越中詩郎と三沢光晴…運命を分けた1984年


1978年8月に一人の若者が全日本プロレスにデビューを果たした。その若者の名は越中詩郎、越中は小学校からプロレスファンになり、中学生になってから全日本プロレスのファンになった。高校時代や野球部に入り、卒業後は就職するも、高校時代の野球部の監督がレスリングの監督を通じてジャイアント馬場と面談、入門試験があったわけでなく通いの練習生としての採用が決定して、2~3か月後にやっと入門が許された。

しかし、当時の全日本プロレスは若手が越中しかおらず、5年先輩が大仁田厚と渕正信、薗田一治の3人だったが、3人は既に合宿所から出ていた。またその上には中堅選手らがどくろを巻いており、合同練習の最終日になると、必ず酒盛りを始め、馬場から「越中は未成年だから酒を飲ますな」と言われていたにもかかわらず、最終日は馬場も顔を出さないことをいいことに越中に無理やり酒を飲ませるなど、若手が育ちにくい団体だった。

1979年3月に越中は薗田相手にデビューを果たすが、主な相手はベテランの百田光雄や先輩である大仁田や園田、渕ばかりで切磋琢磨する同期もおらず、道場では先輩らにかわいがられ、試合でも太刀打ち出来ず、いいようにやられる日々が続き、大仁田や渕、園田までも海外武者修行へ出されると、若手は越中一人だけとなってしまった。

越中がデビューして1年後に後にターザン後藤となる後藤政二が入門、1981年に後藤もデビューを果たして越中が相手を務めたが、しばらくして一人の若者・三沢光晴が入門を果たす。

三沢は中学生時代には器械体操、レスリングの名門である足利工業大学附属高等学校に入学してレスリングで活躍していた、中学生時代からレスラー志望だった三沢にとってレスリングはレスラーになる手段でしかなく、高校2年の時に合宿所を抜け出して全日本プロレスに入門しようとしたが、事務所で面談に応じてくれたジャンボ鶴田から「頑張って高校を卒業してから来なさい。俺は大学を卒業してからプロレス入りしたんだから、決して遅くはないと思うよ」と諭されていったん断念したことがあった。

コーチ役は百田光雄で全日本プロレスは受身を徹底的に練習させるが、三沢は1回教えただけであらゆる受身をマスターしてしまい、馬場が道場を訪れた際に練習の音を聞いて「今のは誰だ」と尋ね、周囲が「三沢です」と答えると、馬場は「やっぱりなあ、一つの音になっておる」と褒められるなど、新人時代から受身の天才だった。

1981年8月21日、浦和競馬場特設リングで三沢は越中相手にデビューを果たす、越中は9カ月、後藤でさえデビューまで11カ月を要したが、三沢は僅か5カ月と異例のデビューで、第2戦の相手は若手にとって門番役だった百田と対戦し、越中も後藤も百田と対戦した後はダメ出しを含めた説教を受けるのだが、三沢は1回ダメ出しされると、翌日にはダメ出しされた部分を見事に修正するなど、百田でさえも三沢にはダメ出しすることはなく、能力の高さを評価していた。

三沢がデビューして2シリーズ目に崩壊した国際プロレスから冬木弘道と菅原伸義(アポロ菅原)も全日本プロレスに入団、三沢も10月には菅原とのシングルでデビュー初勝利を収め、しばらくして高校時代の後輩である川田利明も入門を果たしたことで、全日本プロレスも若手の層が一気に厚くなり、その中で越中と三沢の対決は前座の名物カードとなった。

また三沢にとって幸運だったのは若手の指導役が佐藤昭雄に代わったことだった。佐藤は全日本プロレスのブッカーに就任する際に、馬場から若手の指導役も任されており、馬場から直接王道プロレスを学んだ佐藤は越中らに王道プロレスを噛み砕いて説明しつつ、「大技は使ってはいけない」という前座試合の暗黙の了解をなくし、それを佐藤がすべて受け止めるなど、若手に自由自在に試合をさせるための空気づくりを行い、選手らの個性に合わせた教え方をして長所を伸ばし、マッチメークでも佐藤の考えが反映され、年功序列を廃して若手でも素質がある選手は中堅クラスや外国人選手との対戦を組み、時には越中と三沢はタッグを組ませて中堅選手と対戦する機会を与えた。

1983年3月「’83グランド・チャンピオン・カーニバル」内にて若手や一部中堅選手を対象にした総当たりリーグ戦『ルー・テーズ杯争奪リーグ戦』が開催され、若手からは越中、三沢、冬木、後藤、菅原、川田、中堅からは百田義浩と百田光雄がエントリーする。リーグ戦も越中は菅原に敗れ、三沢は越中に敗れ、菅原と引き分けるも、二人とも門番だった百田光雄を破ったことで優勝戦線に躍り出て、優勝決定戦に進出、4月22日の札幌で二人は対戦するも、越中のパイルドライバー狙いを三沢がリバースしたが、すぐさま越中が回転エビ固めで丸め込んで3カウントを奪い優勝、三沢は準優勝となった。

二人はこの実績が認められて次期シリーズである「’83グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ」でも、大仁田厚の負傷欠場で返上となった「インターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦」にもエントリーし、チャボ・ゲレロとも対戦、5月20日の大阪・泉佐野大会では越中と三沢がタッグを組んでマイティ井上&阿修羅・原の保持していたアジアタッグ王座にも挑戦した。

『ルー・テーズ杯争奪リーグ戦』の副賞には海外武者修行への片道切符が用意されたが、越中の海外武者修行はなかなか実現しようとしなかった。理由は越中のウエート不足とされていたが、実は馬場が付き人を務めていた越中を離したがらなかったというのが真相で、後でそのことを知らされた越中は愕然としたという。しかし佐藤が馬場を口説き落とし1984年3月から三沢と一緒に海外武者修行へ出ることが決まり、当初はAWAに送り込まれる予定だったが、当時のアメリカはワーキングビザの取得が難しいため、佐藤の斡旋で当時まだNWAのエリアでもあったメキシコEMLL(CMLL)に送り込まれることになった。

メキシコ入りした越中と三沢は佐藤の後押しもあってかリンピオのトップとして扱われ、越中はサムライ・シロー、三沢はカミカゼ・ミサワと名乗った。三沢は佐山聡(初代タイガーマスク)とも対戦したエル・サタニコの保持しているNWA世界ミドル級王座にも挑戦するなど活躍したが、1984年のプロレス界は激変期と言われた年、WWF(WWE)がNWA、AWAの各エリアに対して全米侵攻を開始、激変の余波は日本にも訪れようとしており、越中と三沢の運命をも左右しようとしていた。

越中と三沢が日本を不在にしている間に、全日本プロレスは新日本プロレスの興行を請け負っていた新日本プロレス興行を業務提携を結んでいた。馬場は2月に昨年8月に引退した初代タイガーマスクこと佐山聡のマネージャーであるショウジ・コンチャから「タイガーマスクを全日本プロレスで復帰させてみないか」と持ち掛けられていた。この時の馬場はタイガーマスクには魅力を持っていたが、コンチャが信用できる人物か疑っていたこともあって返事を保留にしていた。だがコンチャが佐山に黙って全日本プロレスに売り込みをかけていたことがバレたことから、怒った佐山はザ・タイガーとしてUWF参戦を選び、佐山の獲得を断念したものの、タイガーマスクは諦めたわけではなかった。

そこで業務提携を結んだ新日本プロレス興行の大塚直樹社長が2代目タイガーマスクを誕生させることを提案、提案を受けた馬場は越中、三沢、川田を候補に挙げ、馬場は誰にしようかザ・グレート・カブキに相談すると、カブキは即答で「三沢じゃないですか」と答えたら、馬場も「そうだろ、オレもそう思うんだよ」と三沢を選んだ。カブキも帰国した際には越中や三沢に指導していたことから、三沢の素質を大きく買っていた。

馬場はメキシコの越中に電話を入れ「チケットを送るから、オマエが三沢を説得して日本に戻せ」と命じた。越中も馬場からの指示を伝えると三沢は困惑した。三沢もメキシコマットに馴染んできただけでなく、先輩である越中より先に日本に戻ることに後ろめたさを感じていたからだった。三沢は越中に”この生活を、もうちょっとだけ続けたかった”と本音を明かすと、7月13日の試合を最後に日本へ帰国、帰国した三沢が待っていたのは虎の仮面だった。

7月31日の全日本プロレス蔵前国技館大会でタイガーマスクがお披露目となり、すぐ空手の士道館でキックの猛練習を開始した。一方メキシコに取り残された越中は一人EMLLのリングで活躍していたが、二人で共同生活をしていたマンションは一人きりで住んでいた。そこで三沢が突然二人で訪れにきた。三沢はマーシャルアーツの特訓を受けるためにロスアンゼルスに滞在していたが、対戦相手を探す名目に「アパートの荷物を整理しに来ました」とメキシコへ立ち寄ったのだが、それは表向きの理由で越中に自分の置かれている現状を説明しに来たのだ。越中は歓迎しつつ、三沢もタイガーマスクをやるために今までやったことのない格闘技の学んで苦労していることで置かれている現状を理解し、「ガンバレよ」と励まして送り出していった。そこで越中と三沢による全日本プロレスでの物語は終わりとなった。

8月26日に田園コロシアムで2代目タイガーマスクが華々しくデビューを果たし、ジュニアヘビー級のみならずヘビー級でも活躍するが、越中は新日本プロレスの外国人ブッカーだった大剛鉄之助や坂口征二の誘いを受け、越中はアメリカへ転戦を馬場に希望していたものの通らなかった不満を抱えていたこともあって新日本プロレスへの移籍を決意、最初こそはスタイルの違いに馴染めなかったが、髙田伸彦との抗争でジュニアで頭角を現す。

90年代に入ると三沢は虎の仮面を捨てて素顔に戻ると、シングルでジャンボ鶴田を破ることで全日本プロレスのエースへの道を歩みだし、越中は反体制ユニット『平成維震軍』を率い、また現場監督だった長州力をサポートするなど裏方としても存在感を発揮した。

2000年に入ると三沢は全日本プロレスを退団してNOAHを旗揚げ、越中は2003年に長州に追随する形でWJプロレスに参加したが、WJプロレスは不手際の連発で旗揚げしてすぐ経営難に陥り、選手へのギャラの支払いも滞ってしまう。その状況を受けて越中はフリーとなったが、真っ先に参戦したのがNOAHだった。越中はNOAHのリングに上がって三沢と対戦を要求、2003年12月6日の横浜文化体育館で19年ぶりのシングルを実現させ、試合は越中はこの日のために編み出した侍ドライバーまで繰り出したが、三沢のエメラルドフロウジョンを食らい3カウント奪われた。越中vs三沢はこれまで41度対戦して、越中が40回勝ってきたが、41度目の対戦で三沢に初めて敗れた。

越中は三沢戦が実現するにあたってギャラを提示せず、NOAHも30万ぐらい出してくれるのかと思っていたら、NOAHから300万が振り込まれていた。実は三沢vs越中が実現した横浜文体大会はNOAH史上過去最高の入りで、三沢も越中への感謝の気持ちと窮状を察して多めに支払ったという。

そこから越中も時折りNOAHマットに参戦するようになったが、2009年6月13日に三沢は試合中の不慮の事故により死去、越中も三沢と再び接するうちに団体を背負う立場になった三沢のコンディションを心配していた。

団体を背負う立場になった三沢、フリーとなって身軽な立場になった越中、二人の生きざまは違ったがことで命運も分けてしまったのかもしれない、越中は現在還暦も過ぎて63歳、まだまだ元気でリングの上で戦っているが、その根本になったのは三沢とのライバル関係だったかもしれない。

(参考資料 小佐野景浩著『至高の三冠王者・三沢光晴』 金沢克彦著『元新日本プロレス』)

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