ジャイアント馬場&アントニオ猪木のタッグBI砲誕生①猪木の日本プロレス復帰と、大木金太郎の力道山襲名問題


1966年3月、日本プロレスの春の本場所「第8回ワールドリーグ戦」に参加する予定だったアントニオ猪木が新団体設立を目指していた豊登に口説き落とされて、日本プロレスから離脱して東京プロレスリングの旗揚げに参加するも、ギャンブル狂で金遣いの荒い豊登と猪木の間で亀裂が生じ、東京プロレスは猪木派と豊登派の二派に分裂する。

1967年になると猪木派は旗揚げしたばかりの国際プロレスに参戦するものの、今度は社長だった吉原功社長とギャラの配分でトラブルが起き、猪木派は旗揚げシリーズに参加するだけで離脱し、上がるリングを失ってしまった。

猪木の状況が厳しくなったところで日本プロレスが猪木復帰へと動き出す。元々日本プロレスは裏切り行為に走った豊登など数名の選手は除名処分としながらも、猪木に関しては不問に付しており、社長だった芳の里は「猪木もまだ若いからグラついたんだ」、役員だったジャイアント馬場も「トヨさんの上手い口車に乗せられてしまった」として寛大な態度を取り、馬場もデイリースポーツ記者で猪木番記者である石川雅清の斡旋で猪木と紙面で対談するなど復帰へも道筋を作っていた。

猪木は石川記者を仲介にして芳の里に日本プロレスに復帰を働きかけた。猪木にしても日本プロレスに頭を下げて復帰することは屈辱でもあるが、上がるリングを失っただけでなく、東京プロレスでの負債を抱え、選手も面倒を見なければならないことを考えると大きく妥協するしかなかった。

石川記者からアプローチを受けた芳の里は最初こそは迷ったものの、石川記者の仲介で猪木と二人だけで合うと話はまとまり復帰が認められた。「第9回ワールドリーグ戦」開幕前の合同練習がマスコミの前で行われると猪木が突然現れて合同練習に参加、マスコミも猪木がサプライズで参加したことで騒ぎ立てるも、最初こそは猪木も馬場たちに溶け込めずに一人で練習していたが、上田馬之助が笑顔で「猪木さん、久しぶり!一緒に練習しようよ」と誘ったことがきっかけとなり合同練習の輪に加わり、4月6日に日本プロレスコミッショナーで自民党副総裁だった川島正次郎の立会で日本プロレスへの復帰が発表された。

この頃の日本プロレスは豊登が追放後は馬場がエースとして君臨していたが、ベテランの吉村道明はピークが過ぎつつあり、柔道日本一である坂口征二を即戦力ルーキーとして獲得に成功していたが、実戦に投入するにはまだ時間が必要とされていた。また国際プロレスがTBSと組んで猪木とヒロ・マツダを中心として中継する計画を伝わっていたことから、国際プロレスに先手を打つために猪木の復帰を認めたのだが、大木金太郎だけは猪木の復帰を歓迎していなかった。大木は猪木が東京プロレスへ移籍してからは馬場に次いでNo.2の存在となり吉村と組んでアジアタッグ王座も保持していたが、猪木の復帰が決定すればNo.2からの降格も目に見えていたからだった。

猪木には多額の契約金が支払われたとされているが、猪木の条件は全て飲んだわけでなく、猪木は東京プロレスの選手を全員引き取ってほしいと交渉していた。だが豊登から直に誘いを受けていた斎藤昌典(マサ斎藤)、木村政雄(ラッシャー木村)などは除名処分とされていたことから拒否され、猪木もせめて素質があると見込んでいた寺西勇だけでもと交渉したが、最終的には猪木は永源遥、柴田勝久、北沢幹之しか連れていくことしかできなかった。北沢も豊登から直に誘いを受けていた一人だったが、芳の里や遠藤幸吉からも可愛がられており、北沢ならということで復帰が認められた。残りの選手たちは猪木は海外を含めて様々な伝手を頼ったが、木村と寺西を含めた残りの選手たちは豊登と共に国際プロレスに参加することになった。しかし、猪木ら数人の選手だけが日本プロレスに戻ったことで、選手らの間では猪木に捨てられたと思い込む者が多く、このことが後に猪木と木村の間で禍根を残すことになった。また斎藤だけは海外志向が強かったこともあってアメリカへ行くことになり、猪木も斎藤の素質を大きく買っていたことからロスアンゼルスで日本プロレスの外国人ブッカーを務めていたミスター・モトを紹介して海外への道筋を作った。

翌4月7日に「第9回ワールドリーグ戦・前夜祭」が後楽園ホールで開催され、この日は日本テレビの生中継が入っていたこともあって、猪木も登場して復帰を改めて発表して挨拶し、ファンも声援で大歓迎した。その後でリーグ戦参加選手による入場式が行われたが、参加選手の一人であるワルドー・フォン・エリックが馬場に襲い掛かるハプニングを起こす、場外でワルドーに痛めつけられる馬場に控室へ戻っていた猪木が颯爽と現れてワルドーに殴りかかり馬場を救出したが、馬場もワルドーに敢えて痛めつけらることで復帰した猪木に花を持たせた。

猪木はリーグ戦には参加せず、1月から試合をしていなかったこともあってカナダのバンクーバーで調整することになるが、実は猪木が当時の夫人だったダイアナ夫人を日本に迎える準備もしていたという。猪木は調整しながら海外で試合をすることもなっており、5月20日に帰国する予定だったが、僅か3週間で帰国命令が下されてしまう。理由は日本ではリーグ戦に参加していた大木が地元韓国でWWA世界ヘビー級王者のマーク・ルーインに挑戦することが決定し、朴大統領も観戦することになったことから、突然リーグ戦を放棄して韓国へ戻ってしまったからだった。大木は力道山襲名を日本プロレス側に求めており、この時の社長だった豊登は「世界、もしくは準ずるタイトルを奪取した場合」と条件を出していた。WWA王座はかつて力道山も巻いた世界タイトルで奪取し力道山を襲名すれば、猪木どころか馬場さえ飛び越えて日本プロレスのNo.1に立てる。大木にしてみればワールドリーグ戦に優勝するよりWWA王座を奪取する方がトップへの近道だと考えての行動だったが、さすがの日本プロレスは大木の独断的な行動に怒るのを通り越して呆れるしかなく、またリーグ戦も日本陣営が期待されていた上田が不振で、中心が馬場と吉村しかいなかったことから、リーグ戦には参加が出来ないものの特別参加として猪木に日本へ戻ってもらうしかなかった。

5月5日の鳥取大会から猪木は特別参加として「第9回ワールドリーグ戦」に参戦、大木は表向きは一旦韓国へ戻った際に交通事故に遭い負傷して欠場と発表されたが、マスコミは大木の無断欠場した理由を知っていたことから苦し言い訳であることはわかっていた。12日の岐阜では遂に馬場とコンビを組んでワルド―&マイク・デビアス組と対戦、試合は3本勝負で馬場&猪木が2-0のストレート勝ちを収め、この大会はテレビ用に収録されて放送された。これが馬場&猪木の名タッグであるB・I砲の誕生だったで、二人のタッグ結成がきっかけとなって、日本プロレスは再び爆発的な人気を呼ぶも、この時は馬場は吉村を正パートナーとしており、インターナショナルタッグ王座を保持していたことから、本格的に組むことはなく、猪木は吉村と組んで大木が返上(剥奪)したアジアタッグ王座決定戦に臨んでワルド―&マイク・アーキンス組を破って奪取するにとどまっていたが、さすがの猪木も出戻ったばかりだったこともあって、いきなり大きく出ず敢えて控えめにしていた。

一方の大木は4月29日の韓国・ソウルでルーインを破ってWWA王座奪取に成功したが、日本に戻ることはなかった。日本では「ワールドリーグ戦」の最中で、また無断欠場した大木も負傷欠場とされたことから出場させるわけにはいかなかったからだった。おそらく大木も力道山襲名を芳の里を求めたと思われるが、日本プロレスにしてもリーグ戦を無断欠場した大木を団体内の秩序を乱したとして許すわけにはいかず、日本プロレスは力道山の抱えた負債を巡って力道山家とは絶縁状態になっていたことから、大木に力道山を名乗らせると力道山家からのクレームどころか、秘密とされていた力道山家との絶縁も公になるため襲名は認めることは出来ず、また馬場と猪木の序列も崩すわけには出来ないことから、力道山襲名は時期尚早を理由に反故にした。

WWAは王座を奪取した大木にロスサンゼルスにまで来て防衛戦をするように要求したが、大木は日本プロレスが作った欠場理由である「交通事故による負傷」を大きく利用してロスサンゼルスでの防衛戦を拒否したことから、WWAが王座”回収”に乗り出す。WWA側も遂に王座剥奪を示唆したことから、大木も渋々ロスサンゼルスまで遠征に出ざる得なくなり防衛戦をこなすも、7月14日にマイク・デビアスとの防衛戦の際にカール・ゴッチの介入を受けて敗れて王座から転落した。ゴッチの介入には日本プロレス側の意図もあったことから、日本プロレスもこれ以上、大木にWWA王座を巻かせることは後々大きなトラブルに発展し、また外国人ブッカーであるモトの顔まで潰すことから、ゴッチを使ってWWA王座を大木から”回収”させたと見られている。これで大木の力道山襲名の夢も経たれてしまった。

そして10月31日の大阪府立体育会館で猪木にビックチャンスが巡ってくることになった。

(参考資料=辰巳出版「東京プロレス」、小泉悦次著「力道山三羽烏」)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。