日本からメキシコへ渡った男・ウルティモ・ドラゴン!


1988年7月29日、メキシコシティで日本人の若者がUWA世界ウェルター級王座を奪取した。その名は浅井嘉浩、浅井はアントニオ猪木や初代タイガーマスクに憧れて新日本プロレスの入団テストに合格したが、浅井は履歴書には身長178cmと記載しながらも、実際は170cmしかなく、身長の合格ラインに達しなかったため一転して不合格になるも、日本ボディービルダーの会長から山本小鉄を紹介してもらい、小鉄も同じ身長が足りないながらも、力道山に熱意を買われたこともあって力道山に日本プロレスに入門を許された過去があったことから、浅井を内弟子として面倒を見ることになり、浅井は新日本の道場で練習するようになった。

 浅井は小鉄がコーチとして係わっていたジャパン女子プロレスを観戦した際に、UWAの代表だったカルロス・マイネスと知り合うと、小鉄にメキシコ行きを直訴、小鉄はジャパン女子のレフェリー兼任コーチだったグラン浜田に浅井の面倒を見るように頼み、浜田のルートでメキシコに渡って、1987年5月にUWAでデビューを果たした。UWAは1975年に旗揚げされ、全盛期には老舗団体であるEMLL(CMLL)を凌駕するなど一大勢力となっており、浅井はUWA世界ウェルター級王座は3ヶ月で失ったものの、一躍エストレージャ(スター)の仲間入りを果たした。

浅井の活躍は日本にも知れ渡ると、真っ先にオファーをかけたのはジャパン女子だった。ジャパン女子プロレスは1986年に旗揚げしたが、旗揚げ直後から経営が芳しくなく、テコ入れとしてアントニオ猪木の元側近で”過激な仕掛け人”の新間寿氏と元ジャパンプロレス会長だった大塚直樹氏を顧問として招いていた。
 ところが新間氏は女子プロレスだけでなく、 男子プロレスや空手などあらゆる格闘技を融合した格闘技連合として再出発する構想を掲げ、浜田から浅井の存在を知らされた新間氏は早速メキシコへ向かい、男子部のレスラーとしてアサイを勧誘した。浅井は新日本で辣腕を振るった新間氏からのオファーには魅力は感じていたものの、ここで日本に戻るべきなのか迷うと、当時ゴングの編集長で”ドクトルルチャ”こと清水勉氏に相談し、清水氏のアドバイスを受けた浅井は様子を見るために返事を先送りにしてメキシコマットに集中することにした。

 新間氏はレフェリーだった浜田と、コーチだった大仁田厚がリング上で対立したことを利用して、二人を対戦させることをきっかけに男子部を始動させようとしていた。当時の大仁田は全日本プロレスでNWAインターナショナルジュニアヘビー級王者となるなど、全日本ジュニアのトップとして君臨していたが、左膝蓋骨粉砕骨折が原因となって引退、様々な職を転々しながら、ジャパン女子のコーチに就任していた。
 1988年12月3日、ジャパン女子のリングで浜田と大仁田が対決、そして新間氏は試合後に男子部の創設を発表する。いずれは全日本プロレスを解雇されてフリーとなっていた剛竜馬も参戦させるプランまで出来上がっていたが、新間氏やフロント側の一方的な決定に風間ルミら所属選手が猛反発したため、新間氏はジャパン女子から撤退し、男子部は事実上頓挫、浜田や大仁田も煽りを受けてジャパン女子を去らざる得なくなってしまった。

 新間氏は「新格闘技連合」を見直しをせざる得なくなり、ルチャだけの団体設立へとシフトを変える。 「新格闘技連合」 を諦めた理由は大仁田が12月のUWF大阪大会に対戦表明をするために訪れた際に、神社長が「チケット持ってますか」と門前払いで相手にされなかったのことが原因だったのかもしれない。新間氏は浜田に「浅井をしっかり押さえておけ」と指示し、大仁田には「準備するまで待て」と指示を出し、浜田からも話を聞かされた浅井も新団体へ参加することを決めた。しかし、新間氏は猪木のスポーツ平和党の幹事長を務めて多忙だったため、翌年の春になっても動く気配を見せず、焦れた大仁田はフライングすることを決意、大仁田独自で新団体FMWの設立へと動き、「プロレスは何でもありだ」ということでルチャ部門の選手として浅井を清水氏を通じてオファーをかけ、旗揚げ戦に参戦することを発表するが、清水氏自身は大仁田の団体で浅井の持ち味が引き出せるかどうか疑問に思ったため乗り気になれず、浅井もFMWに浜田も係わっていないことで乗り気になれなかった。

 FMWも最初こそは格闘技路線を標榜し、新間氏も協力する構えを見せていたが、大仁田がデスマッチ路線へと転換すると、新間氏が撤退して新団体設立へと動き出し、新間氏自身は直接係わることが出来なかったが、息子の寿恒を代表とする「ユニバーサルプロレスリング連盟」の旗揚げを発表、浜田も参加することも決まり、浅井も大仁田からの誘いを丁重に断ると、大仁田も新間氏との無用なトラブルを避けるために了承したが、新日本からもUWAを通じてオファーがかかっていた。当時のUWA会長には新日本の社長だった坂口征二が就任しており、ブラック・キャットを伴ってメキシコでの浅井の試合を視察、この試合で浅井は後にアサイムーンサルトと命名されたラ・ケブラータを初披露しており、浅井の才能を見て1989年2月11日の東京ドーム大会にUWAを通じてオファーをかけ、獣神サンダー・ライガーとの対戦を提案していた。浅井もライガーとの対戦は魅力はあったものの、浜田に「オレについてきて欲しい」と口説かれたのもあり、新日本への参戦の話は浜田がUWAに直接断りを入れて、ユニバーサルプロレスに旗揚げに参加することになったが、新日本としても猪木と新間氏がスポーツ平和党で再び組んでいることから繋がりが消えたわけでない、ユニバーサル次第ではいつでも浅井に声をかけられると考えていたのかもしれない。

 1989年3月1日の後楽園大会でルチャを中心としたユニバーサルプロレスリングが旗揚げされ、日本陣営には浜田、浅井だけでなく、FMWに参加していたものの方向性の違いで離脱していた後に外道となるブラック・アイドマン、邪道となる秋吉昭二、スペル・デルフィンになるモンキー・マジック・ワキタが加わり、UWAからも浜田の好敵手であるペロ・アグアヨ、スペル・アストロ、浅井の好敵手であるネグロ・カサス、ブラックマン、ケンドー、シュー・エル・ゲレーロ、エスパンド・ジュニアのUWAの中心選手だけでなくEMLLからリスマルクも参戦と豪華な布陣を揃え、旗揚げ戦では浅井はアストロ、ケンドーと組んでカサス、ゲレーロ、エスパントと対戦して、浅井はラ・ケブラータを披露、大きなインパクトを残して浜田の存在すら食ってしまったことから、たちまち日本でも注目選手となり、ユニバーサルプロレスも大盛況でまずまずのスタートを切ったかに見えた。

 しかし旗揚げしばらくすると、浅井と代表である寿恒氏との間で亀裂が生じ始めていた。ユニバーサルプロレスリングは大会場を使わず、後楽園ホールなど小規模な会場を使用しており、メキシカンレスラーを大量に招聘するだけでなく、浅井の成功を見てユニバーサルプロレスに入門する若手も続出、多数を入門させたため、経費がかさんで経営を逼迫させてしまい、そのため浅井のギャラを低く押さえていた。浅井はギャラ問題を含めてユニバーサルプロレスの体質に不満を持つも、寿恒氏は新間氏に頭の上がらない浜田をエースを押したて、浅井の不満を押さえ込もうとしたが、団体内での浅井の影響力も大きくなってことから、浜田でも不満を押さえ込むことは難しくなっていった。

またメキシコでの状況が変わり、1989年末にはこれまでテレビ放送されなかったルチャリブレの放送が解禁、UWAのライバル団体であるEMLLはいち早くテレビ中継を開始したことで、TVルチャブームが起こり、アグアヨを含めたUWAの主力選手はTV中継がなくブームに乗り遅れたUWAに見切りをつけて、EMLLに次々と移籍する。UWAは旗揚げの際にEMLLから大量に選手を引き抜いていたが、皮肉にもTVメディアを手に入れたEMLLにしっぺ返しを喰らう形となり、時代に乗り遅れたUWAは傾き始める。
ユニバーサルプロレスは新間氏とマイネス代表との繋がりが強かったため、UWAとの関係をあくまで重視し、これまでどおりUWAから大量の選手を参戦させたものの、EMLLへ選手が移籍した影響もあって来日する選手も固定されてカードでもマンネリが生じていた。浅井自身は下火になっていくユニバーサルプロレスやUWAを見て「このまま留まっても、自身の成長には繋がらない」と考えるようになると、EMLLの企画部長で後にAAAの代表となるアントニオ・ペーニャ氏のスカウトを受けてEMLLへの移籍を決意する。それはユニバーサルプロレスを去ることを意味していたが、浅井は日本でのしがらみに飽き飽きしていたこともあって、「日本よりメキシコが大事」と割り切ってUWAを去った。

 浅井はペーニャ氏からマスクマンになるように指示されると、佐山聡こと初代タイガーマスクに憧れており、マスクマンに変身したいという願望もあって覆面を着けることを決意して、タイガーマスクに変身することを希望する。この頃には2代目タイガーマスクもマスクを取って三沢光晴になっていたことから、自身が3代目となってもおかしくないと考えたのかもしれない。しかし、ペーニャが求めたのは龍のマスクマンだった。ペーニャは虎よりも龍の方が東洋人のイメージがあると考えており、ペーニャの指示に押し切られた浅井は龍のマスクを被るとになった。デザインも試行錯誤した結果、ペーニャのデザインした龍のマスクを着用、これがウルティモ・ドラゴンの誕生した瞬間だった。

その一方で日本では浅井にSWSへ引き抜かれるのではという噂が飛び交っていた。SWSは軽量級部門を設けるために、9月30日にSWSでブッカーだったザ・グレート・カブキを特使として派遣、SWSはEMLLと提携を結び、浅井はEMLLの極東担当としてSWSに参戦することになったが、日本では浅井がSWSへ引き抜かれたと報道された。浅井はパトリシア夫人と帰国していた際に、SWSへ既に移籍していた天龍源一郎とも接触したが、SWSへ移籍の話は一切出さず、天龍に飲めない酒を勧められただけだったが、天龍の人柄には好感は持っていた。

10月18日、アレナメヒコにて浅井嘉浩は”ブルース・リー”最後の弟子という触れ込みでウルティモ・ドラゴンとして再デビューを果たし、EMLLのエース格だったオクタゴンの盟友ということで売り出され、たちまちEMLLでもトップエストレージャとなった。ウルティモはSWSへの参戦も正式に決定するが、あくまでEMLLの選手としての参戦で所属になったわけでなかった。ところが日本ではSWSをバッシングしていた週刊プロレスは事情を知らなかったのか、いや事情を知りながらも敢えて隠したのか、ユニバーサルプロレスを擁護、浅井を引き抜いたとしてSWSを批判する。

これを受けてSWSの社長となっていた天龍が一人でスポーツ平和党の事務所に訪れて新間氏と会談した。天龍がわざわざ出向いたのは新間氏がウルティモがSWSに引き抜かれたことで、寿恒やマイネス代表の面子が潰されたとして激怒していると伝わっていたからだったが、天龍自身もSWSへ移籍する際に週刊プロレスのバッシングを受けたことから、浅井にも同じ思いをしてほしくないと考えたのかもしれない。新間氏は天龍一人だけでわざわざ訪れに来たことに驚いたが、話し合ったことで天龍の人間性に惚れ込んでしまい、浅井にはケジメとしてユニバーサルに参戦させて「卒業マッチ」を行わせることで決着、浅井は晴れてユニバーサルプロレスから卒業と言う形で円満で去ることになった。

10月29日のSWS福岡大会に浅井はウルティモとして初参戦を果たし、大会には寿恒代表が現れて激励、ユニバーサル11月7日の後楽園大会にウルティモが特別参戦することを発表、11月7日の後楽園大会をもって浅井ことウルティモはユニバーサルプロレスを卒業して円満に去ることが出来たが、清水氏は「浅井をSWSへ手引きした」として、ユニバーサルプロレスから取材拒否を通達され、浅井のユニバーサルプロレス卒業マッチを見ることが出来なかった。父である新間氏が許しても、寿恒代表の中ではSWSへ行く浅井を裏切りと見て許していなかったのかもしれない。

その後ユニバーサルプロレスリングはメキシコ武者修行から凱旋帰国したザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィンが中心となったが、ユニバーサルプロレスはあくまで浜田をエースに押し立てるが、サスケを始めとする日本人選手のギャラを低く押さえるだけでなく、UWAからの招聘も続けたことから、経営は好転するどころか更に悪化、また選手の怪我に対する対応も杜撰で、ノーギャラで参戦を強いられた選手もいたことから浜田以外の日本人選手は不満を募らせていく。
 そこでサスケはみちのくプロレスを旗揚げを決意したが、あくまでユニバーサルプロレスの東北支部で、東北でユニバーサルプロレスの興行を行い、その得た利益を選手のギャラとしてあてるつもりだった。ところが浜田を除く選手らが続々とみちプロに移籍すると、ユニバーサルプロレス側との話し合いも決裂したためサスケは独立を決意、浜田一人だけとなったユニバーサルプロレスは一旦活動を休止して、団体名をFULLと改めて再出発するも、数戦開催しただけで自然消滅、浜田はFULLの選手として古巣だった新日本を経て、みちプロに合流した。

UWAは常設会場の賃貸問題も発生、さらにペーニャがEMLLから独立してAAAを旗揚げしたことで、選手が次々とAAAに移籍してしまい、一時はメキシコを凌駕したUWAも一気に弱小団体へと転落してしまう。小規模ながらも新たなる常設会場へ移転したUWAだったが、今度はマイネス自身も誘拐される事件が起き、身代金を工面するために常設会場を手放すざる得なくなり、UWAは負の連鎖が続いたことで活動を休止、UWAが認定した各タイトルだけはメキシコだけでなく日本に定着することで名前だけはしっかり残った。

 ウルティモは日本とメキシコを股にして活躍、SWS分裂後は天龍に追随してWAR旗揚げに参加、新日本での対抗戦では浅井時代に実現しかけた獣神サンダーライガーと対戦、エル・サムライを降してIWGPジュニアヘビー級王座を奪取、またアメリカにも進出してWCWにも参戦してクルーザー級王座も奪取した。そしてメキシコで日本人ルチャドール養成学校である闘龍門を設立、CIMAやマグナムTOKYOなど様々な人材を輩出した。1998年7月に痛めていた左肘を手術するも、手術は失敗に終わり、ウルティモは長期欠場を強いられ、再起が危ぶまれたが復活を果たし、WWEにも進出、その後もオカダ・カズチカも輩出して後進の育成を続けた。そして闘龍門から独立したDRAGON GATEがウルティモを招き、最高顧問にも就任、現在でも日本だけでなく海外と股にかけて活躍している。現在では日本のプロ野球選手が頂点に達したときに、さらなる高みを目指すためにメジャーリーグに挑戦することが当たり前になったように、日本のプロレスラーも更なる高みを目指して移籍するケースが増えてきたが浅井嘉浩ことウルティモ・ドラゴンはまさに先駆者の一人だった。
(参考資料=日本スポーツ社、「あの話、書かせてもらいますⅢ」)

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