安田忠夫の遅刻から出たIWGPタッグ選手権の激戦


2002年6月5日、新日本プロレス大阪府立体育会館大会で「BEST OF THE SUPER Jr.」優勝決定戦が開催され、優勝決定戦にはIWGPジュニアヘビー級王者となっていた田中稔と、TEAM2000入りを果たしてヒールターンした金本浩二が進出した。また「BEST OF THE SUPER Jr.」優勝決定戦以外にも、IWGPタッグ選手権(王者)蝶野正洋 天山広吉vs(挑戦者)中西学 西村修、永田裕志の保持するIWGPヘビー級王座への挑戦者決定戦として佐々木健介vs安田忠夫が組まれ、試合順は優勝決定戦はメイン、IWGPタッグ選手権はセミ、健介vs安田はセミ前となった。

 この頃の新日本プロレスは武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンの3選手だけでなく、フロントまでも全日本プロレスに移籍するという大激震に見舞われ、武藤退団の責任を問われた永島勝司氏は退社、長州力も現場監督から解任され、現場はオーナーであるアントニオ猪木の命令で蝶野正洋と上井文彦氏の二人に委ねられており、当時の中西は将来のエースと期待されながらも伸び悩み、IWGPヘビー級王座に何度も挑戦するも王座は奪取できず、その間に永田裕志がIWGPヘビー級王座を奪取して先越されてしまい、PRIDEの門番であるゲーリー・グッドリッジに敗れた際には打撃を特訓、そして2002年に入るとカール・ゴッチと対面した際にジャーマンスープレックス・ホールドを伝授されるなど、様々なことに挑戦して試行錯誤しており、ゴッチに指導を受けた縁もあって西村とタッグを結成していた。

 だが、経営が傾きつつあった新日本プロレスの経営を健全化するためにベテラン選手のリストラを断行することになると、真っ先に長州がリストラ対象に挙げられ、怒った長州は取締役を辞任、4月25日の地元山口で行われた所属としてのラストマッチを行った後、5月31日の新日本プロレス道場で会見を開き猪木を痛烈に批判した。

 しかし、この長州の新日本批判は誰も同情する選手はいないどころか激怒する選手すらいた。新日本は「BEST OF THE SUPER Jr.」のシリーズ中で、現場の選手らは武藤退団ショックをどうにか払拭しようとして懸命になっていた。そんな最中で退団する長州による猪木批判はリング内のことよりリング外の話題に持っていかれてしまうことから、新日本の現場にとって迷惑な話だったが、「BEST OF THE SUPER Jr.」優勝決定戦は暗い雰囲気が差し込もうとしていた状況に中で開催された。

 大会も順調に進む中とんでもない事態が起こった。第7試合の健介vs安田が行われようとしていたが、田中秀和リングアナが「安田選手がまだ会場に姿を見せておりません」とアナウンスすると館内は騒然となる。選手らは会場入りして午後4時半にウォーミングアップを開始していたのだが、肝心の安田が現れないことで騒動となっており、上井氏もまさかと思って5時半に安田の自宅へ電話をかけると、まだ自宅で寝ていたのだ。

 1992年に幕内力士を廃業した安田は1993年に新日本プロレスに入門を果たし、橋本真也のパートナーになるなど期待をかけられていたが、ギャンブル依存症からのくる素行不良が原因となって伸び悩み、素行不良を改めようとしなかったことで新日本が匙を投げたが、アントニオ猪木の「猪木事務所」預かりとなり、格闘技路線を推進し始めていたことで安田をMMAファイター転身させ、2001年大晦日に開催された「INOKI BOM-BA-YE 2001」でMMAルールでジェロム・レ・バンナに買って勝利を収めると、その勢いで2002年2月にIWGPヘビー級王座となって一躍注目の的になるも、猪木事務所預かりになったことを良いことに、ますます増長して態度もでかくなっていった。また遅刻癖も前科があり旧ロス道場でドン・フライと合同特訓にも遅刻して、フライから鉄拳制裁を受け、「BEST OF THE SUPER Jr.」のシリーズ中にも移動バスに乗り遅れ、出発時間が遅れるなど問題視されていたが、背後に猪木事務所がいるため誰も咎めることが出来ず、それを良いことに安田はどんどん増長していった。

 上井氏はただちに安田に大阪へ向かうように指示したが、健介vs安田が行われる直前でもまだ安田は到着しない、試合も安田が姿を現さないということで試合放棄として健介の勝利でも良かったのだが、安田は猪木事務所から派遣された選手ということで、猪木事務所からのクレームが必至なため無碍に扱うわけにはいかない、そこで上井氏は窮余の一策ということで、土壇場になって試合順を変更、健介vs安田をセミに変え、IWGPタッグ選手権を逆取りしてセミ前に変更した。

  試合は30分越えの激戦となるも、中西がゴッチ直伝のジャーマンスープレックス・ホールドを決めたところで勝負あったかに見えたが、中西が右足を押さえてブリッジが崩れたために決め手にならず、西村に交代したものの中西は応急措置を施すためにバックステージへ下がり、その間は西村が一人で孤軍奮闘を余儀なくされるが、西村は突如リングシューズを脱ぎ捨て、西村のもう一人の師匠であるヒロ・マツダと同じような姿で二人に立ち向い、懸命に粘る。
 40分過ぎになると右膝にテーピングを施し応急処置を終えた中西が戦列に復帰、右脚を引きずりながらも奮戦するが、その際に放った中西のジャンピングニーが天山の顔面に直撃させてしまい、天山は鼻骨を骨折したため大量の鼻血を出す。それでも試合は双方手負いのまま続行され、60分フルタイムのドローとなって蝶野&天山の蝶天タッグが王座防衛となった。

 IWGPタッグ選手権の試合中に、やっと安田が会場入りし、健介vs安田は行われるも、健介がラリアットで速攻で勝利、メインの「BEST OF THE SUPER Jr.」も金本が稔を破って優勝も、IWGPタッグ選手権が激戦だったおかげもあって、観客のテンションが下がり盛り上がりに欠けるものになった。

 今思えばIWGPタッグ選手権も、安田の会場入りを間に合わせようとして懸命に引き延ばしていたと思う、それが功を奏して激戦となってしまったが、中西も右脚を負傷、天山も鼻骨を骨折するなど代償が大きかった。

 翌日の一夜明け会見で蝶野が現場監督として「試合順を壊す行為は許せない、ヤス(安田)の新日本の行為に対する意識は欠けている、使う必要はない」と激怒して安田を非難する。蝶野にしても天山が試合中に鼻骨を骨折するだけでなく、7日に日本武道館で棚橋弘至、鈴木健想との防衛戦が決定していたが、天山の負傷欠場で選手権が出来なくなるどころか、保持していたタッグ王座も返上するなど、安田一人の遅刻でこれだけの迷惑が出てしまったこともあって、いくら猪木事務所が背後にいるとはいえ、”安田一人のためにこれ以上振り回されてはたまったものじゃない”ということから出た発言だった。

 しかし安田は「なんで、オレが処分されなきゃいけない?猪木事務所に処分されるのならわかるけど、ふざけんなって!大阪大会でも遅刻していない。オレは会場の隅にいたんだ!」と居直ってしまう、7日の武道館大会は猪木事務所の意向が反映してか安田は出場してしまい、蝶野の訴えも猪木事務所という大きな力の前に聞き入られることはなかった。だが安田の行為が後に魔界倶楽部誕生へと繋がる。

 ゴッチイズムを吸収した中西だったが、西村とのタッグも次第に形骸化されていったことから覚醒するまでには至らず、MMAやK-1にも挑戦したが不遇の状態が続き、その中西が大爆発したのは新日本が猪木事務所から離れ、ユークス体制となった2006年からだった。

 まもなく引退を迎える中西だが、ベストバウトの一つに挙げるとすれば中西が自身の持っているポテンシャルを一気に爆発させた、2008年4月6日のZERO1‐MAXで行われた田中将斗戦、そして今回振り返ったIWGPタッグ選手権、暗黒時代で味わった不遇があったからこそ、今日の中西がある。その中西もレスラー人生もまもなく終止符が打たれる…
(参考資料=日本プロレス事件史Vol.24 「悪党の世起」

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