかった。それを考えると中邑は猪木の考えがわかったことで、猪木から殴られたことは過去のことして笑って済ませたのかもしれない。

だが収まりがつかなかったのはIGFだった。IGFがここまで先走った理由は、IGFは新日本プロレスに対して存在感を示すために作られた団体であり、新日本プロレスがIGFを相手にすることで、再び猪木の影響力を示す意図もあったからだった。中邑の猪木への対戦アピールはIGFにとって新日本プロレスに対して猪木の威光を示す格好のチャンスでもあったが、新日本プロレス11月1日後楽園大会にジョシュ・バーネットを始めとするIGFに参戦している選手達が来場するも、新日本プロレスの選手らは黙殺するかのようにIGFに対して誰もアクションを起こさず、中邑も「IGF?11月3日、なんか期待してるみたいだけど、はっきり言って猪木さんがオチつけちゃったわけでしょ。闘えないなら行く必要も意味もない」と相手にしようとしなかったことで、IGF勢の来場は空振りに終わり、それ以降もIGF側はマスコミはインターネット上で「中邑は逃げた」「中邑は猪木の弟子であることは認めない」と挑発、澤田も新日本プロレスの会場前まで押し掛けて新日本プロレスを挑発したが、新日本プロレスは頑としてIGFを相手にしなかった。2010年6月19日の新日本プロレス大阪大会で澤田がサイモン・ケリー氏と一緒にチケットを購入して来場し、試合を終えた中邑に詰め寄ろうとして花道にまで迫ったが、中邑は相手にしないどころか、サイモン氏と澤田が来場していると聴きつけた係員たちが厳重な警戒態勢を敷いていたため、サイモン氏と澤田は会場から摘み出されてしまった。

中邑は自身の個性を高めることでレスラーとしてステータスを高め、新日本プロレスのトップとして君臨したが、新日本プロレスの枠組みさえも飛び越えて、WWEに挑戦することで世界の中邑にまで昇り詰めてしまった。猪木への挑戦発言は新日本プロレスを脱猪木を鮮明にするだけでなく、中邑自身も呪縛から逃れ、更なる飛躍へのきっかけとなった事件でもあった。  

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