1981年8月9日、北の果て羅臼に消えた国際プロレス②活動停止から40年…


国際プロレスの中継は1981年10月4日から土曜日8時の枠に移行し、その第1弾として滋賀県近江八幡大会を特番として中継、カードも大木金太郎vsエドワード・カーペンティアのインターナショナルヘビー級選手権、ラッシャー木村vsビック・ジョン・クインのIWA世界ヘビー級選手権、マイティ井上&アニマル浜口vsアレックス・スミノルフ&USSRのIWA世界タッグ戦が組まれたが、カーペンティアが来日中止となってしまう。国際プロレスもこの頃になると外国人選手の発表されても、土壇場でキャンセルする選手も多くなり、それが当たり前のようになっていった。大木の相手は新日本から派遣された上田馬之助に変更になったがカード的に弱く、視聴率も4.5%と惨敗、それ以降は視聴率は3~4%と低視聴率が続いてたことで、東京12チャンネルも移行早々に打ち切りを決定し、大木も契約を更新させえてもらえなかったため国際プロレスを離脱、12月13日に新日本プロレスの東京体育館大会にラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇が参戦して木村はIWA世界ヘビー級王座をかけてストロング小林の挑戦を受けたが、この頃の国際プロレスは12月のシリーズの日程を組む余力すらなくなっており、新日本のリングを借りて防衛戦するありさまで、新日本プロレスも国際プロレスとこれ以上提携してもメリットはないと考えたのか、提携も打ち切りとなった。

東京12チャンネルの田中民和プロデューサーも氏も、10月から国際プロレス中継の担当を外れることになったが、可能性を信じてくれた人物も去ってしまったことも打ち切りの要因となった。

1981年3月24日、宮城県泉市民体育館大会で「国際プロレスアワー」の収録が行われたが、この大会をもってTVのレギュラー放送の放送終了が決まっており、28日の放送をもって最終回となったが、レギュラー放送最終回ということでメインではラッシャー木村vsレイ・キャンディのIWA世界ヘビー級選手権が組まれ、木村が勝ってを防衛を果たしたことで有終の美を飾ったが、木村らも最後の収録に複雑な表情を浮かべていた。国際プロレスは起死回生の企画として「ルー・テーズ杯争奪戦」が行われ、予選も終了しており、あとは決勝リーグ戦を待つだけだったが、レギュラー放送の終了で決勝トーナメントすら開催されず、リーグ戦も打ち切りとなった。

テレビのレギュラー放送の打ち切りを受けて吉原社長は「今回の12チャンネルの打ち切りは、TBSから切られたことと状況が異なる」「12チャンネルは放送エリアが狭いし、収録日とオンエアの日が開いているから、興行の宣伝にもなってない」「テレビの放送権料を失ったことはマイナスだが、日本テレビやテレビ朝日と比べて比較にならないほど少ない」「今後1社専属ではなく、地方の複数UHF局とタイアップすることが出来る」「1社と契約を持つと、1年切れ目なくシリーズを組まなければならず、無理があった。今後はテレビを気にしないで思い切ったことが出来る」と強気な態度を取った。

幸い国際プロレスは月1回の特番枠で東京12チャンネルで中継が継続されることになり、僅かながら放映権料も入ることから、その間に吉原社長はフジテレビとの交渉を開始して中継再開に漕ぎつけようとしていたが、フジテレビは「全日本女子プロレス中継」を放送していたこともあって交渉は難航、それでも吉原社長は選手らに「まもなくフジテレビとの中継が開始する」と選手らに説明したが、選手のほとんどがその話を信用していなかった。そのタイミングでヘビー級へ転向してアメリカへ再修業に出されていた阿修羅・原が凱旋したが、6月6日の後楽園大会では1500人と発表されながらも実数が300人程度しか入らないなど団体としては末期症状に陥っていた。

フジテレビとの交渉も断念した吉原社長は団体としてギブアップすることを決め、営業に8月以降の会場の確保をやめるように命じ、水面下でジャイアント馬場と接触、所属選手を全員全日本プロレスへ引き取ってもらう『合併』を持ち掛けたが、この頃の全日本プロレスは新日本プロレスの人気に押されて経営難に陥り、馬場も日本テレビからテコ入れを受けて社長から会長へと棚上げされて、馬場の一存では決められない状況であり「全員引き取るわけにはいかない、一部の選手なら考えます」と返答、それでも吉原社長は馬場に全員引き取ってもらうように頭を下げたが馬場は応じないどころか、2度も面談を求めても馬場がキャンセルしたことで「合併は、馬場君から申し入れた話で、2度も会合をキャンセルしてきたのは不誠実だ」と馬場を批判する。吉原社長も業界の後輩である馬場に頭を下げたのに応じてもらえなかったことでの発言だった。

6月25日に東京12チャンネルは特番として清水市鈴与記念体育館大会を収録、7月16日~8月9日の全13戦という日程で「ビックサマーシリーズ」が開幕、スケジュールとしては四国を周ってから北海道を巡業する日程となっていたが、関係者の間では「今シリーズが最後になるかもしれない」と話が出ていたことから、 「ビックサマーシリーズ」 は決定していた日程を消化するために開催されたものだったのかもしれない。だがシリーズは日程通りにはいかず開催直前でチケットが全く売れてないことを理由に興行がドタキャンする大会もあった。

8月に入ると北海道ツアーに入るが6日の室蘭でIWA世界ヘビー級選手権が組まれ、木村はジ・エンフォーサーと金網デスマッチで防衛戦を行うも、公式発表では2800人も実数では1000人以下で惨敗、試合内容でもエンフォーサーがピークが過ぎたロートルだったこともあって7分で木村が完勝という物足りない結果に終わり、これがIWA世界ヘビー級選手権として最後のタイトル戦となった。

8日の根室の後で9日の野外興行である羅臼町民グラウンド大会を迎えた。当初は羅臼の後は留萌、函館とまわる予定が中止となり、羅臼は実質上のシリーズ最終戦となった。選手たちもこのシリーズで終わりだと話が伝わっている選手もいれば、いつ突然終わってもおかしくないと思っている選手たちもいた。メインイベントを迎えた頃には陽が落ちてメインは鶴見五郎vsテリー・ギブスの金網デスマッチで試合は両者KOに終わったが、国際プロレスとしては最後の試合で、選手らは感慨深げもなく意外とサッパリして次のことを考えており、リングと金網を撤収した後、さっさと羅臼を後にすると、選手らは1980年に亡くなったスネーク奄美の奥さんが札幌に住んでいることから立ち寄ってジンギスカンをご馳走になったが、それが選手らにとって全員揃っての最後のランチとなり、その後は移動バスで丸二日かけて東京へとたどり着き、数日後に選手らが集められ吉原社長から改めて国際プロレスを店じまいすることを告げられた。

東京へたどり着いた選手らは今後の身の振り方を決めるため電話で海外のプロモーターに売り込みをかける者もいれば、デビル紫のように団体が崩壊したら業界を去ろうとマット界から身を引いた者もいたが、この時点で吉原社長は新日本プロレスへ新間寿氏を通じて交渉をしており、9月7日に新日本プロレスと共同記者会見を開き、10月8日の新日本プロレス蔵前国技館で国際プロレスの全面対抗戦との全面対抗戦を行うことを発表、会見には吉原社長だけでなく、木村、アニマル浜口、寺西勇、原の4選手が出席、対戦カードもアントニオ猪木vs木村、藤波辰巳vs原、タイガーマスクvsマッハ隼人、星野勘太郎&剛竜馬vs寺西勇&鶴見五郎、スタン・ハンセン&ハルク・ホーガンvsスミノルフ&バットニュース・アレンがラインナップされたが、吉原社長と新間氏が事前に新日本プロレスに出場するように浜口を通じて木村と寺西には根回し出来ていたものの、原は吉原社長に言われるがままに会見に出席したに過ぎなかった。

そして数日後に国際プロレス選手会ミーティングで吉原社長は選手らに新日本プロレスとの全面対抗戦に出場するように訴えたが、井上を始めとする選手らは猛反発し、アンチ新日本の筆頭格だった井上はゴング編集長の竹内宏介氏の仲介で馬場と面談する。全日本プロレスは国際プロレスが崩壊したと聴きつけるや選手らを吉原社長に通さず一本釣りを始めており、既にトップ外国人選手だったジプシー・ジョーや対抗戦に出場するはずだったアレックス・スミノルフを獲得していた。井上は馬場と交渉の結果、中堅の米村天心と若手だった冬木弘道、菅原伸義と一緒に全日本へ移籍を決め全面対抗戦には不参加を表明、井上にしても吉原社長に旗揚げから尽くしてきたが、義理は果たしたとして吉原社長から離れていった。

井上らだけでなく鶴見五郎やマッハ隼人も海外へのオファーがかかったことで全面対抗戦には不参加を表明し、若手の高杉政彦もメキシコへ行くことが決まっていたことから全面対抗戦には加わらなかった。これで新日本との対抗戦に挑むのは4人だけかと思われたが、土壇場になって原も不参加を決める。原は国際プロレスが潰れたら引退することを密かに考えていたが、井上から原が迷っていると情報を得た馬場が国際プロレス中継で解説を務めていた門馬忠雄氏の仲介で原と面談して口説き落としたことで、原も全日本へ移籍を決め、全面対抗戦に参加したのは木村&浜口&寺西の3人だけとなった。

9月24日、6月25日に収録された国際プロレス清水大会が3ヵ月遅れで東京12チャンネルの深夜枠で団体が活動停止後にやっと放送され、6日後の9月30日には国際プロレスは正式に解散を発表、翌日には東京12チャンネルも社名をテレビ東京と改めたが、国際プロレスが正式に活動停止してからすぐにテレビ東京に社名を改めるとは皮肉めいたものだった、翌年のテレビ大阪が開局したのをきっかけに念願だった全国ネットワークを形成することになった。

国際プロレスの負債2憶5000万を背負った吉原社長は保険のセールスマンに転身したが、1984年2月に胃潰瘍で入院する。退院後は吉原社長と同じ早大レスリング部出身でテレビ朝日の幹部たった永里高平氏の招きで新日本プロレスの顧問に就任、国際プロレスの外国人ブッカーだった大剛鉄之助を新日本プロレスの外国人ブッカーに就任させるなど貢献したが、再び入院し1985年6月に胃癌で死去、国際プロレスが末期になるとと共に酒の量も増えていったことが要因だったという。吉原社長が入院したと聴きつけた国際プロレスのOBらが駆けつけ見舞ったが、吉原社長はベットから飛び降りてスクワットをするなど元気ぶりを見せていた。しかし1985年6月10日に吉原社長は死去、葬儀の日には全日本プロレスに移籍していたラッシャー木村など、国際プロレス出身のレスラーが揃い、木村が「我々はバラバラになってしまいましたが、国際プロレス精神を忘れずに闘っていきます」と弔辞を読み上げた。

後年、田中元和氏が自ら描いた東京12チャンネル主導による新団体「新国際プロレス」構想を掲げたメモが公開され、田中氏が木村を社長にした新団体の構想を練っていたことが明らかになったが、田中構想になかには吉原社長とブッカーだった草津は外れていた。田中氏は”吉原社長は国際プロレスの日本人レスラーで自分より目立つ人間を快く思っていなかった”とみていたが、吉原社長はレスラーであっても、もう現役ではないがレスラー気質は抜けきれておらず裏方には不向きな人間とみており、また国際プロレスは日本プロレスが崩壊してからは業界の老舗であったとしても、それは過去の話で新日本プロレスや全日本プロレスとの差も歴然としていたことから、国際プロレスが崩壊した理由は、吉原社長自身がレスラー気質が抜けきれていないことで裏方には徹しきれず、また業界の先輩、老舗団体という胡坐をかいてしまった結果だと見ていたのかもしれない、田中構想は田中氏が国際プロレス中継の担当を外れたことで結局陽の目を見ることはなかった。

現在国際プロレスで現役を続けているのは崩壊時若手だった高杉政彦だけとなった。今年で国際プロレスが活動休止となって40年となるが、国際プロレスという団体があったことはプロレス史に永遠に残り続ける。

(参考資料=辰巳出版 流智美著「東京12チャンネル時代の国際プロレス」GスピリッツVOl.52「全日本プロレス スーパーレジェンド列伝」)

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