1981年9月17日、カンザス州カンザスシティにてNWA世界ヘビー級王者だったダスティ・ローデスにリック・フレアーが挑戦、ローデスがブレーンバスターを仕掛けた際にフレアーが体を浴びせて倒し3カウントを奪い、新NWA世界ヘビー級王者となった。
フレアーは少年時代からプロレスファンで、学生時代はレスリングやアメリカンフットボールで活躍、大学退学後はAWAの中にあるプロレスラー養成所である「ガニアキャンプ」に参加、プロレス団体内に自前のジムを持つことは当時のアメリカでは珍しい事で、AWAのボスであるバーン・ガニア自身だけでなく、ビル・ロビンソンからフレアーは指導を受け、1972年にAWAでデビュー、同期にはケン・パテラやアイアン・シーク、ガニアの息子であるグレック・ガニア、ジム・ブランゼルがいたが、当時のフレアーは汚らしい赤毛に下品な口髭、ポッコリと出た腹と冴えないスタイルだった。1973年にAWAの提携ルートで国際プロレスに初来日し、ラッシャー木村と金網デスマッチで対戦、マイティ井上や寺西勇ともシングルで対戦したが全て敗れ、エース外国人が兄貴分だったダスティ・ローデスとディック・マードックだったため格下扱いだった。

1974年にジム・クロケット・ジュニアがプロモートするミッドアトランティック地区へ移すと同地区のタッグ王座とシングル王座を獲得してトップクラスへの選手へと昇りつめるかの矢先に、移動のために乗ったセスナ機が墜落、フレアーは幸い一命をとりとめ背骨の骨折で済んだが、同乗していた先輩であるジョニー・バレンタインは腰と足を折ったため再起不能となって引退に追いやられる。しかしフレアーはこの事故を幸運に変え、リハビリと病院での規則正しい食事のおかげで減量に成功、上半身のボディーを“逆三角形”に変えてしまった。
復帰したフレアーはルックスもあってたちまち女性中心に人気が出ると、同じガニアキャンプ出身のリッキー・スティンボードとの抗争では、ヒールとなったフレアーはファンの興奮を煽るなど存在感を発揮する。フレアーの将来性を買ったクロケットはフレアー売り出しのためにNWA各エリアに送り込み、1978年4月には全日本プロレスに初参戦、この時もエース外国人はマードックだったものの、開幕戦ではタッグマッチの3本勝負ながらジャイアント馬場から3カウントを奪い、4月27日の青森ではジャンボ鶴田の保持するUNヘビー級王座に挑戦、試合は3本勝負で1本目は鶴田がバックドロップ、2本目がフレアーが足四の字固めと1本ずつ取った3本目でフレアーの足四の字固め狙いを鶴田が首固めで3カウントを奪い王座奪取に失敗するも、日本でもフレアーの存在を大きくアピールすることが出来た。しかしフレアーはギャラが稼ぐには遠すぎるということで日本へは二度と行きたがらず、アメリカマットに専念することになったが、アメリカマットに専念もフレアーに大きなチャンスが舞い込むきっかけとなった。
1980年にはクロケットがNWA会長に就任する。この頃の王者はハーリー・レイスで、レイスは1973年にドリー・ファンク・ジュニアを破ってからNWA王座を奪取、1975年にテリー・ファンクを破り再び王座を奪取してから、ローデス、馬場に2度、トミー・リッチに敗れて一旦は王座を明け渡したものの、長期に渡り王座に君臨していたが、さすがに疲れを見え始めていたこともあって次期王者候補を選ばなければならなかった。

次期王者候補にはフレアーだけでなくローデス、リッキー、テッド・デビアス、ディック・スレーター、デビット・フォン・エリックが候補に上がっていたが、スレーターは交通事故の後遺症、リッキーはベビーフェース色は強く、デビットはまだキャリアが浅いとして除外され、フレアー、ローデス、デビアスの3人に絞られたが、一人に絞り切れないため最終的にローデスの再登板となって6月にレイスを破って王者となるも、ローデスでは典型的なベビーフェースで60分フルタイムの試合は難しいため、あくまでショートリリーフだった。

ローデスの後釜はフレアーとデビアスの二者択一となり、クロケットがNWA会長だったことも追い風となったフレアーが次期NWA王者候補となり、9月17日のカンザスでローデスを破り新王者となって、ローデスのスケジュールを引き継いで全日本プロレスに参戦することになった。
日本ではローデスが新NWA王者になったことで、これまでNWA王者を送り込まれなかった新日本プロレスにローデスがNWA王者として送り込まれるのではといわれ、NWAもローデスが新日本プロレスに参戦している以上、NWA王者を送り込むことも避けられないと考えていたが、幸い新日本プロレスはNWAより高い権威とした「IWGP」構想に動いており、NWA王者を呼ぶ気はなかった。
フレアーは全日本プロレス旗揚げ10周年を記念した「’81創立10周年記念ジャイアント・シリーズ」に10月6~9日まで4日間だけ参戦、「’81創立10周年記念ジャイアント・シリーズ」にはフレアーだけでなくレイス、ドリー&テリーのザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー、ミル・マスカラス、タイガー・ジェット・シン、引退を控えたブルーノ・サンマルチノと豪華な布陣を揃えており、フレアーは6日の仙台で天龍源一郎、7日の横須賀ではテリー、9日の蔵前では鶴田と防衛戦を行うことになっていた。本来なら馬場が挑戦すべきところなのだろうが、全日本プロレス内は日本テレビとブッカーとなった佐藤昭雄主導で世代交代を図っており、馬場は既に3度奪取しているとして、NWA王座戦線から退くことになった。

6日の仙台では天龍が挑戦、この頃の天龍は全日本プロレス第3の男として売り出されたばかりNWA王座も初挑戦、試合は3本勝負で1本目はフレアーがブレーンバスターで3カウント奪い先取すれば、2本目は天龍もブレーンバスターで3カウントを奪いタイスコアとなるも、3本目は天龍の串刺しニーを避けたフレアーが足四の字固めで捕らえて天龍がギブアップとなり、フレアーが貫録の勝利を収める。
7日の横須賀ではテリーが挑戦し、1本目はフレアーが足四の字固めでギブアップを奪い選手も、2本目はテリーがスピニングトーホールドでギブアップを奪いタイスコアに持ち込む、しかし3本目になるとテリーがフレアーのダブルアームスープレックス狙いをテリーがリバースして押さえ込み3カウントが入って王座奪取とされたが、フレアーの足がロープにかかっていたため3カウントは無効、怒ったテリーがジョー樋口レフェリーに抗議したところで、フレアーがテリーを場外へ落とし、場外で殴り合って両者リングアウトの引き分けになってしまう。
8日の栃木では国際プロレスから移籍したばかりの阿修羅・原とノンタイトルで対戦し、足四の字固めで完勝した翌日の9日の蔵前では鶴田が挑戦。3年前は鶴田が勝っていることから王座奪取に期待がかかり、1本目は鶴田がダブルアームスープレックスからここ一番で出すジャンボミサイルキックを命中させて先制するも、2本目はフレアーがバックドロップから足四の字固めでギブアップを奪いタイスコアに持ち込む、決勝ラウンドの3本目、鶴田が串刺しドロップキックを狙ったが、フレアーが避けたため鶴田はトップロープに股間を痛打してしまったところでフレアーが押さえ込んで3カウントを奪い3年前のリベンジを果たして王座を防衛し日本を離れた。

日本から戻ったフレアーは、その後デビットの挑戦を受け王座から転落するはずだった。デビットの新王者に推したのは父親であるフリッツ・フォン・エリックだけでなく、NWAの実力者だったサム・マソニックの要望で、王座をフレアー、デビット、デビアスの間でたらい回しにする予定だった。しかしマソニックは愛妻の急死の影響もあってプロモートから勇退してしまい、副会長のジム・バーネットがフレアー政権継続を臨んだためフレアーは続投となった。それを考えると運もフレアーに味方したのかもしれない。
フレアーはNWAの各エリアの挑戦者を退け、全日本プロレスに参戦して鶴田の挑戦を受けたが、1983年6月10日にレイスに敗れ王座を明け渡してしまう。これには事情がありフレアーは全日本プロレスの「83グラウンドチャンピオンカーニバルⅡ」に参戦して鶴田の挑戦を受けるはずだったが、王者として疲れ切っていたフレアーは成田空港に到着するなり、すぐアメリカにとんぼ返りして戻ってしまう。フレアーの行動に怒った全日本プロレスはクロケットに抗議すると、アトランタの空港に戻ってきたフレアーの前にクロケットが待ち構えており、一緒に日本に戻って全日本プロレスに参戦、8日の蔵前で鶴田の挑戦を予定通りに受け、試合か3本勝負で1本目は鶴田のバックドロップを食らって先取されるも、2本目はフレアーが残り時間フルに戦い抜いて引き分けに持ち込み、1-0で敗れながらも2フォールでないため防衛に成功、その2日後にレイスに敗れ王座を明け渡した。
しっかり休養を取ったフレアーは11月24日のアトランタ州グリーンスボロでレイスを破り王座を奪還、1984年5月6日にケリー・フォン・エリックに敗れて王座を明け渡したものの、24日の横須賀で奪還、NWA王座戦線はフレアーの時代となり、全日本プロレスに参戦している間は鶴田さえもNWA王者となったフレアーを破ることが出来なった。

しかしフレアーが王座でいる間は世界のマット界は大きく激変し、WWF(WWE)がNWAを脱退して全米侵攻開始し、NWAの各エリアもWWFに飲み込まれたことでテリトリー制は崩壊、NWA王座は唯一抵抗していたクロケットのWCWの独占となってしまう。そのクロケットもWWFとの興行戦争に敗れ、テッド・ターナーにプロモーションを売却して撤退、全日本プロレスも既にNWAから脱退していたことから、WCWは新日本プロレスと提携を開始、9度目の王者となっていたフレアーは新日本プロレスに参戦し、1991年3月21日の東京ドームで藤波辰爾の保持するIWGPヘビー級選手権とダブル選手権を行い、藤波がグランドコブラでフレアーを破り王座を奪取、フレアーも初めて日本でNWA王座を落としてしまう。ところがメインレフェリーではなく、サブレフェリーのタイガー服部が3カウントを叩いたとしてWCWが王座奪取を認めず、結局藤波はNWA王者として認められるが、それと同時にWCWもWCW世界ヘビー級王座を誕生させ、初代王者にフレアーを任命する。

フレアーは5月19日のセントピーターズバーグで藤波と対戦して王座奪還に成功、奪還してすぐに副社長だったジム・ハードから「古代の剣闘士」キャラチェンジを求められたことでフレアーが怒りWCWから離脱してWWFへと移ったため、NWA王座も剥奪されてしまう。1993年にフレアーはWCWに戻り、バリー・ウインダムを破って11度目の王座戴冠となったが、WCWはNWAから脱退しNWA王座も返上したことで、フレアーがWCW内での最後のNWA王者となった。
2001年にWCWが消滅すると、フレアーはWWEに復帰、WWE殿堂入りも果たした。2022年7月31日、73歳となったフレアーはテネシー州ナッシュビルにて試合を行うことになった。近年のフレアーはWWEから離れ、様々なリングに登場したが試合はしておらずほとんどセミリタイア状態だった。その際にフレアーモデルのNWAベルトを巻いて登場するという。それがフレアーに取って最後の試合になるかわからないが、NWA王者として最後の雄姿を見せることが出来るだろうか…
((参考資料=GスピリッツVol.57「NWA」「リック・フレアー自伝トゥー・ビー・ザ・マン」)
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