1981年の田園コロシアム決戦…イケイケだった新日本プロレス


「プロレスブーム?いや、新日本プロレスのブームですよ。マスコミが公平に報道するというなら、新日本プロレスと全日本プロレスを同じように取り上げるのではなく、力関係をはっきり認識させて、本当の意味で正当に扱ってもらう」

新日本プロレスの営業本部長であり、アントニオ猪木の懐刀だった新間寿氏が発言したもので、1981年に創立10周年を迎えた新日本プロレスは大攻勢をかける年となった中で、創立10周年の一環として9月23日に田園コロシアム大会が開催された。

田園コロシアムは1936年に「田園テニス倶楽部」のメインスタジアムとしてオープン、1956年に日本プロレスが初使用したことをきっかけに野外での常打ち会場となってプロレスファンから馴染みの会場となった。

1981年3月31日に新日本プロレスはIWGPを正式に発足して新間氏が実行委員長に就任、それに伴いNWFヘビー級王座や北米王座などヘビー級関連の王座は全て封印、初代タイガーマスクのデビュー、全日本プロレスからIWGPの趣旨に賛同したということでアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー戸口を引き抜くなど、まさに新日本プロレスは”イケイケ”の状態で、全日本プロレスからの報復でタイガー・ジェット・シンが引き抜かれても大きな影響はなく、猪木を中心とした新日本プロレスは揺るがない人気を誇っていた。

田園コロシアムが組んだのは当時の営業部長だった大塚直樹氏で、これまで田園コロシアムはプロモーターが興行を買う“売り興行”として開催していたものの、観客が入らないため、この年から新日本プロレスの自主興行として開催することになり、自主興行の第1弾として外したくない大塚氏はマッチメーク会議でメインカードの一つとしてスタン・ハンセンvsアンドレ・ザ・ジャイアントのトップ外国人同士の対戦を提案する。ハンセンvsアンドレは新日本プロレスの春の本場所である「MSGシリーズ」の名物カードで、第2回から「MSGシリーズ」に参戦したハンセンは初めてアンドレと対戦し、アンドレ相手に互角以上の戦いを繰り広げていたが、1981年に開催された第4回ではアンドレが右足の負傷で欠場して参戦出来ず、ハンセンvsアンドレも実現しなかった。

マッチメーク会議では誰もがハンセンvsアンドレ実現に難色を示して乗り気になれなかった。理由はリーグ戦でない試合にハンセンvsアンドレを組んでも意味がなく、。共にエース外国人であることから、負けた方は当然、商品価値が落ちてしまう。またハンセンvsアンドレを組まなくても猪木や藤波辰巳(藤波辰爾)、初代タイガーがいることだから、どんなカードを組んでも超満員になるだろうという考えており、田園コロシアム大会も「ワールドプロレスリング」を放送していたテレビ朝日でさえも、野外会場ということで雨天の心配があり中継には乗り気になれなかった。

しかし諦めきれない大塚氏は社長である猪木にハンセンvsアンドレを実現させるように直談判し、猪木も乗り気となって、”鶴の一声”でハンセンvsアンドレが決定となり、テレビ朝日もハンセンvsアンドレが実現するならということでTV中継が入ることになった。

8月21日から「ブラディファイトシリーズ」が大宮スケートセンターから開幕、ハンセンはシリーズにはフル参戦し、またこのシリーズから全日本プロレスから移籍したディック・マードックや戸口もフル参戦、シリーズ途中には参戦していた上田馬之助が突如シリーズから離脱し全日本プロレスへ移る事態が起きるも、シリーズ後半からはアンドレが合流したことで上田が抜けても影響がなく、9月8日の愛知・豊田大会でハンセン&アンドレ&バットニュース・アレンが猪木&戸口&長州力というカードが実現したが、ハンセンとアンドレが同士討ちしたことで仲間割れになり、二人が対戦する伏線を作り上げる。

9月17日の大阪では猪木vsアンドレ、9月18日の広島では猪木vsハンセンが実現、猪木vsアンドレはアンドレのイス攻撃がレフェリーに誤爆して猪木の反則勝ち、猪木vsハンセンは両者リングアウトとなったが、この時にはハンセンは全日本プロレスへ移籍することが決まっており、猪木vsハンセンは事実上ラストとなった。

1981年9月23日 新日本プロレス「ブラディファイトシリーズ」田園コロシアム 13500人

<第1試合 15分1本勝負>
〇荒川真(10分29秒 逆さ押さえ込み)×平田淳二

<第2試合 20分1本勝負>
〇ピート・ロバーツ(12分57秒 エビ固め)×藤原喜明

<第3試合 30分1本勝負>
〇バットニュース・アレン ジム・ドゥガン(8分46秒 片エビ固め)永源遥 ×剛竜馬

<第4試合 30分1本勝負>
〇星野勘太郎 ジョージ高野(13分7秒 体固め)×プラソ・デ・オロ ブラソ・デ・プラタ

<第5試合 30分1本勝負>
〇タイガーマスク(8分51秒 腕固め)×ソラール

<第6試合 IWGPアジア地区予選リーグ 30分1本勝負>
〇坂口征二(9分53秒 リングアウト)×ストロング小林

<第7試合 WWFジュニアヘビー級選手権試合 60分1本勝負>
【第5代王者】〇藤波辰巳(12分0秒 体固め)【挑戦者】×エル・ソリタリオ

<第8試合 60分1本勝負>
▲スタン・ハンセン(8分26秒 両者リングアウト)▲アンドレ・ザ・ジャイアント
◎延長戦
〇スタン・ハンセン(4分22秒 反則勝ち)×アンドレ・ザ・ジャイアント

<第9試合 IWGPアジア地区予選リーグ 30分1本勝負>
〇アントニオ猪木(9分20秒 卍固め)×タイガー戸口

観客は13500人を動員、1977年8月25日、全日本プロレスで行われたジャンボ鶴田vsミル・マスカラスのUNヘビー級選手権では6500人、1978年8月24日のジャイアント馬場&鶴田vsマスカラス&ドスカラスのインターナショナルタッグ選手権で6700人を動員し、新日本プロレスでも1980年に開催されたときでも5500人どまりだったが、この年の動員数はそれらを遥かに凌ぐ記録だった。

第5試合のタイガーvsソラールは、試合中にタイガーの投げで受身に失敗したソラールが脱臼、それでもソラールが意地で反撃して試合は続行させたものの、タイガーは容赦なくキックのラッシュで左腕を攻めてからの腕固めでソラールがギブアップとなり勝利を収める。

第6試合のIWGPアジア地区予選リーグで行われた坂口vsストロング小林は坂口がリングアウト勝ちで勝利、第7試合の藤波vsソリタリオのWWFジュニア選手権は藤波がブレーンバスターで3カウントを奪い王座を防衛する。

そしてセミファイナルでスペシャルシングルマッチとしてハンセンvsアンドレが行われた、実は試合前にハンセンはひそかにアンドレの控室へ訪れ、年内に新日本プロレスから全日本プロレスへ移ることになっていることから、アンドレとの対戦はこれが最後になるとを打ち明けていた。ハンセンとアンドレはMSGシリーズでは何度も対戦していたが、互いにリスペクトしあっており、ライバルとしても認め合う間柄だった。ハンセンは全日本プロレスに移ることはジャイアント馬場と仲介したテリー・ファンクとの約束でトップシークレットとされていたが、アンドレはレスラー同士の仁義は守って新日本プロレスには話さなかった。

試合はアンドレがリングインするなりハンセンが襲い掛かるも、アンドレが18文キックで返り討ち、アンドレは頭突きも、ハンセンはエルボーバットで応戦、串刺し狙いはアンドレがカウンターキックで迎撃してベアハッグで捕らえる。
ハンセンは至近距離のウエスタンラリアットでやっと逃れるも、アンドレはリストロックから腕固めで左腕攻めに出て試合をリードする。
アンドレは串刺しを狙うも避けたハンセンはボディースラムを狙うが、アンドレは許さすハンセンの左腕をハンマーロックからアームロック、ショルダーアームブリーカーと攻めるが、ハンマーロックからブレーンバスターで投げる。
アンドレはショルダースルーを狙うが、蹴り上げたハンセンがボディースラムで投げるもエルボードロップは自爆、それでもすぐ起き上がれないアンドレをハンセンがキャメルクラッチで捕らえて試合の流れを変える。ハンセンのボディースラムは後年アンドレが「オレは本当に気心しれたヤツしかボディースラムを許さなかったけれど、その中でスタンにやられたのは一番効いた、あれだけ完璧なボディースラムをやれたのは、スタンだけだった」、これまで投げられたボディースラムの中で一番だったのはハンセンだったと答えていた。

アンドレはパワーではねのけて脱出も、ハンセンはエルボードロップ、ニードロップを連発して追撃するが、場外戦になるとアンドレはハンマーパンチで反撃、そのまま両者リングアウトとなってしまう。
しかしまだ全てを出し切ってない両者は納得せず、観客もこれからというときに引き分けになったことで納得しなかったため延長コールが巻き起こる。
レフェリーのミスター高橋とアンドレのマネージャーであるアーノルド・スコーラン、新間氏が協議の結果、マイクでミスター高橋が時間無制限での延長戦を行うとアピールし、ハンセンがアンドレに襲い掛かって延長戦のゴングが鳴る。

ハンセンはアンドレに一本背負いからニーアッパーを打ち込み、ロープに固定されたアンドレにナックルを打ち込むも、体を入れ替えたアンドレはフォアアーム、頭突きで反撃する。
ハンセンはアンドレの顔面をコーナーに叩きつけてエルボードロップも、自爆させたアンドレはアームロックで反撃、サーフボードのままで頭突きを打ち込んでいく。
アンドレはボディースラムからジャイアントプレスを狙うがハンセンは自爆させてエルボードロップも自爆、アンドレは18文キックを狙うが避けたハンセンはウエスタンラリアットを炸裂させ、アンドレはたまらず場外へ逃れる。

アンドレはスコーランから手渡されたサポーターを右腕に装着してリングに戻るが、高橋レフェリーはそれは認められないとして制止するも、アンドレはラリアットでKOする。

そこで若手たちが入って高橋レフェリーを快方するも、代わりにサブレフェリーに入った柴田勝久が試合終了のゴングを鳴らし、延長戦はハンセンの反則勝ちとなり、両者は収まりがつかず止めに入る若手相手に大暴れし、ハンセンに至っては若手だった前田明(日明)に八つ当たりウエスタンラリアットを見舞った。反則決着でもスーパーヘビー級のトップ同士の真っ向からのぶつかり合いはファンを大いに満足させた。

メインで行われた猪木vs戸口は猪木が卍固めで完勝も淡白な試合となって盛り上がりに欠け、試合前にラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の国際プロレス勢が登場、木村が「こんばんわ」と挨拶して館内から失笑が起きてしまった。猪木も「セミであんな試合をやられちゃ、何をやっても盛り上がらない!」と、コメントするぐらいハンセンvsアンドレのド迫力な試合に脱帽するしかなかった。

新日本プロレスも田園コロシアム決戦を大成功させたことで、これまでNWF戦をメインに据えるマッチメークから、タイガーから藤波、そしてメインの猪木につなぐ三層高層方式のマッチメークを完成させた。そしてワールドプロレスリングの視聴率もこの日は裏番組である「太陽にほえろ!」は巨人軍の野球中継で放送されなかったこともあって18.9%を記録、野球中継より視聴率を稼いだ。

9月の田園コロシアム決戦の大成功を受けて翌年の8月29日に田園コロシアム大会を開催、タイガーマスクvsブラック・タイガーWWFジュニアヘビー級選手権、アントニオ猪木&ハルク・ホーガンvsラッシャー木村&サージャント・スローターをマッチメークし、10800人を動員も昼開催だったため「ワールドプロレスリング」の中継が入らずノーテレビだった。

1983年8月28日にも田園コロシアム大会が行われ、アントニオ猪木vsラッシャー木村、藤波辰巳&前田明vs長州力&アニマル浜口がマッチメークされ、第1回IWGPでホーガンにKOされ欠場していた猪木の復帰戦ということで13500人を動員するも、タイガーマスクの引退をきっかけに新日本プロレス内でクーデターが発生しており、新間氏が公言した「新日本プロレスのブーム」にも陰りが見え始めた。

1984年、クーデターが失敗したことでクーデター側に立っていた大塚氏も新日本プロレスを退社し、新日本プロレスの興行を請け負う「新日本プロレス興行」を設立、8月26日に田園コロシアム大会を開催するつもりで押さえていたが、新日本プロレスは田園コロシアムを開催しないことを決めると、ジャイアント馬場が接触して全日本プロレスが大塚氏と業務提携を結び、新日本プロレス興行で押さえていた田園コロシアム大会を全日本プロレスで開催する。

田園コロシアム大会には1981年に出場していたハンセンも参戦しブルーザー・ブロディと組んで馬場&ドリー・ファンク・ジュニアと対戦し、引退していたテリー・ファンクを袋叩きにしたことでテリー復帰の伏線を作り、三沢光晴を2代目タイガーマスクに変身させる。馬場と大塚氏が組んで新日本プロレスに大攻勢をかけ、大塚氏が長州力を引き抜くなど、マット界に大きなうねりを起こしたが、田園コロシアムでのプロレス興行はこれが最後となった。

田園コロシアムは1989年に有明コロシアムがオープンしたことをきっかけに閉鎖、同じ年に解体され現在ではマンションが建っているという。有明コロシアムもプロレスや格闘技など開催されたが、2020年の東京オリンピックが終わってから有明アリーナにリニューアルオープンし、2021年10月にNOAHが初進出する。

その有明アリーナのルーツとなった田園コロシアムで行われた激闘の数々は今でも伝説として語り継がれている。

(参考資料=辰巳出版 GスピリッツVol.32「1981年の新日本vs全日本」ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.22「夏の変革」)

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