全日本プロレス 旗揚げ前夜③PWFヘビー級王座誕生!旗揚げ戦へ!


話は戻って7月29日の独立会見で記者団はジャイアント馬場に「保持しているインターナショナルヘビー級王座とインタータッグ王座は返上するのか?」と聴かれると、馬場は「タッグは坂口と共有の物だからおいていくが、シングルに関しては自分が築いてきたタイトルであり、出来れば持っていきたい」とインターヘビー級王座を持って日本プロレスを去りたい意向を示した。

インターナショナルヘビー級王座は力道山死去後は遺族である百田家が管理していたが、力道山の遺した負債を巡って百田家と日本プロレスは絶縁状態となり、日本プロレスがインターナショナルヘビー級王座を復活させるにあたり新ベルトを創設、NWA認可という形で復活させて馬場が王者となったことから、実質上馬場ベルトであり、馬場自身も数々の強敵を対戦してきたことで思い入れのあるベルトだった。

しかし、日本プロレスも黙ってはおらず、8月に馬場が外国人ルート確保のためにアメリカへ渡ると、「インターナショナルヘビー級王座はNWAが認可して日本プロレスが管理しているベルトであり、歴史的にも価値を持つ貴重的な財産でる。それをもってNWAのフレーム外に出ようとする馬場君の行動を黙って見過ごすわけにはいかない」と9・6田園コロシアムか7日の大阪府立体育会館で大木金太郎相手に選手権を行うようにと通告する。それは日本プロレスによる馬場潰しも兼ねており、セメントに強いとされていた大木によって馬場を潰し、価値を落とさせようとした意図も込めていた。

日本プロレスでは久しぶりの大物日本人同士の対決が実現か?と周囲は色めきたたせたが、それをアメリカで知らされた馬場は9月1日に帰国、馬場は「タイトルマッチはやりません、返上します」と周囲に肩透かしを食わせた。馬場が大木戦を避けた理由は、馬場もインター王座だけは持って出たいと様々なルートでNWAに働きかけていたのだが、日本プロレスの圧力の影響もあって「NWAのフレームの外へ出るのだから」と許されず事が出来ず、馬場自身も”現在大木と戦っても双方とも傷つくだけでメリットはない。これ以上、事を荒立てると新団体に汚点を残す”という結論に達して、返上することになり、馬場は日本プロレス興業会社に自ら出向いて7年間守り通してきたベルトを返上した。

9月9日に馬場は記者会見を開き、団体名を「全日本プロレス」にすると発表する。理由は「日本、国際、新日本があって6年前には東京があった。もう、これしかない」と考えたからだった。また参加外国人選手も発表、NWAにも入っていないにもかかわらず、独自ルートでサンマルチノやテリーなど豪華なメンバーを揃え、猪木の新日本プロレスがカール・ゴッチ以外無名の選手しか集められなかったことを考えると快挙で、アメリカマットにおける馬場の信用の高さを誇示した。

そして馬場は試運転も兼ねて試合をするためにアメリカへ再び渡り、20日のハワイ・ホノルルではザ・シークと対戦。シークはデトロイトでプロモーターとしても活動していたことから多忙で、日本プロレスも交渉して「第2次サマー・ビック・シリーズ」に4日間だけやっと参戦して坂口征二と対戦したばかりだった。馬場vsシーク戦がすぐ実現させたのはファンク・シニアとハワイでプロモートしていたロード・ブレアースの尽力によるで、ブレアースも馬場がハワイ好きだった縁もあって全日本プロレスに協力することになった。

シーク戦を終えた馬場は今度はアマリロへ向かうと23日にTVスタジオで謎の覆面レスラーであるザ・プロフェッショナルと対戦するが、正体はハーリー・レイスで、当時のレイスはボブ・ガイゲルをプロモートしていたカンザス州を主戦場にしており、ファンク・シニアはレイスにとって師匠にあたることから、ファンク・シニアのたっての頼みとあってレイスも断れず、またガイゲルや日本プロレスへの配慮もあってレイス自身の志願でマスクを着けて馬場と対戦したのだ。シーク戦やプロフェッショナル戦も日本テレビが収録、アマリロで試合をしていた駒と大熊の試合も収録された。

29日にはピッツバークへ向かうとサンマルチノと再会、旗揚げ戦へ向けて打ち合わせをしているところでアブドーラ・ザ・ブッチャーが馬場を尋ねに来た。当時のブッチャーは後に新日本プロレスと提携するNWFに参戦してNWF世界ヘビー級王者となっていたが、ピッツバークで試合をするために参戦しており、ブッチャーは馬場が全日本プロレスを旗揚げすることを聴きつけたため売り込みをかけにきたのだ。馬場も日本でも知名度を高くしていたブッチャーの参戦を歓迎、年内に参戦することを約束してくれた。
馬場はピッツバークでも試合を行い試運転を終えて帰国、馬場がアメリカへ行っている間にも日本テレビによる日本プロレス潰しも着実に進行しており、月曜8時に放送していた「ワールドプロレスリング」を『NTV紅白歌のベストテン』の安定した視聴率のおかげで打ち切りに追い込むことに成功、金曜8時の「NET日本プロレスリング中継」も、日本テレビの「太陽にほえろ!」が高視聴率を稼いだことで視聴率も低下していた。これを受けてNETも馬場の退団は契約違反として東京地裁に日本プロレスに告訴するなど、NETと日本プロレスの関係は悪化しつつあり、この頃から新日本プロレスに接触して「猪木・坂口合体計画」を練り上げ始めようとしていた。

10月7日、土曜8時から「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」をキャッチコピーに「全日本プロレス中継」が放送を開始する。

旗揚げ戦はまだだったが、それまでの間は試運転で行われたアメリカでの馬場の試合を放送する。旗揚げ間近となった10月16日に馬場は駒、大熊、樋口レフェリーと一緒にアメリカから帰国、赤坂ヒルトンホテルで会見を開き、力道山の遺族である百田家が全日本プロレスをバックアップすることを発表する。百田家のバックアップも日本テレビの意向によるもので、また馬場自身も当時は力道山が建てたリキアパートに住んでいたこともあって、百田家とも近い関係でもあった。その際に未亡人である百田敬子さんが取締役、長男の義浩が取締役兼リングアナ、そしてレスラーだった百田光雄も復帰して全日本プロレスに参加することも発表、百田光雄は1968年に日本プロレスに入門してデビューしていたが、クーデター事件直後に退団していた。19日にはサンマルチノを始めとする外国人選手が来日、20日には全日本プロレス発足記念パーティーが開かれると、席上百田家からインターナショナル王座のオリジナルベルト、力道山ベルトが全日本プロレスに寄贈されたが、力道山家の協力、力道山ベルトも全て「力道山の創ったプロレスをジャイアント馬場が継承する」ことをイメージづかせる狙いもあった。馬場は力道山ベルトをかけて世界の強豪5人を相手に争奪戦を行い、正式な選手権とする事を発表する。

力道山という錦の御旗を手に入れた馬場は10月21日の東京都町田市体育館でプレ旗揚げ戦を行った。本来なら22日の日大講堂大会が旗揚げ戦だったのだが、22日は日曜日で生中継できないということで、急遽プレ旗揚げ戦を行い、メインは馬場が杉山と組んでサンマルチノ&テリーと対戦、1-2で馬場&杉山組が敗れた。旗揚げ戦である日大講堂大会は28日に録画中継され、メインは馬場vsサンマルチノの一騎打ちで3本勝負に3本目でサンマルチノがバックを奪ってベアハッグで捕らえて追い詰めたが、馬場がコーナーを蹴ると二人はジャーマンのように倒れて両者ダブルフォールとなり引き分けとなった。

旗揚げシリーズを終えた全日本プロレスは10月31日にミュンヘンオリンピックにも出場したレスリングエリートの鶴田友美(ジャンボ鶴田)が即戦力ルーキーとして入門、12月2日から「旗揚げシリーズ第二弾」が開幕し、約束通りデストロイヤーとブッチャーが参戦、デストロイヤーが全日本プロレス入りして日本に定着するなど少しずつ日本陣営の選手層を厚くさせていった。

年が明けて1973年、新春ジャイアントシリーズを終えた馬場にファンク・シニアから連絡が入り、アメリカへすぐ来るように言われると、馬場はファンク・シニアの指示でNWAの総本山であるセントルイスに向かうと、NWAから臨時総会が開かれて全日本プロレスの加盟が認められたと伝えられた。NWA総会は例年8月に開催するのだが、ファンク・シニアの呼びかけで緊急に開かされたものだった。ファンク・シニアが議題として全日本プロレスの加盟申請が審議にかけ、電話による投票が行われると、日本プロレスからは芳の里も投票に参加したが、日本プロレスは経営が悪化し各プロモーターに対する影響力も低下していたことから、もう各プロモーターに対して圧力をかけることが出来ず、エリックやバーネット、ボブ・ガイケルなど有力プロモーターが賛成に回り、全日本プロレスは晴れてNWAに加盟することが出来た。そして馬場はPWFを設立し力道山ベルトはPWF世界ヘビー級王座となり、会長にはブレアースが就任、3月16日の日大講堂大会では世界ヘビー級王座争奪戦は10戦となったが、8勝2分で終えた馬場は初代PWF世界ヘビー級王者認定され、こうしてPWF王座が誕生した。

6月3日、ファンク・シニアがパーティー中に余興でレスリングをした際、心臓発作で急死する。ファンク・シニアが倒れた時は、アメリカ武者修行中だった鶴田が居合わせたが、ファンク・シニアがNWAの会則まで破って全日本プロレスを加盟を急がせたのは、自分はもう長くないと悟ったからかもしれない。

全日本プロレスは馬場が死去後は日本テレビも放送を打ちきり、社長も代替わりしたが、看板だけはしっかり守られ、今年で創立50周年を迎えた。今後も全日本プロレスは看板がある限りしっかり続けられていく。

(参考資料 辰巳出版 GスピリッツVol.25 『特集・全日本プロレス』日本スポーツ出版社 竹内宏介著「棒業は最大の攻撃なり!!」)

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