引退危機のジャイアント馬場を復活させたスタン・ハンセンとの戦い!


1982年1月、全日本プロレスの「新春ジャイアントシリーズ」から新日本プロレスのトップ外国人だったスタン・ハンセンが参戦を果たし、15日の木更津では阿修羅・原を2分25秒で必殺のウエスタンラリアットで3カウントを奪い、全日本移籍初戦を勝利で飾ると、大熊元司、石川敬士、プリンス・トンガ(キング・ハク)など中堅勢を次々とウエスタンラリアットの餌食にして、2月4日の東京体育館でジャイアント馬場の保持するPWFヘビー級王座へと漕ぎつけていった。

ハンセンは1975年9月の「ジャイアントシリーズ」で初来日を果たしていたが、トップ外国人はアブドーラ・ザ・ブッチャーやオックス・ベーカーがいたことから中堅外国人として扱われており、馬場と対戦する機会があってもタッグマッチで4度程度で、馬場の評価も「馬力だけの不器用なレスラー」で決して高いものではなかった。

初来日後のハンセンは「日本帰りは出世する」とジンクスの通り、WWWFではブルーノ・サンマルチノの首を骨折させたとして悪名を高め、新日本プロレスではアントニオ猪木だけでなくアンドレ・ザ・ジャイアントと死闘を繰り広げるなど、一躍トップ外国人選手として君臨し、商品価値が高まったところで、全日本プロレスがハンセンを引き抜いたのだ。

この頃の馬場は全日本プロレスの経営危機の責任を取り、日本テレビから派遣された松根光雄社長による新体制が成立したことで会長に棚上げされ、松根社長は馬場に対して引退勧告をすると、ブッカーとなった佐藤昭雄主導でジャンボ鶴田、天龍源一郎へ世代交代を迫っており、馬場に引退の二文字がちらくつくようになっていた。

会場となった東京体育館は馬場vsハンセンを見たさに超満員となったが、これは1月28日に新日本プロレスが同じ会場で行ったアントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャーが期待外れの凡戦に終わったことで、その反動で馬場vsハンセンの期待の大きさもあったが、猪木さえ苦戦したハンセンに、ピークが過ぎたと言われた馬場は勝てるのか疑問視するファンも多くいたことも事実で、「馬場はハンセンに半殺しにされるんじゃないか?」と言うファンもいた。しかし、馬場は「年間ベストバウトを取ってみせるよ」と当時マスコミ側のブレーンの一人だった竹内宏介に公言するなど、vsハンセンに絶対的な自信をもって臨んでいった。

開始から両者はぶつかり合いも、馬場がいきなりカウンターで16文キックを放って機先を制し、ハンセンの逆水平をいなした馬場は張り手から再び16文キックも、ハンセンも負けじとハンマー、エルボースタンプ、ニーリフト、エルボーバットからスリーパーと反撃する。
ハンセンはヘッドロックへ移行すると、馬場は河津掛けで倒し、ジャンピングアームブリーカーからハンセンの左腕を全体重を乗せて踏みつけるなど、左腕攻めでウエスタンラリアット封じに出る。

この攻撃を嫌ったハンセンは馬場を蹴り上げて再びスリーパーも、馬場はロープへ押し込み、エルボーを放ってくるハンセンに脳天チョップからショルダアームブリーカーを連発、ハンセンも足を取ってレッグロックも、馬場は脳天チョップを浴びせ、これも嫌ったハンセンは馬場の左足にニードロップを連発からレッグロックも、馬場はハンセン腕十字で切り返して再び左腕攻めに出て、ショルダアームブリーカーもハンセンがサミングで逃れる。
馬場は脳天チョップを浴びせるも、ハンセンはエルボーバットで返し、馬場は場外へ逃れ、試合を再びリセットさせてリングに戻り、ハンセンはベアハッグから丸め込み、レッグロックを狙うが、馬場はヘッドシザースで捕らえてからアームバーで左腕を攻め、逃れたハンセンはストンピングからニー、頭突きを浴びせるも、馬場はハンセンの左腕にチョップを乱打する。
ハンセンは延髄斬りからボディースラム、エルボードロップも、馬場は脳天チョップで返してから32文キックで応戦、ハンセンもショルダースルーですぐ反撃してウエスタンラリアットを炸裂させるが、ロープ際だったため馬場はすぐ場外へ逃れ、場外戦では馬場がハンセンの左腕を鉄柱に叩きつけてダブルチョップを浴びせる。

そこでジョー樋口レフェリーがリングに戻るように指示するために割って入ると、二人は間に入る樋口レフェリーを巻き込む形でKOしてしまい、先にリングに戻ったハンセンはエプロンに上がる馬場を攻めるが、試合収拾不可能と判断した小鹿と大熊が制止に入るとハンセンは二人をラリアットでKOしたところで、サブレフェリーの和田京平レフェリーが試合終了のゴングを鳴らし、裁定は両者反則の引き分けで馬場の防衛、ハンセンは馬場にエルボードロップを狙うが、避けた馬場は16文キックで返り討ちにして、ハンセンは通路に下がりロングホーンポーズを取って退散、開始当初はハンセンへの声援が多かったが、いつの間にかハンセン相手に奮闘する馬場への声援が圧倒的に多くなっていた。

馬場も対戦した後でハンセンを「セオリー無視かと思ったら、意外とセオリー通りに来るんだな」と評した。ハンセンもザ・ファンクスの門下だったことから、しっかりプロレスに対するセオリーはしっかり出来ており、ブッチャーに代わる手の合う相手に巡り合えたことを感じていた。ハンセンも後年「年齢的な問題もあってコンディション的にキツイ部分もあったが、私と試合することによって、それまで以上に頑張って動いてくれたと思う」と答えていた。馬場も全日本プロレス内部の問題でメンタル的に落ち込んでいたが、ハンセンが自分のライバルとして成長を遂げ、猪木と優るとも劣らぬ好勝負を繰り広げたことで、自信を取り戻して復活を示すことが出来た。馬場にとってハンセンはまさに自分自身への大きなカンフル剤だったのかもしれない。

ハンセン相手に馬場が奮闘し、ファンから支持を受けたことで、佐藤もブッカーの立場で馬場をすぐ引退させることは無理と判断、馬場をしばらく前面に立てつつ、静かに鶴田と天龍への世代交代を図る方向へシフトを変えることを松根社長に進言し、松根社長も馬場が再評価されたことで、全日本プロレスにはまだ馬場が必要であることを認めざる得ず、こうして馬場の引退は回避され、馬場自身が公言した通り、馬場vsハンセン戦もこの年の年間ベストバウトを受賞した。

馬場とハンセンはPWF王座、またノンタイトルで何度も対戦するが、馬場が10月26日の帯広でハーリー・レイスに敗れてPWFヘビー級王座を失ったことで、二人の抗争は一旦小休止する。馬場は翌年の1983年2月にレイスの本拠地であるセントルイスにまで出向いてレイスを破り、PWFヘビー級王座を奪還するが、9月8日の千葉でハンセンと1年ぶりにPWFヘビー級王座をかけて対戦すると、馬場の16文キックを空振りさせたハンセンがウエスタンラリアットを炸裂させて3カウントを奪い、馬場はシングルで初めてハンセンに敗れて王座を明け渡してしまう。

馬場は2度にわたってハンセンに挑んだが王座奪還に失敗し、1984年7月31日の蔵前国技館には再び自身の引退をかけてハンセンに挑戦、馬場はこの一戦に賭ける意味でガウンを大試合にしか着用しない西陣織の勝負ガウンを纏い、入場テーマも「NTVスポーツテーマ」から「王者の魂」に変えて臨んだ。試合も伝家の宝刀であるランニングネックブリーカーまで繰り出していったがハンセンを倒すまでには至らず、ハンセンの反撃を受けるとウエスタンラリアットを食らってしまうが、ショートレンジで手打ちだったことが幸いして馬場はカウント2でキックアウトする。焦るハンセンはボディースラムを狙うが、馬場は首固めで丸め込んで3カウントを奪い王座奪還に成功、馬場健在を見せつけた。

1985年7月30日の福岡スポーツセンターで馬場がPWFヘビー級王座をかけてハンセンと対戦し、馬場は、ハンセンのウエスタンラリアットを食らっても、馬場は場外まで逃れてハンセンの左腕を鉄柱攻撃に叩きつけて、アームバーで捕らえてハンセンの左腕を攻めて追い詰めにかかる。
ハンセンが場外戦でドロップキックを放って先にリングに戻ると、後からエプロンへ上がってきた馬場をロープ越しのバックドロップで投げて3カウントを奪い、ハンセンが再びPWF王座を奪取するが、馬場は再び挑戦することもなく、PWF王座戦線からも撤退して鶴田と天龍にトップを明け渡し、馬場vsハンセンは事実上この試合がラストとなってしまった。この頃のハンセンは全日本プロレスでは欠かせないトップ外国人になって、馬場とは絶大なる信頼関係が結ばれていたことから、馬場が自身の象徴であるPWFヘビー級王座をハンセンに明け渡したのも、このベルトを託せるのは自分の最後のライバルだったハンセンしかいないと考えていたからかもしれない。

そして1993年になると「世界最強タッグ決定リーグ戦」が開催されたが、ハンセンと組んでエントリーしていたテッド・デビアスが負傷で途中帰国してしまうと、デビアスの代役としてリーグ戦にエントリーしていなかった馬場が急遽ハンセンのパートナーとなってエントリーを果たし、ライバル同士のドリームタッグということでリーグ戦の台風の目になって大きな話題を呼んだ。

1999年に馬場がなくなっても、ハンセンは全日本プロレスに参戦し続け、三沢光晴らが去っていっても、ハンセンは全日本プロレスに参戦し続けたが、2000年11月に引退、20021年1月の東京ドーム大会では引退セレモニーが行われ、引退後もPWF会長に就任、退任するまで全日本プロレスに携わり続けた。

ハンセンは全日本プロレスに移籍した理由は「ブルーザー・ブロディと再び合体すれば、良いビジネスになるだろう」と答えていた。しかし、ハンセンにとって全日本プロレスはビジネスを越えた関係になってしまっており、全日本プロレスもハンセンに絶大なり信頼を置いた。1982年にハンセンが全日本プロレスへ移ったのはハンセンにとってベストの選択であり、また運命でもあった。

(参考資料 辰巳出版 GスピリッツVol.27 特集 スタン・ハンセン)

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