日本プロレス最後のワールド大リーグ戦…馬場が優勝も冷や水をかけられる


1972年3月31日から日本プロレスの春の本場所「第14回ワールド大リーグ戦」が開幕した。出場選手は日本人選手からは前年度覇者のジャイアント馬場を筆頭に大木金太郎、坂口征二、吉村道明、ミツ・ヒライ、星野勘太郎、グレート小鹿、上田馬之助、そしてロスサンゼルスを中心にフリーとして活躍していたマサ斎藤がエントリーし、外国人選手は前年度は馬場と優勝を争ったアブドーラ・ザ・ブッチャー、ゴリラ・モンスーン、ディック・マードック、カリプス・ハリケーン、ホセ・ロザリオ、サルバトーレ・ロザリオ、キラー・ブルックス、マイティ・ブルータス、カナディアン・ランバージャックがエントリーを果たしていた。

ここ数年の「ワールド大リーグ戦」は馬場、猪木を加えたトップ外国人選手との優勝争いが大きな目玉になっていたものの、1971年12月にクーデター事件によってアントニオ猪木が日本プロレスから追放され、大木金太郎が日本プロレスNo.2にランクアップするも、日本プロレスは我が強くて馬場を押しのけてエースの座を狙う野心が強い大木より、将来性を買って坂口に期待していた。斎藤は元々日本プロレスに入団していたが、猪木と豊登が旗揚げした東京プロレスに参加するために日本プロレスから離脱、東京プロレス崩壊後は日本プロレスには戻らず、元々海外志向が強かったこともあってフリーとしてアメリカマットで活躍していた。ここに来て日本プロレスがマサ斎藤を呼び寄せたのは、マサ斎藤がアメリカへ行っても猪木との親しい関係が続いており、猪木が旗揚げする新日本プロレスに参加する可能性が高かったことから、日本プロレスが先手を打つ形で外国人ブッカーでロスサンゼルスでは斎藤を世話をしたミスター・モトを通じて日本プロレスに参加させていた。

外国人側のエースはモンスーンでアメリカではレスリングで活躍した後でジノ・マレラのリングネームでプロレスデビューし、WWWF(WWE)では王者だったブルーノ・サンマルチノに次いでトップ選手として活躍、馬場とはアメリカ武者修行時代からのライバルであり、プライベートでは親友関係だった。日本には1963に来日、第5回と第11回とワールド大リーグ戦に参加、第11回では開幕戦で馬場を破ったことで優勝候補と挙げられていたが、リーグ戦後半から失速してしまって優勝決定戦には進出出来ず、3度目の正直ということでエントリーを果たした。

来日したモンスーンは「これまでのリーグ戦は全て日本人レスラーが優勝してきたことで、外国人レスラーは優勝することが出来なった。その反省を踏まえて今回は我々9人の中から絶対に優勝者を出す」としてリーグ戦参加に向けて9人でチームを結成することで、リーグ戦は軍団抗争の要素を取り入れることを提案する。リーダーはモンスーン、サブリーダーはマードックが就任したが、前年度に優勝争いをしていたブッチャーは表向きは従ってはいたものの、リーダーになれないどころか、サブリーダーに黒人を毛嫌いして折り合いが悪かったマードックが就いたことには大いに不満だったと思う。モンスーンは会見で小切手を披露すると「我々9人で1万ドル(当時のレートで約300万円)を用意した。勇気があるならジャパニーズも同額の金額を賭けてみろ!」と優勝者が出したチームが2万ドルを取る、賞金分捕り戦を要求してきた。

そして代官山での日プロ道場で公開練習が行われ、外国人選手の公開練習の番になり、馬場を始めとする日本陣営が道場内の中2回で偵察していたが、馬場を見つけたモンスーンは改めて馬場に1万ドルを用意しろと要求すると、馬場も「よしわかった!」と事務所へ連絡、経理係が300万円を用意して馬場がモンスーンに叩きつけたことで「第14回ワールド大リーグ戦」は賞金分捕り戦になることが決定した。派手な話題作りをすることを嫌う馬場がモンスーンの挑発に乗ったのは、猪木が抜けただけでなくクーデター事件の影響で悪いイメージが定着してしまい、若干ながらも観客動員が下がっていたこともあったことから、大きな話題を振りまくことでクーデター事件の余波を払拭しようという狙いもあったからだった。

3月31日、後楽園で行われた開幕戦ではモンスーンは大木をベアハッグでギブアップを奪い白星発進し、馬場はブッチャーと対戦し、ブッチャーのセコンドであるキラー・ブルックスの介入を受け、毒針エルボードロップを食らって3カウントを奪われ黒星でスタートしてしまうが、後楽園大会の舞台裏で飛んでもな事態が起きようとしていた。控室では社長である芳の里と、当時日本テレビの運動部長で後に全日本プロレスの社長となる松根光雄氏が会談しており、芳の里は松根氏に対して「4月から馬場をNET(テレビ朝日)に出します」と通告する。日本プロレスは日本テレビとNETの2局で放送されていたが、NETの看板だった猪木が離脱してしまったことで視聴率が低下、それを受けてNETは「馬場を出して欲しい、要請を受けたら放送権料はアップするが受けなかったら放送は打ち切る」と要望書を日本プロレスに要望書を出しており、芳の里も「猪木を追放したのは日本プロレスだから、NETの言い分は筋が通っている」と馬場のNET登場を認めてしまったのだ。これまで日本プロレスの中継を放送してきた日本テレビにしても馬場は出さないという約束をしたからこそNETの参入を認めてきたが、ここに来ての馬場のNET登場は納得できるわけがなく松根氏も日本プロレス側の通告を完全拒否する。後楽園大会の控室でこのことを知らされた馬場も「まさか日本プロレスもNETの要求を飲むとは…」と思わざる得なかった。

日本テレビと日本プロレスとの放送契約は、毎年4月1日付で更新されており、翌年の3月31日まで有効だった。これまでは双方とも10年以上の信頼関係を保ってきたことで、事前交渉もなく自動的に契約も更新され、日本プロレスも高視聴率を稼いでいたことから「ウチが何やっても、日本テレビがテレビ中継を打ち切ることはないだろう」とタカをくくっており、日本テレビも「ワールド大リーグ戦の決勝戦までは放送する」としていたことから、「今後の話し合い次第では中継は継続だろう」と考えていた。ところが放送契約が切れた翌日の4月1日に日本テレビが東京地裁に対して「馬場をNETに登場させない旨の仮処分申請」行い、日本プロレス側に通告する。それでも日本プロレスは日本テレビの通告を無視して4月3日の新潟大会から馬場の試合がNETで生放送させてしまい。日本テレビも日本プロレスの裏切り行為と判断して契約違反として告訴するも、裁判所は「当事者同士で話し合え」と差し戻されてしまった。この事態で馬場も全体会議では「NETを打ち切って、日本テレビ1本に絞るべきだ」と訴えたが、この頃の馬場は猪木のクーデターに加担したとして選手会長を辞任して発言力が低下しており、選手会長も馬場を嫌っていた大木が就任していたこといたこともあって、馬場の発言力を削ぐために選手会の総意としてNETへの放送に賛成しまい、馬場の訴えをを聴く者は日本プロレスには誰もおらず周囲から孤立してしまった。

また日本プロレスと日本テレビ側の問題はマスコミの注目となってしまったことで、せっかく馬場が大きく話題を振りまいた「第14回ワールド大リーグ戦」も蚊帳の外へ置かれてしまい、リーグ戦を盛り上げようとしていた馬場やモンスーンもモチベーションを下げ、またクーデター事件に続いて起きたリング外のドタバタの影響もあって観客動員も低下する。リーグ戦もブッチャーは自身を毛嫌いするマードックに得点では上回ったものの、1位のモンスーンとは1点差で外国人勢では2位に留まり、モンスーンが優勝決定戦に進出、日本陣営も坂口が大木を差し置いて優勝争いに加わるなど大躍進したが、1点差で馬場が優勝決定戦に進出するなど波乱は起きず、予想通りにキャプテン同士の優勝決定戦となり、5月12日に東京体育館で行われ、1-1のタイスコアの後で馬場が逆エビ固めでギブアップを奪い優勝して2万ドルを手にしたが、この大会をもって金曜8時に放送されていた日本テレビの中継は打ち切らることになり、観客動員もワールド大リーグ戦の決勝としては最低の動員数を記録するなど、冷や水をかけられた馬場にとって喜ぶことが出来ない優勝だった。

優勝決定戦の3日後の15日に松根氏が会見を開き正式に日本プロレスの中継を打ち切ることを発表「もっと常識のある社会人かと思ったが、子供みたいな感覚でしかない、もうバカ負けしました」と裏切り行為に走った芳の里を始めとする日本プロレス幹部らを痛烈に批判したが、日本テレビがプロレス中継は諦めておらず、日本プロレスに対して報復計画を開始、日本プロレスの中継が打ち切られた金曜8時の枠は次の番組制作の繋ぎとして日本テレビが放送してきた名勝負集を放送、7月21日から石原裕次郎主演の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」がスタートし、NETも28日に金曜8時の枠で『NET日本プロレスリング中継』を開始したが、放送開始翌日の29日に馬場が会見を開き日本プロレスからの独立を発表する。

馬場も居心地の悪い日本プロレスを離脱し、かつての主戦場だったアメリカへ戻ることを考え始めていたいたが、日本テレビから独立を促されていた。馬場も最初こそは安易に話には乗らなかったが、当時のレスラーは自分のオフィスをもってプロモートすることが一流の証と言われており、交渉で日本テレビがどれだけバックアップするかを聞き出したうえで、自分のオフィスを持てるチャンスだと考えて独立を決意する。馬場も筋を通しておこうとNET側に日本プロレスを離脱する旨を伝え、馬場が本気だと察知したNETも日本プロレスに馬場が離脱することを伝えていたが、危機感を持たない幹部らは、馬場がワガママを言っているとしか考えず、大木にしても”馬場がいなくなったらエースの座は自分に転がりこんでくる”ぐらいにしか考えていなかった。NETが金曜8時にプロレス中継を開始した翌日に主役だった馬場が独立表明をさせるたことは、日本テレビなりの日本プロレスへの報復であり、馬場も危機感を持たない日本プロレスに対して三行半を突きつける意味も込めていた。

まさかと思っていた馬場の独立は日本プロレス側を震撼させ、慌てた芳の里も馬場を慰留するも平行線となり、日本プロレス協会会長である平井義一も調停案として、円満独立は認める代わりに来年の3月末日までNETの中継だけには出場することを提案するが、馬場が拒絶したため日本プロレスからの独立は決定的となり、馬場は出場予定だった第2次サマーシリーズをもって日本プロレスを去っていった。

1972年10月に馬場は独立して全日本プロレスを旗揚げ、これを契機に日本プロレスは衰退し始め、坂口征二が離脱し、新日本プロレスへと移籍するとNETも日本プロレスの中継を打ち切って新日本プロレスに乗り換え、1973年4月に崩壊する。「第14回ワールド大リーグ戦」に参戦した外国人選手もモンスーン、ブッチャー、マードック、ハリケーンらの全日本に参戦、特にブッチャーは常連となって馬場と激闘を繰り広げることでトップ外国人選手へと昇り詰めていった。そしてモンスーンは現役を続けながらも主戦場だったWWFでは役員を務めていたが、WWFが新日本と提携を結んでも、馬場への友誼を優先して全日本に参戦した。1980年にマレラは現役を引退してフロントに専念、ビンス・マクマホン・シニアだけでなく、ビンス・マクマホンの片腕的存在も厚い信頼を受けたことで片腕的存在となってフロントでも活躍したが、1999年7月に腎不全で死去、享年62歳だった。
(参考資料 ベースボールマガジン社『日本プロレス事件史 vol.19 軍団抗争』)

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