豊登からジャイアント馬場へ②豊登失脚!インター王座復活で馬場時代到来へ


力道山の抱えた負債、裏社会との交際を断絶など難題をクリアしことで4人(豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明)による新体制がやっと軌道に乗ったに思えたが、新たなる難題が振り掛かった。社長兼エースである豊登がギャンブルにのめり込み始めたのだ。

豊登はギャンブル依存症で、力道山生存時もギャンブルでのトラブルが原因となって度々失踪することがあったが、力道山は豊登が可愛かったこともあって咎めもしなかった。社長兼エースになってからは社長業を芳の里に押し付け、日本プロレスの金庫から金を持ち出してはギャンブルに流用しており、日に500万もつぎ込むことがあった。また副社長の芳の里は性格は温厚ながらも経営には疎く、入門したての高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)もリストラされそうになり、既に当時の大卒初任給の二カ月半分の退職金を受け取っていたのにも関わらず、芳の里が高千穂は素質を見込んで残し、高千穂が退職金を返そうとしても「ああ、いい。それ、取っとけ」と応じないなど、経理も杜撰でどんぶり勘定だった。それを利用して経理・営業・総務を兼任していた重役である遠藤も興行の収益の一部を抜いて自分の懐に入れていた。遠藤も4人の中では一番古参だが、所属ではなくフリーとして日本プロレスに参戦していたにすぎず、力道山とは生前から金銭トラブルが生じていて険悪な関係となっていたが、力道山死去後は児玉や田岡のに意向によって新体制に入り込んでいた。

豊登はグレート小鹿、星野勘太郎、林牛之助(ミスター林)、高千穂らを下に置いて「隼隊」という親衛隊を率いていた。その隼隊に「オマエら、遊ぶ金がないだろ、興行をやれ」とアメリカのバンドであるベンチャーズのコンサートを請け負うことになった。コンサートは日本プロレスの取引先である印刷会社がプロモート権を持っていたが、豊登が譲ってもらい、隼隊に任せたものだったが、ところが直前となって遠藤が興行権を横取りしてしまって大儲けをしたため、激怒した豊登が隼隊に命じて遠藤を袋叩きにして制裁、顔面を真っ黒にしてボコボコにされた遠藤は隼隊に謝罪させられてしまう。

そこで日本テレビはエースを豊登からジャイアント馬場に変えるように働きかけていた。日本テレビはギャンブル依存症を抱える豊登をエースにすることを不安視しており、豊登はあくまでつなぎで、将来的には馬場をエースにと考えていた。豊登も自分は社長には向いていないと自覚して、あくまで繋ぎと考えていたが、豊登は将来的なエースが馬場ではなく、自身が可愛がっていた猪木に任せようとしていた。

豊登は9月にアメリカ遠征をおこない、保持していたWWA王座の防衛戦を行った。1964年12月6日に豊登がザ・デストロイヤーからWWA王座を奪取した際には3本勝負でうち1本が反則裁定だったにも関わらず王座は移動したか、デストロイヤーが挑戦した際には豊登が3本目で反則負けになっても日本プロレス側が「反則裁定では王座は移動しない」を主張して王座を防衛させてしまったことでWWA側との摩擦が生じ始めていた。日本プロレスは力道山が死去後は保持していたインターヘビー級王座やアジアヘビー級王座は力道山家の管轄だったため封印され、シングル王座はない状態が続いていたことから、WWA王座をそのまま日本プロレスの王座にしてしまおうと目論んでおり、また豊登も大の飛行機嫌いで気に入っていたハワイまでのフライトは耐えられるものの、アメリカ本土まで長時間のフライトには耐えきれないため、アメリカでの防衛戦を拒否していた

WWAは日本にベルトを渡している間は、あらかじめベルトの紛失に備えるために用意していたスペアのベルトをカリフォルニア州ヘビー級王座に仕立てて看板タイトルにしていたものの、豊登にアメリカまで来る意志がないことがわかると、カリフォルニア王座をWWA王座にしてしまい防衛戦を始め、それが日本に報じられたことで、豊登がやっと重い腰を上げて、ロスまで出向いて統一戦を行うことになった。

試合は豊登がアメリカ側の王者であるルーク・グラハムを2-0で破り、一旦は王座を統一したが、再戦では豊登が1-1の後で反則負けとなり、豊登に帯同していた芳の里は反則裁定で防衛を主張したものの、WWA側は王座移動を認めてしまった。日本プロレスはデストロイヤーから王座から奪われた時のしっぺ返しを食らったわけだが、WWAは大事な外国人供給ルートだったこともあり、このままWWA王座を日本で所有し続けると、外国人ブッカーを務めるミスター・モトの顔まで潰してしまう。摩擦を解消するにはベルトを”返還”するしかなかったのかもしれない。

WWA王座の独占を諦めた日本プロレスはインター王座を復活させることを決意するが、王者は豊登ではなく馬場を抜擢することになった。日本プロレス内ではWWA王者でなくなった豊登降ろしが遠藤を中心に画策されており、横領を追求し始めたことで、人望を失った豊登は孤立していった。

しかしインター王座は力道山家の所有で、使用するにしても縁を切ってしまった力道山家に頭を下げて使用許可を得るわけにはいかない、そこで思いついたのは当時アメリカマットの最大組織であるNWAの看板を使うことだった。この時点で日本プロレスはNWAに加盟していなかったが、WWAより権威がある。インター王座に力道山の看板だけでなくNWAの看板もつければ、そのベルトを馬場が巻くことでWWA王座を巻いた豊登より上に立つことが出来ると考えたのだ。

インターヘビー級王座はNWA認可のベルトとして復活。11月24日に力道山が生前呼びたかった大物であるディック・ザ・ブルーザーが初来日を果たし、馬場とインターナショナルヘビー級王座をかけて決定戦が行われ、2本とも反則裁定となって2-0で馬場が勝利となり王座を奪取、3日後の27日蔵前で行われた防衛戦では1-1の後で両者リングアウトとなって防衛も、強豪ブルーザーと互角に渡り合ったことで、馬場はファンからエースと認められる存在となることが出来た。

そして12月に豊登が腎臓病を理由に欠場すると、年明けの1月に日本プロレスは豊登の社長辞任、レスラー休養を発表する。表向きの理由は腎臓病による体調不良だったが、豊登が不透明な公金使用が3000万も超えていたため、協議の結果、豊登は更迭されたのが本当の理由で、副社長で豊登とは相撲時代からの盟友だった芳の里はかばったものの、経理を担当する遠藤の追及が厳しかったため、かばいきれず、豊登を追放せざる得なかったが、この時遠藤も自身が流用した金も豊登が使い込んだとして処理していたという。おそらくだが豊登の追放は遠藤自身が豊登らによって袋叩きにされた報復も兼ねていたのかもしれない、しかし追放された豊登も黙ってはおらず、馬場より自身の後継者と考えていたアントニオ猪木を引き抜き、東京プロレス設立へと動く。

次期社長には副社長だった芳の里が就任、遠藤は金には汚いが芳の里より営業力や経営能力にも長けていたこともあって、実質上日本プロレスでNo.2の存在となった。遠藤はこれを契機に力道山の名のつくものを一掃し始め、常設会場だったリキスポーツパレスの売却を進める。リキパレスは力道山が事業資金の捻出するために抵当にかけられており、売却は免れない状況だった。そこで当時営業部長だった吉原功が常設会場を失いたくないことから「リキパレスは日本プロレスが買い上げるべきだ」と主張して資金集めするも、遠藤は「吉原は資金を集めて日プロそのものを買収しようとしている」と吹聴してリキパレス買収計画を握りつぶしてしまう。遠藤は吉原とは普段から折り合いが悪かったこともあり、リキパレスの売却の件を利用して吉原を失脚に追い込もうとしていたのかもしれない。この仕打ちに怒った吉原は、この時期帰国していたヒロ・マツダを担ぎ出して国際プロレス設立へと動くために退社し、芳の里も遠藤とは違って吉原とはプライベートでは仲が良かったこともあって引き留めたが、吉原は応じず日本プロレスを去り、これによって日本マット界は多団体時代へと突入していった。

豊登は東京プロレスを設立してもギャンブル依存症は治らず、それが原因で猪木と金銭トラブルになって東京プロレスは分裂、豊登は東京プロレス残党らと共に国際プロレスに移籍、グレート草津やサンダー杉山と共にトップの一角を担ったが、1970年2月に引退、現役としてはまだまだ通用できる力量はまだ残っていたが、ストロング小林やラッシャー木村が成長してきたのもあって、豊登は必要とされなくなり、実質上はリストラだった。

そして、馬場に加えて崩壊した東京プロレスからアントニオ猪木が出戻り、柔道界からスーパールーキーとして坂口征二も加わったことで、日本プロレスは黄金時代を迎えたが、遠藤の意向でこれまで日本テレビで独占してきたプロレス中継にNETが参入、猪木を番組の主役に据えた。遠藤はNETからの放映権料も入ると自分の懐に入る金も多くなると考えたが、これが日本プロレス分裂の引き金になることは誰も予想するものはいなかった。

そして豊登は猪木の要請で新日本プロレスの旗揚げに参加、1年後の1973年にひっそりと引退、1998年に死去、享年63歳だった。

(参考資料 GスピリッツVol.31 「特集・日本プロレス」ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.3 「年末年始の大波乱」Vol.12「団体の誕生 消滅 再生」日本スポーツ出版社「プロレス醜聞100連発」)

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