長州力が1985年8月5日、ジャパンプロレス大阪城ホール大会で「俺たちの時代」を叫んだ頃、全日本プロレスの”総帥”であるジャイアント馬場はNWA総会に出席するために渡米中だったが、後で知らせると「正直なところ、『この男(長州)は何を勘違いしているだろう』と思ったが、私にはこれで長州という人間がわかった『こういう男がいたんでは、オレも引退なんかしてられん、目を光らせてやらなきゃいかんな』」と長州やジャパンプロレスに警戒心を抱いた。馬場の中では自主興行は認めても、ジャパンプロレスは全日本プロレスに上がっているうちは全日本プロレスの一員であり、全日本プロレスの選手をジャパンプロレスに貸し出している以上、こういった発言をするときは事前に馬場自身に話すことが筋であり、自分の日本を留守にしている間にやったことは完全に不意打ちだと考えていた。

また馬場がジャパンプロレスに警戒心を抱いた理由はもう一つあった。馬場は渡米した8日に新日本プロレス副社長の坂口征二と会談した。坂口と会談した目的は新日本プロレスが長州らを引き抜いた報復として、全日本プロレスの所属でありながらも海外で主に活躍していたザ・グレート・カブキやプリンス・トンガなどに声をかけて引き抜きにかかっており、既にケンドー・ナガサキと越中詩郎は坂口の誘いに応じて新日本プロレスへの移籍に応じていたことから、馬場もそろそろ引き抜きによる”仁義なき戦い”に歯止めをかけるべく、坂口と会談して手打ちにしようとしていたが、その席で坂口からマシンらがジャパンプロレスに引き抜かれたことを知らされた。マシンの引き抜きもジャパンプロレスから事前に話はなく、馬場にとっても寝耳に水の話だった。
ジャパンプロレスは以前にも自主シリーズである『ビックラリアートフェスティバル」5月13日、大阪城ホール大会で、新日本プロレスの扱いに不満を持っていたタイガー戸口を馬場への相談もなくリングに上げて、かつてのライバルであるジャンボ鶴田に挑戦状を突きつけた事件を起こしており、この時は戸口が全日本プロレスから新日本プロレスへ引き抜かれた経緯もあって馬場が猛反対してなかったことにされたが、ジャパンプロレスの独断専行に警戒を抱いていた矢先だった。

馬場は坂口にマシンらの引き抜きを辞めさせることを約束したが、既に遅くマシンはジャパンプロレスのリングに上がっており。また7日のジャパンプロレス後楽園ホール大会の観客席にヒロ斎藤が現われ、新日本プロレスとの契約中にもかかわらず、小林邦昭の挑発に乗ってエプロンにまで上がってしまった。ヒロもマシンと同時期にカルガリーから新日本プロレスに呼び戻されたが、マシンと同じく新日本プロレスに不満を抱いており、またマシンの新日本プロレス離脱寸前にはヒロと共闘していた。またマシンとヒロは仲が良く、マシンがジャパンプロレスのリングに上がる際にはヒロだけには打ち明けていた。

8月23日には新日本プロレスのシリーズが開幕したが、今度は高野俊二が無断欠場しマシンとヒロに合流してしまう。二人どころかジャパンプロレスも高野は誘ったつもりはなかったのだが、ヒロの自宅でマシンと飲んでいるところで高野が突然訪れ、新日本プロレスを辞めてきたことを明かし、マシンとヒロに追随することになった。29日にはマシン、ヒロ、高野が揃って会見を開き独立ユニット”カルガリー・ハリケーンズ”を結成し東京の用賀に事務所を構え、サイン会などのイベント、芸能活動、グッズ販売を独自で始め”自給自足”で活動を謳っていたが、それは表向きの話で、事務所設立の費用やマシンらの月々のギャラはジャパンプロレスが保証していたことから、実質上ジャパンプロレスの子会社だった。ジャパンプロレスが独立するなら、長州に対する反体制ユニットが必要ということでカルガリーハリケーンズを結成させて、長州らと抗争を繰り広げさせようとしていた。

ジャパンプロレスには本社ビルがあり、選手も揃い、外国人選手もミスター・ヒトのルートで確保し、カルガリーハリケーンズという反体制ユニットも揃った、これで独立へ向けて残された最後のピースはテレビ局だけとなったが、既に水面下で動き出しており、ピンクレディーや柏原芳恵が所属していた『ソーマプロダクション』を通じてTBSと交渉開始し、ジャパンプロレスとのビジネスのために制作企画会社も設立し2年契約を交わしていた。
同年12月15日の日曜夜7時半、90分の特番枠でジャパンプロレスの特番を放送、12月31日にはNHK『紅白歌合戦』の裏番組としてTBSで「格闘技大戦争」を放映して長州の異種格闘技戦を計画、既にヒトのルートで対戦相手としてパワーリフティング82年世界大会優勝のトム・マギーを用意していた。年明けの1986年3月に夜7時半から90分枠の「GOGOサンデー」で1回放送、4月からレギュラー放送開始と具体的なプランは既に完成していた。

そして大塚氏は9月10日、11月12日にジャパンプロレス主催で両国国技館大会の開催を発表、その場でプレ・オールスター戦の計画していることを明かす、このプレ・オールスター戦は、ジャパンプロレスより先に独立している第1次UWFの参加を想定したものであり、この年の2月18日には小林邦昭が新倉史祐がUWF後楽園大会を視察、3日後のジャパンプロレス大阪城ホール大会を藤原喜明と高田延彦が視察し、大塚氏が会見した翌日にはハリケーンズが視察するなど、UWFとの絵作りも着々と進行していた。UWFもスポンサーがついて軌道に乗るかと思われたが、スポンサーは純金ペーパー商法の豊田商事の関連会社で、豊田商事の会長だった永野一男が殺害されると豊田商事も倒産して関連会社も破産に追い込まれ、UWFは一転して経営が苦しくなっていた。
大塚氏は会見の場で「ジャパンプロレスの自主興行は来年100試合を開催、100試合となれば全日本プロレスとは別々に興行することになる」と事実上全日本プロレスからの独立を宣言する。全日本プロレスも10月からゴールデンタイムに復帰が決まっていたが、日本人中心路線から豪華外国人路線への転換を図っていた。全日本プロレスはジャパンプロレスと提携を結んだとしても、選手が膨大に多くなりすぎて経費がかかって利益が上がっていないのが現状で、ハリケーンズも全日本プロレスに抱えられない状況だったことから、全日本プロレス的にはハリケーンズと一緒にジャパンプロレスには独立してもらって構わない状況だったからかもしれない。
これでジャパンプロレスが独立するまで秒読み段階に入ったかと思われていた。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.29 GスピリッツVol.29「特集・四天王プロレス」)
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