アントニオ猪木vsカール・ゴッチ、最後の対決①黄金コンビvs鉄人&神様最強タッグ!


1972年3月6日、新日本プロレスは東京・大田区体育館で旗揚げ、メインは猪木の師匠であるカール・ゴッチとシングルで対戦したが、旗揚げ戦に向けて奔走していた猪木のコンディションがベストでなかったのもあって、猪木の卍固め狙いをゴッチがリバーススープレックスで切り返して3カウントを奪い勝利を収め、猪木は旗揚げ戦を勝利で飾れなかった。

10月4日の蔵前国技館大会では猪木はゴッチの所有していた世界ヘビー級王座(初代世界ヘビー級王者であるフランク・ゴッチから受け継がれたベルトとされたが、ゴッチ本人が所持していたオハイオ版AWA世界ヘビー級王座のレプリカで、新日本プロレスが作成したもの)をかけて再戦、レフェリーはルー・テーズが裁いたが、猪木がリングアウト勝ちを収めて王座を奪取するも、10日に行われた大阪府立体育会館での再戦では猪木がキーロックで捕らえた際に、ゴッチにエビ固めで押さえ込まれて3カウントを奪われ王座防衛に失敗、猪木が1勝2敗でゴッチに負け越してしまった。

そして年が明けると、新日本プロレスの状況が変わり、1973年4月から日本プロレスから坂口征二が合流、念願だったNET(テレビ朝日)での全国ネットでのテレビ中継が開始する。そこで東京スポーツがこれからはジャイアント馬場ではなく猪木の時代だと考えた井上博社長が、東京スポーツ主催で新日本プロレスのビックマッチを開催し、4月20日の蔵前国技館を押さえて、猪木&坂口の黄金コンビで大物チームとの対戦を提案、新間寿氏も乗り気となったが、準備期間も少なく、この時点では新日本プロレスも大物外国時選手はゴッチしかいなかったことから、ゴッチにオファーをかけるも、ゴッチは古傷の右膝の調子が悪いためオファーを断り、黄金コンビはジャン・ウィキンス&マヌエル・ソトという2流選手相手となって、黄金コンビも2-0で圧勝するも、黄金コンビの相手には役不足だった。

5月からは無名だったタイガー・ジェット・シンが参戦して話題性もあってトップ選手にまで昇りつめ、ロスサンゼルスのマイク・ラベールとも提携を結んでやっと外国人ルートを確保するも、大物選手はNWAは会員となっていた全日本プロレス、AWAと提携していた国際プロレスが独占していたことから、まだまだ呼べなかった。そこで「ワールドプロレスリング」で解説を務めていた東京スポーツ記者の桜井康雄が「ゴッチとテーズを組ませて黄金コンビと対戦させてはどうでしょう」と井上社長に提案すると、井上社長も乗り気となり、猪木と新間氏にも相談して早速実現へと動いた。

テーズとゴッチはテーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座を巡って何度も死闘を繰り広げたが、互いにシングルプレーヤーだったこともあって1度もタッグを組んだこともなく、タッグを組ませようという物好ききもいなかった。今回は新日本プロレスでなく、主催者である東京スポーツがテーズとゴッチにオファーをかけることになり、新日本プロレスを通じてオファーを受けたゴッチは了承したものの、肝心のテーズは消息を絶っていた。

そこで桜井氏は同じ東京スポーツの記者の山田隆氏に相談する。山田氏は全日本プロレス番記者であり、日本テレビでは「全日本プロレス中継」の解説を務め、またジャイアント馬場のマスコミ側のブレーンの一人で、馬場のアメリカ遠征の際には帯同してNWAの主要マーケットに出張取材をしていた。山田氏は「テーズの消息ならサニー・マイヤースが知っている」と教えると、マイヤースの連絡先を教えてもらった桜井氏はマイヤースに連絡を取り、テーズの現在の滞在先と新しい連絡先を教えてくれた。

当時のテーズは前夫人との離婚訴訟を終えアリゾナ州フェニックスの自宅を引き払ってからは、57歳になりながらも現役選手として再び旅から旅とサーキットを再開しインドに遠征、その後はアメリカへ戻ってテネシー州をサーキットしており、定まった自宅を持たずにモーテルを常宿にしていた。桜井氏はやっとテーズと連絡に取ることに成功すると、テーズもゴッチとのタッグには若干不満だったものの、現役選手として呼んでくれるならということでオファーを快諾した。

ところが新たなる問題が起きる。それはNWAの外国人ルートを独占する馬場の存在で、テーズと連絡を取れたことが馬場に知られてしまう。山田氏も記者同士の仁義は守って馬場には新日本プロレスが現役選手として呼ぶことは知らせていなかったのだが、テーズを探しているうちに馬場の耳に入ってしまったのかもしれない。馬場から「何か奇妙な動きをしてませんか?セントルイスに電話しませんでしたか?」と問い詰められる。桜井氏は「テーズとコンタクトしたいだけですよ」としか答えず、馬場も「ああそうですか」で終わった。桜井氏も東スポ主催で黄金コンビvsテーズ&ゴッチを実現するとは馬場にも言えず、馬場にしてもテーズはピークが過ぎているから新日本プロレスが呼ぶとしても、また特別レフェリー程度だろうとしか考えてなかったのかもしれない。

9月11日に猪木の口から正式に10月14日の蔵前国技館大会で猪木&坂口vsテーズ&ゴッチが行われることが発表され、10月12日にゴッチが来日すると、すぐさま「闘魂シリーズ」最終戦が開催されている横浜文化体育館大会に来場、これはゴッチが試合を視察したいと申し入れたもので、ゴッチはセミファイナルに試合をする猪木の前に登場してファンに挨拶した後で、猪木と握手を交わし、大会が終えた約1時間後にはテーズも日本に到着した。

翌朝の7時にゴッチとテーズが新日本プロレス道場に到着、二人の付き人には山本小鉄が買って出た。二人は山本、グラン浜田、木戸修、柴田勝久相手に公開トレーニング、スパーリングを行ってじっくり調整、昼からは新宿の伊勢丹デパートで猪木、坂口と共にサイン会を行い、ここでもテーズは浜田、ゴッチは木戸と公開スパーリングを行ったが、マスコミの注目を集めたのは新日本プロレスをホームにするゴッチではなく、久しぶりに現役選手として試合をするテーズだったが、練習量の多さを見せたのはゴッチの方だった。実はテーズは来日直前で当時のNWA世界ヘビー級王者であるジャック・ブリスコに挑戦、その試合で右肩を脱臼しており、そのことはあらかじめゴッチには話していたことから、ゴッチはテーズに気遣って長くスパーリングを行ったという。

決戦前日もテーズの右肩は痛みが和らいでいなかったことから、ゴッチはテーズと猪木が対戦し、猪木と寝技の攻防となれば右肩に負担がかかるが、立って攻防する坂口の方が負担がかからない、猪木が出たらゴッチが相手になり、坂口が出てきたらテーズが受け持つ、マンツーマン作戦を提案、テーズも猪木と対戦したかったことから反論したかったが、右肩のことを考えるとゴッチの案に妥協するしかなかった。

10月12日の蔵前国技館は12000人超満員を動員、5日前には全日本プロレスがザ・ファンクスvs馬場&鶴田友美(ジャンボ鶴田)のインターナショナルタッグ選手権、ザ・デストロイヤーvsミル・マスカラスのUSヘビー級選手権の2大タイトルマッチが行われ、11000人を動員したが、新日本プロレスは1000人上乗せしたという。俗にいう水増し発表で、この当時は両団体の競争意識もあったことから、こういった水増し発表は当たり前で、今回は主催は東京スポーツだったこともあって、新日本プロレスに配慮した形だった。

8時15分に両チームが航空自衛隊音楽隊の生演奏で入場、入場後は日米国歌吹奏が行われたが、プロレスでは初で、レフェリーもロサンゼルスから名レフェリーと言われたレッドシューズ・ズーガンが派遣されて裁くことになった。

試合もゴッチの指示通りになったのか、猪木vsゴッチ、坂口vsテーズの攻防が中心となり、味方がピンチに陥ってもカットに入らないどころか、合体攻撃や連係もないなど、4通りのシングルマッチとなるが、1本目はテーズが坂口にバックドロップを決めて3カウントを奪い、2本目でダメージの大きい坂口に代わって猪木がテーズと対戦も、テーズが猪木にバックドロップを決めた際に、猪木が咄嗟に投げるタイミングを狂わせて、テーズも後頭部を痛打してしまうと、猪木がドロップキックから坂口に代わってアトミックドロップを決め3カウントを奪い、1-1のタイスコアに持ち込む。

3本目もゴッチが猪木を攻めまくるが、猪木はゴッチから伝授されたジャパニーズレッグロールクラッチで3カウント、タッグながら猪木は師匠ゴッチから初フォールを奪って黄金コンビが勝ち、また東京スポーツ的にも主催興行が大成功に収めたことで、新日本プロレスだけでなく東京スポーツも万々歳となった。

そして猪木とゴッチは約1年後、シングルで再び対戦することになった。(続く)
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.14 『タッグチームの行方』猪木&坂口vsテーズ&ゴッチは新日本プロレスワールドで視聴できます)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。