引退直前まで藤波辰爾を追いかけた男・木村健悟


2月28日の後楽園ホール大会で武藤敬司の主催する「プロレスリングマスターズ」でアントニオ猪木が登場、藤波辰爾や長州力などかつての新日本プロレスの選手が揃う中で、サプライズとして杖を突きながら木村健悟も登場して元気な姿を見せた。

木村健悟は1969年に大相撲で初土俵を踏むも、1年足らずで廃業して1972年1月に日本プロレスに入門も、当時の日本プロレスはアントニオ猪木がクーデター事件で追放されたばかりで大いに揺れていた。8月に佐藤昭雄相手にデビューするも、シリーズ中にはジャイアント馬場も日本プロレスから離脱することが決定しており、木村は海を眺めながら巡業に帯同していた東京スポーツの門馬忠雄記者に「この会社は。潰れるなあ」と漏らしていた。

木村は付き人を務めていた坂口征二に追随することになって日本プロレスを離脱して猪木が旗揚げしていた新日本プロレスに移籍、猪木と坂口の合同会見が開かれると、猪木に付き添う形で藤波辰巳(辰爾)がいた。藤波も1970年に日本プロレスに入門していたが、猪木が日本プロレスから追放されると藤波も追随して離脱しており、入れ替わりに入門していた木村とは初対面だった。藤波を一目見た木村は「この時に既にライバル意識を持っていた。噂でもの凄く運動神経もいいと聞いていた。筋肉質だし精悍な顔をしていたしね。こいつを抜かなきゃ、トップになれないと思っていた」、木村は途中入団組だったこともあって外様のような扱いを受けている雰囲気を感じていたが、藤波に追いつけ、追い越せというも目標を掲げ、新日本の厳しい練習にも耐えていった。

木村は1975年の「第2回カール・ゴッチ杯」で準優勝となるが、なかなか海外武者修行に出る機会は与えられず、その間に第1回に優勝して海外武者修行に出ていた藤波がMSGという大舞台でWWFジュニアヘビー級王者となって凱旋して一気にスターダムへと伸し上がる。木村は一躍新日本のトップの一角に食い込んだ藤波を横目で見る日々を過ごす中、1978年にやっと海外へ武者修行に出されることになり、プエルトリコではプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取、ロスサンゼルスからパク・チューを名乗り、メキシコEMLLではNWA世界ライト級王座を奪取した。新日本ではNWA世界の名の付くベルトはこの時点では誰も奪取していなかったのだが、1982年に初代タイガーマスクがNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取したのに先駆けて、軽量級ながらも木村がNWAのベルトを奪取する快挙を成し遂げていたのだ。

残念ながらベルトは持ち帰ることが出来ず、1979年に凱旋帰国するも、凱旋時は藤波を中心としたジュニアヘビー級ブームの真っ只中で、新日本のジュニア戦線は藤波、チャボ・ゲレロ、剛竜馬が中心となっていたため、木村は割って入れず、ライト級ながらもNWAを奪取した実績は日本では役に立たないことを思い知らされた。

凱旋しながらも燻る状態が続いた木村に12月13日の京都府立体育館大会でやっと藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するチャンスに恵まれた。序盤こそはグラウンドの攻防で凌ぎを削るも、藤波がロープに押し込んだ際に張り手を浴びせると、木村はインディアンデスロックからの足攻めで反撃、藤波も弓矢固めで反撃し、ドロップキックが相打ちになると、コーナーへ昇った藤波をデットリードライブで落とし、場外へ逃れた藤波にトペと見せかけてプランチャを発射、しかしリングに戻ると藤波がバックドロップ、サイドスープレックスで反撃すると、今度は木村が場外へ逃れたところでドラゴンロケットを発射も、木村も譲らず場外でのバックドロップで応戦、リングに戻ってもダブルアームスープレックス、バックブリーカーと攻勢に出た木村は卍固めで捕らえコブラツイストへと移行、ロープブレイクとなった際に間が開くと、隙を突いた藤波がジャーマンスープレックス、パイルドライバーと畳みかけて3カウントを防衛、木村は打倒・藤波を果たせなかったものの、館内が木村の健闘振りを称えたことで、剛を押しのけて藤波の日本人ライバルの座に昇り詰めることが出来た。

1980年に木村はブレット・ハートを破りNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を奪取する。インタージュニア王座は元々藤波が保持していたものだが、藤波が負傷したことで返上となり、木村にチャンスがまわってきたものだった。木村は9月25日広島でインタージュニア王座をかけて藤波と対戦、今度は立場が逆となったが、藤波の鉄柱攻撃で木村が流血すれば、木村の藤波のドラゴンロケットを自爆させて流血させるなど大激戦となり、木村がコーナーからダイブを狙ったところで藤波がドロップキックで迎撃するも、互いにダメージのせいで立ち上がれず両者KOとなり、木村は防衛を果たすが、打倒・藤波を果たすことが出来なかった。

 木村は10月にチャボに敗れてインタージュニア王座から転落すると、11月から開幕した「第1回MSGタッグリーグ戦」では藤波とタッグを結成してエントリーしたことがきっかけに、藤波と木村のライバル関係は形骸化され、1981年から二人ともヘビー級へ転向するが、1982年に藤波がWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、長州力と抗争を繰り広げるようになると、藤波との差が開いた木村は初代タイガーの引き立て役や、vs維新軍団との先兵役に甘んじるようになっていく。

 その木村が藤波との差を詰めていったのは1984年10月からで長州力、前田日明など主力、中堅、若手がこぞって退団し新日本の選手層が一気に薄くなると、木村は一気に猪木、坂口、藤波に次ぐNo.4の座を手に入れ、1985年のIWGPタッグリーグ戦では藤波とのタッグで優勝を果たし初代IWGPタッグ王者となる。

 1986年になると木村は今年こそチャンスとして10月9日、両国国技館で開催される猪木レスラー生活25周年記念「INOKI 闘魂 LIVE」で藤波との対戦を訴えたが、藤波は「なぜ戦わなければならないの?」と反応は鈍く拒否され、この時は木村は一旦引き下がったものの、納得したわけではなく、12月10日の大阪城ホール大会でやっと実現となったが、気負いが目立ったせいもあってジュニア時代のような熱い試合は出来ず、藤波の回転エビ固めの前に敗れてしまった。

 1987年1月2日後楽園大会で木村は再び藤波と対戦するチャンスが与えられ、これが最後のチャンスと考えてきた木村はパンチなどラフを繰り出し、イスの上でのパイルドライバーから稲妻レッグラリアットで3カウントを奪い、藤波から初勝利かと思われたが、木村の足サポーターから棒状の凶器が見つかったため無効試合となってしまう。
 これを受けて3日の後楽園で再戦が組まれたものの、エキサイトした藤波が殴り合いに持ち込むと、木村を流血に追い込み、さらに額にナックルを打ち込み、制止に入ったレフェリーも突き飛ばしたため反則負けとなって、反則裁定ながらも藤波から初勝利を収めるも、試合後も収まりが着かない両者は乱闘を続けたところで猪木が現れ「やるならやれ!オレがレフェリーをやってやる!」とアピールしたことで、1月14日に後楽園ホールで二人によるワンマッチ興行が開催されることになる。

 試合ルールは時間無制限1本勝負で場外カウントなし、ピンフォール、ギブアップ、KOのみの完全決着ルールとなり、リングもスプリングを外して硬くするなど受け身の取りづらくされた。ところが試合となるとレフェリーは猪木ではなく、当時新日本に参戦していた上田馬之助が裁くことになった。上田は日本プロレス時代はガチンコの象徴とされていたことから正々堂々な試合をさせる意味で起用で、木村も武者修行時代のロスサンゼルスで上田とはタッグを組んでいた。さすがの木村も大先輩がレフェリーをやることになったことでクリーンファイトに徹するせざる得ず、木村が稲妻レッグラリアットを狙ったところで、キャッチした藤波はサソリ固めで捕らえ、逆エビ固めへ移行、最後はバックドロップから逆片エビ固めでギブアップを奪い、木村はまたしても打倒・藤波の夢を果たすことは出来なかった。

 藤波と木村はその後タッグを組まず距離を取る関係が続いたが、長州が新日本にUターンを果たすと、世代闘争が勃発し新世代に組み込まれた藤波と木村は再びタッグを組むようになり、11月のジャパンカップ争奪タッグリーグで藤波と組んでエントリーした木村は開幕戦で藤波の援護を受けてからこれまで何度も煮え湯を飲まされ続けた長州から初フォールを奪い、その勢いに乗ってタッグリーグを優勝、1988年には藤原喜明&山崎一夫組を降しIWGPタッグ王座に返り咲く。

 だが、IWGPタッグ王座転落後は藤波との差が開くだけでなく、橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋の闘魂三銃士の台頭で木村は中堅で一歩引く立場となるが、1992年に越中詩郎、小林邦昭らの反選手会同盟(平成維震軍)に参加すると、8月15日の神戸ワールド記念ホール大会で6人タッグながら木村は稲妻レッグラリアットで藤波から初フォール勝ちを収め、平成維震軍末期になると木村は藤波とユニットを越えてタッグを再結成し再びIWGPタッグ王座を奪取した。

 2003年に木村は体力の衰えを理由に引退、引退試合に藤波を指名したが、新日本の社長となっていた藤波は多忙と胆石の治療で長期欠場しており、木村の引退試合の相手は西村修が務めることになった。これを受けて木村は「西村がわざわざ相手してくれて、感謝しなければ」と答えていたが、引退後に「今考えれば藤波さんは完全に僕のことなんて頭になかっただろうなあ、まるで僕のことを避けているようだったもんね(笑)、結局、藤波さん、腰が悪かったんだろうと思うけど、もしオレだったら『腰が悪いけど出来るところまでやるよ』なんて言って対戦していると思うんですよ」と本音を明かしていた。藤波は猪木を追い求めていることしかなく、木村に目を向ける余裕がなかったとしているが、藤波にしてみれば、猪木が坂口が女房役なら、藤波は木村を女房役として考えていたのではないだろうか…

現在では木村は新日本を去り、東京都品川区議会議員となって政界へ進出、黄色靭帯骨化症を患ったことで杖を着いて歩行を余儀なくされるが、今でも元気な姿を見せている。

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.17「日本人対決の衝撃」)

  

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