1967年10月31日の日本プロレス、大阪府立体育会館でジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲がインターナショナルタッグ王座に挑戦することになった。
インターナショナルタッグ王座は初代王者はアル・コステロとロイ・ヘファーナンの名タッグチーム、ザ・カンガルースが初代王者となっているが実際は日本プロレスとWWAが共同製作された王座だった。日本プロレスには既にアジアタッグ王座があったが、おそらく日本プロレスも馬場がインターナショナルヘビー級王座を保持していたことから、タッグ王座も必要と考えて製作されたと見ていいだろう。1966年11月5日の蔵前国技館大会で馬場と吉村がアジアタッグ王座をかけて王者だったフリッツ・フォン・ゲーリング、マイク・バドーシス組とダブルタイトル戦を行って、馬場組が勝利を収めて王座奪取に成功したことをきっかけに、インターナショナルタッグ王座は日本に定着、アジアタッグ王座は返上され2番手のタッグ王座となっていった。
馬場&吉村は6度に渡って王座を防衛して保持し続けたが、1967年10月6日に福島でビル・ワット&ターザン・タイラー組との防衛戦で馬場&吉村が敗れて王座から転落、31日の大阪で再戦が組まれることになったが、吉村がワットのオクラホマスタンピートを食らった際に肋骨を負傷してしまう。そこで吉村は馬場のパートナーの座を猪木に譲り渡すことになったが、これまでBI砲も何度も組んで看板チームになりつつあったことから、現場責任者も兼任していた吉村も、このタイミングでBI砲に挑戦させようと考えて一歩引いたのかもしれない。

選手権は3本勝負で行われ、1本目はBI砲が反則勝ちとなり、2本目はタイラーが馬場から3カウントを奪ってタイスコアに持ち込むも、3本目は猪木がタイラーをセーブしている間に、馬場がワットに16文キックを決めて3カウントを奪い、BI砲が念願だったインタータッグ王座を奪取して、日本プロレスの馬場、猪木時代が到来かと思われた。

年明けの1968年1月8日、広島県体育館にてビル・ミラー&クラッシャー・リソワルスキー組相手に初防衛戦が行われる予定だったが、大会前日に猪木が帰京し、当日に広島へ戻るはずが大雪のため飛行機が飛ばず、試合開始に間に合わないため欠場せざる得なくなってしまう。選手権は返上となって馬場は吉村と組んで王座決定戦に臨むも、引き分けで空位のままとなった。猪木が帰京した理由は当時夫人だったダイアナ夫人が急病となったためだったが、猪木の単独行動によるタイトルマッチ欠場はマスコミだけでなく、日本プロレス側も痛烈に非難された。
しかし、単独行動をとったのは猪木だけではなかった。17日に大木金太郎が突如日本プロレスに辞表を提出する。大木はグレート東郷の誘いを受けており、当日の国際プロレス仙台大会でTWWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズに挑戦状を出そうとしていた。国際プロレスは1月3日から念願だったテレビのレギュラー放送を開始していたが、エースと期待していたグレート草津がテーズに惨敗を喫し、続けてサンダー杉山も挑戦したが完敗、挑戦するのは豊登しか残っていなかったことから、東郷は日本プロレスで浮いていた大木に眼をつけた。大木はアメリカ武者修行時代に1964年にテキサス州ヒューストンでNWA世界ヘビー級王者だったテーズに挑戦しており、テーズ相手にセメントを仕掛けて頭突きを乱打を浴びせたが、怒ったテーズはナックルの連打を浴びせて大流血に追い込み血祭りにあげ、顔面を24針縫う重傷を負わせたが、テーズも大木の度胸を大きく買い、大木も力道山同様テーズを大きく尊敬していた。大木にしてみれば師匠である力道山がテーズを破ってインターナショナルヘビー級王座を奪取したように、自身もテーズを破ってTWWA王座を奪取し、その足で韓国へ戻って、自分こそ力道山の後継者だとアピールすることが狙いだった。
辞表を出した大木は仙台へ向かい、東郷も豊登ではテーズには勝てないと見越して大木に「敗れた日プロ時代の先輩・豊登の敵討ちで挑戦をする」と挑戦をアピールさせるつもりだった。ところが会場入りしているはずのTBSの意向で大木は登場せず未遂に終わる。実は日本プロレスは人を通じてTBSの動きを封じにかかり、在日韓国人組織のトップとスポーツニッポンの宮本義男社長に、大木の国際プロレス登場にストップをかけることを依頼していた。日本プロレスにとって大木は自分勝手な行動で団体内の秩序を乱して冷遇してきたが、日本プロレスのNo.3的存在を国際プロレスに引き抜かれることは沽券にかかわることだった。スポーツニッポンとTBSは同系列だったこともありさすがに従わざる得ず、大木も大物たちからストップがかかったことで大木のテーズへの挑戦どころか国際プロレス登場も断念し、大木も辞表を撤回して25日の福岡大会から復帰するも、18日になると東京へ戻った東郷を日本プロレスのレフェリーだったユセフ・トルコと松岡巌鉄が襲撃をかけて東郷を殴り警察に連行される事件が起きる。東郷は日本プロレスを去る際に「今後、日本のプロレス界に関わらない」と約束しながらも、国際プロレスに関わった時点で約束を破られており、大木をも引き抜こうとしたことから、日本プロレスも制裁の意味を込めてトルコに東郷を襲わせたのだ。
これを受けて日本プロレスはアジアヘビー級王座を復活させることになった。アジアヘビー級王座は生前に力道山が保持していた王座で、インターナショナルヘビー級王座を奪取してからは二線級の選手相手に防衛をしていた。早速大木は地元韓国でキラー・バディ・オースチン相手に王座決定戦を行い王座奪取に成功、大木も猪木より先にシングル王座を奪取したことで満足し、馬場、猪木に次ぐNo.3の座に留まることになった。

2月3日の大田区体育館で猪木は馬場とのBI砲でミラー&リソワルスキーとインターナショナルタッグ王座決定戦に臨み、猪木のセコンドには当時日本プロレスのコーチとして招かれていたカール・ゴッチが着いた。試合も1-1のタイスコアの後で猪木がコブラツイストでミラーからギブアップを奪い、BI砲がインタータッグ王座を奪還して、試合後に広島での不祥事を謝罪、これで正式に日本プロレスは馬場、猪木時代の到来となった。
BI砲はインタータッグ王座を11度にわたって防衛し長期政権を築くが、1969年に入ると強豪チームが挑戦するようになり、1月3日の蔵前大会でダニー・ホッジ&ウイルバー・スナイダー組の挑戦を受け、1-1の後で時間切れ引き分けとなるも、9日広島で行われた再戦では馬場がスナイダーから3カウントを奪われ王座から転落してしまう。2月4日に札幌で行われた再戦ではBI砲が王座奪還に成功も1本目がBI砲の反則勝ちだったことからホッジ組の抗議で、11日の秋田で再々戦が行われ、3本目で猪木が新必殺技・卍固めでスナイダーからギブアップを奪い、ホッジ&スナイダー組との抗争に決着をつけた。

しかし、8月になるとリソワルスキーがディック・ザ・ブルーザーを引き連れて挑戦する。ブルーザーとは1963年から組んでいる仲でAWAタッグ王座も4度に渡って保持したことがある強豪チームで、リソワルスキーもミラーと組んでBI砲に挑んだが、ブルーザーもハーリー・レイスと組んでBI砲に挑んで敗れていることから、今度は本来のパートナーと組んでBI砲に挑んできたのだ。
ブルーザー&クラッシャーのブルクラは1週間だけという特別参加扱いで参戦したが、8・8横浜でのノンタイトル戦では3本目でブルクラが反則負けとなって2-1でBI砲が反則勝ちとなるが、内容的にはブルクラに蹂躙されっぱなしで大苦戦を強いられ、11日の札幌ではインターナショナルタッグ王座をかけて再戦するも1-1の後の3本目で猪木が場外でリソワルスキーにKOされてしまうと、残った馬場もブルーザーのニードロップからのボディープレスを食らって3カウントを奪われ、インターナショナルタッグ王座を明け渡してしまう。

ブルーザー&クラッシャーが帰国するまであと2日の13日、大阪府立体育会館で再戦が行われ、1本目は両者リングアウトとなるも、決勝ラウンドの3本目ではリソワルスキーのメリケンサック攻撃に流血した猪木がリソワルスキーを卍固めで捕らえ、馬場もブルーザーをセーブ、リソワルスキーはギブアップとなり、BI砲は海外流出寸前でインターナショナルタッグ王座奪還に成功した。
1969年7月からNET(テレビ朝日)も日本プロレスの中継を開始、日本テレビとの取り決めで馬場は出ることがなかったが、代わりに猪木をメインとしたため、猪木は日本テレビとNET双方に出ることから一気に露出度を挙げ、次第に馬場と同じ地位にまで押し上げていくが、馬場が日本テレビ、猪木がNETとバックが着いたことでが派閥を形成するきっかけとなり、そのためかBI砲として組んでいく回数が減っていくが、それでも馬場と猪木は仲が悪いわけでなく、BI砲としても組んでいても息の合ったコンビネーションを見せていった。
ところが12月7日のザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)との防衛戦に敗れると12月13日にクーデター事件が起き、猪木は首謀者ということで日本プロレスから追放され、BI砲は結局周囲の思惑によって解散となってしまう。
その後は猪木が新日本プロレス、馬場が全日本プロレスを旗揚げし、互いに団体を率いたことで競争相手となり、猪木がしきりに馬場に挑戦をアピールして、馬場が避けることで、二人の仲は険悪なのではと思われ、「プロレス大賞」の表彰式でも馬場と猪木が出席することになると、周囲は”猪木が馬場に襲い掛かるのでは”と憶測が流れて周囲がピリピリしていたが、いざ二人が並ぶと和気あいあいとしたとしていた。
1979年8月26日、新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの三団体が一堂に会した『プロレス夢のオールスター戦』ではBI砲が復活、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンの極悪コンビ相手に息の合った連係を見せた。

その後も馬場と猪木はプロレス界の首領として君臨、時には敵対し、また時には利害関係が一致すると協力し合うなどマット界の秩序を守り続けた。
1998年に猪木は現役を引退するが、馬場は1999年1月31日に馬場が死去、平成になってからは新日本プロレスはブシロードの傘下となってからは企業プロレス時代へと突入、こうして馬場と猪木の時代は時代と共に過去のものとなっていった。
2021年9月、新たに生まれた日本プロレス殿堂によって馬場と猪木が殿堂入りが発表され、猪木は闘病のリハビリで出席できなかったが、ビデオメッセージでの元気な姿を見せスピーチの後で1・2・3ダーを披露した。
日本プロレスは猪木さえ野心を抱かなければ、このままずっとB.I砲を存続されたかったと思う。しかし馬場と猪木の間で派閥が出来てから、二人は別々の道を歩まざる得なくなった。馬場も日本プロレスが猪木を押すのであれば、日本プロレスのエースは猪木に任せて、再びアメリカへ渡ることを考えていたことから、クーデター事件が起きなかったとしても、遅かれ早かれ二人はタッグを解消して、どちらかが日本プロレスを去っていたのかもしれない。
(参考資料=辰巳出版「東京プロレス」、小泉悦次著「力道山三羽烏」)
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