サンマルチノ首折り事件…スタン・ハンセンが日本に定着するまで


1976年4月26日、ニューヨークMSGでWWWF世界王者だったブルーノ・サンマルチノに、当時26歳だったスタン・ハンセンが挑戦、試合はハンセンがサンマルチノにボディースラムを仕掛けた際に汗で手を滑らせてしまい、首からキャンバスに叩きつけてしまう。試合はレフェリーストップでハンセンが勝利も、王座は移動せず、サンマルチノは第6頸部脊椎骨骨折という重傷を負い欠場に追い込まれたが、サンマルチノの首を折ったということでスタン・ハンセンの名は一夜にして全米に轟いた。

ハンセンはウエスト・テキサス州立大学卒業後にプロアメリカンフットボーラーとなるが、チームから解雇され、教員資格を持っていたこともあって、故郷のテキサスで中学校の教師を務めていた。そこで大学のフットボール部の先輩であるテリー・ファンクのスカウトを受けてプロレス入りし、1973年1月1日にファンク一家のエリアであるアマリロでデビュー、武者修行に来ていたジャンボ鶴田と組み、ザ・ファンクスの保持するインターナショナルタッグ王座にも挑戦した。

 その後フロリダを経て、ミッドサウス地区で大学の先輩であり盟友であるフランク・ゴーディッシュ、後のブルーザー・ブロディと再会、ルイジアナでベビーフェースだったブロディはある日、仲の良かったバック・ロブレイがファンに襲われると、ブロディはロブレイを助けるために観客と乱闘を始め、ハンセンも暴れるブロディを止めに入ったつもりが、なぜかブロディと一緒に観客や警官相手に暴れてしまい、次の日には二人がタッグを結成することになったが、それが超獣コンビ結成のきっかけとなった。

 しかしハンセンが膝を負傷してアマリロへ戻ったことで、ブロディとのコンビは解消となり、テリーのブッキングで1975年9月に全日本プロレスにボビー・ジャガーズとのコンビで初来日を果たしたが、エース外国人選手はアブドーラ・ザ・ブッチャーとオックス・ベイカーで、ハンセンは前座として扱われた。10月30日の蔵前での最終戦ではザ・デストロイヤーとシングルで対戦する機会を与えられるも敗れ、馬場からも「馬力だけの不器用なレスラー」と評価を受けたが、ブッチャーから観客をエキサイトさせるスタイルを研究するなど今後につなげていった。

 日本から戻ると、当時は「日本帰りは出世する」というジンクスがあったように、ハンセンはダラスでトップクラスのヒールとして扱われるようになり、一緒にサーキットしていたマイク・バドーシスからニューヨークへ行くように薦められた。ニューヨークへ行ったハンセンはWWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアから黒のカウボーイハット、黒革のベスト、左腕の黒のサポーター、カウボーイ・チャップスを渡され、「テキサスのバットマン」に変身、それが現在のスタン・ハンセンの誕生でもあった。

 サンマルチノとの試合で首を折った技はボディースラムの失敗だったが、それがダラス時代から使い始めたウエスタンラリアットであることが伝えられたことがきっかけとなってハンセンの必殺技として定着するようになった。しかし、サンマルチノを負傷させたことで待ち構えていたのは、サンマルチノの抗争相手であるアニー・ラッド、イワン・コロフ、ビリー・グラハムからの憎しみで、3人はサンマルチノと相手にすることでWWWFでトップを確立してギャラを稼いでおり、またビンス・シニアからもトップスターであるサンマルチノを負傷させたとして憎悪を買うようになっていった。そのハンセンを励ましていたのは負傷させられたサンマルチノで「心配するな。お前は自分自身をテイクケアするんだ。私はすぐカンバックするから」と励まされ、ハンセンもサンマルチノの励ましを受けて、サンマルチノの代わりに”サンマルチノの首を折った、憎きテキサス人”として、サンマルチノを欠いたWWWFになるべくファンの足を運ばせようとして奮闘、幸いサンマルチノの首を折ったことでハンセンの注目度が上がり、観客動員は落ち込むことはなかった。

 6月25日に大リーグのニューヨーク・メッツの本拠地だったシェイ・スタジアムでビックマッチを開催することになり、サンマルチノvsハンセンの再戦が組まれた。この時、日本ではアントニオ猪木vsモハメド・アリが行われており、シェイ・スタジアムでも衛星生中継されることになっていたが、日本では大きな話題になっていたにも関わらず、アメリカでの反応は鈍く、思ったよりチケットが売れていなかった。このままでは大赤字になると考えたビンス・シニアが頼ったのは、まだ入院中のサンマルチノで復帰して欲しいと頭を下げる形でオファーする。この時点でサンマルチノは首にコルセットが巻かれて寝たきりの状態になっており、歩行すらままらない状況で、医師からも「この患者さんに死ねというものですよ」と猛反対を受けたが、ビンス・シニアは医師からの承諾もないまま「シェイ・スタジアム」でハンセンvsサンマルチノの再戦を行うと発表してしまい、それがきっかけになったのかチケットが急速に売り上げを伸ばす。

 ハンセンvsサンマルチノの再戦が行われたが、サンマルチノは2週間前に退院したばかりで歩けるのがやっとの状態で、まだ頸部に細いひび割れが残っており、強い衝撃でも再び首が折れる危険性があったが、この無茶なカンバックがサンマルチの現役生活を短いものにしていった。ハンセンもビンス・シニアの指示もあってなるべく首を攻撃せず、ネックロックをやったものの、さすがのハンセンも手加減するなど神経を使った。最終的にサンマルチノの反撃でハンセンがダックアウトへ逃げる”戦意喪失”という形で試合を終わらせたが、ガードマンにかもまれて車に戻った時には、サンマルチノの首を折ったハンセン憎しのファンからナイフで腕や足を切りつけられた。ハンセンは長いレスラー生活の中で本当に恐怖を感じたのはこの時だけだったという。

 6月にはまだフランク・ゴーディッシュと名乗っていたブロディもWWWFに合流、ビンス・シニアによって新しいリングネームとしてブルーザー・ブロディと命名され、1年ぶりにハンセンとタッグを結成したが、8月7日のMSG定期戦でハンセンはサンマルチノと金網デスマッチで対戦して敗れると、サンマルチノの相手はブロディに入れ替わり、ハンセンはそのままWWWFに定着するかと思われたが、ビンス・シニアと遂にトラブルとなって、提携していた新日本プロレスへの派遣という形で、WWWFを去った。

 1977年1月の新日本に初参戦を果たしたハンセンは「ウエスタンラリアットでサンマルチノの首を折った」ということで日本でも悪名が轟いており、タイガー・ジェット・シンに次ぐ扱いを受け、シリーズ開幕戦ではいきなりアントニオ猪木と対戦し反則負けとなるも、全日本時代とは違って思い切り大暴れをしたことで、ファンにの大きなインパクトを与え、猪木自身も手の合うことからシリーズ中に4回もシングル戦が組まれ、9月の再来日に際にはついにトップ外国人選手となり、猪木の保持するNWFヘビー級王座にも挑戦、1978年には1年間ジョージアマットに専念するために来日できなかったが、1979年に久しぶりに来日すると、第2回MSGシリーズの公式戦でアンドレ・ザ・ジャイアント相手に互角に渡り合い、大本命のアンドレを差し置いて優勝決定戦に進出したことで、新日本のトップ外国人選手へと昇り詰めていく、1980年2月には猪木を破ってNWF王座を奪取、2か月後には猪木との再戦で敗れ王座を明け渡したが、猪木との戦いで日本マット界での地位をゆるぎないものにした。

 後年ハンセンは「(新日本に参戦する際に)ギャラなどの条件はビンスと新日本で勝手に決めてしまったが、結果的にこのブッキングに関してはビンスは感謝している」と答えているが、ビンス・シニアも厄介払いのつもりで新日本にハンセンを譲り渡したが、WWWFで得た経験を成長の糧にして日本で伸し上がった。ビンス・シニアもハンセンが日本で大ブレイクしたことをどう思っていたのだろうか…

ハンセンは1981年から全日本プロレスへ移籍、馬場や鶴田、天龍源一郎、師匠であるファンクスと激しい戦いを繰り広げ、アメリカマットがテリトリー制が崩壊したことで、基本的にフリーランスで活動していたハンセンも日本マットを主戦場にせざる得なくなっていたが、四天王プロレス時代へと突入すると、ハンセンは1年のほとんどが全日本プロレスに参戦していたことから、ほぼ所属のような扱いになり、2000年に三沢らが離脱してもハンセンは全日本に留まったが、10月21日の愛知県体育館大会で天龍とシングルで対戦した後で欠場、ハンセンは四天王プロレス時代から古傷の膝だけでなく腰の調子を悪くしていたことから満身創痍の状態で戦っており、天龍との対戦を契機に引退を決意していた。最終戦である28日の武道館大会には出場しハンセンはスティーブ・ウイリアムス、ウルフ・フォークフィールドと組んで渕正信、藤原喜明、ジョニー・スミスと対戦、試合はスミスがブリティッシュフォールでウルフを降したが、ハンセンは新日本から全日本へ移籍を決めた際に新日本マットに別れを告げるかのようにテンガロンハットを客席へ投げ入れたが、この日もハンセンは客席にテンガロンハットを投げ入れ、この試合を最後に現役生活に別れを告げた。

 11月19日にハンセンは正式に引退を発表すると、1月28日の東京ドーム大会で引退セレモニーが行われ、引退セレモニーはこの時は新日本とも提携していたこともあって、新日本と全日本の両団体の選手が揃い、引退セレモニーに華を添え、引退以降はPWF会長として全日本に携わり続けた。

2016年になるとビンス・シニアからビンス・マクマホンに引き継がれたWWEによってハンセンはWWE殿堂入りを果たした。ハンセンとWWEとは1990年に開催された日米プロレスサミットの以来接点はなかったのだが、ビンス・シニアとは様々な確執があったとはいえ、サンマルチノ戦での首折り事件は後年WWEが認めたということなのかもしれない。
(参考資料 GスピリッツVol.27 特集スタン・ハンセン、ハンセンの新日本での試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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